【轟飯ハロパロ】夜の迷い子たち①

3.吸血鬼

 珍しく雪深い夜、ひとりの旅人を拾った。満月を少しすぎた頃だったが、いくら明るくとも子供の背丈を超えるほどの雪の中を出歩く者はそういない。空の散歩にはちょうどいいはずだった。
 なのに、友を腕の中に抱えて夜空を飛びつつ冴えざえとした空気の中ゆったりと月光浴を楽しんでいたら、森を通る細道の開けた箇所に、あるはずのない黒い点が見えたのだ。
 もしまだ生きているなら、いや、たとえ命を落としていたとしても、狼や野犬に見つかる前に街に送り届けてやろう。ふたりでそう決めて、何者にもまだ踏み荒らされていない雪の上に降り立った。
 旅人はまだ幼い顔をした少年のようで、茶色い髪を顎の下辺りで切り揃えていた。身なりは外套を羽織り、小さな鞄をひとつ肩にかけているだけの軽装。揺り起こそうとした身体は冷え切っていて、呼吸も弱々しく、目覚める気配はない。このまま街に送り届けたところで死んでしまうだろう。
 決断は早かった。
 友は少年の衣服から雪を落としてやってから、毛皮のついた分厚い外套を躊躇なく脱いで、少年をそれに包んだ。そして、なぜか近くに箒が落ちていたのでそれも一緒に拾って、二人をひとまとめに抱えて温めながら帰り道を急いで飛んだ。
 館には客間などない。あったとしても整えられないまま、物置になっている。棺桶を置いてある主寝室の寝台だけは友が眠りを必要とする時にたまに使っているので、寝具が揃えられているそこに連れていくことになった。
 暖炉に薪を燃やしてから、少年の外套を脱がせた。
「お」
 驚きのあまりに、おかしな声が出る。
「むっ、少年ではなく女性だったのか」
 同じく驚いた友と顔を見合わせた。
 オレンジ色の薄いブラウスに、ふわりと短い黒のスカートは、身体のやわらかな曲線を引き立たせるような作りだった。しかし、その見慣れない奇妙な服は、雪の積もった真冬の夜には何ひとつ足りていない。幸いほとんど濡れてはいなかったので、脱がさずに丸ごと毛布で包んで寝台に横たえた。
 足元に手のひらで温めた温石を入れてやれば、青褪めていた丸い頬は徐々に赤みを取り戻していき、呼吸も安定した。額に何かがぶつかったような擦り傷があったので、鞄の中を漁って見つけた傷薬を塗って布を当てておく。
 旅人は眠っていたが、ひとり放っておくのもよくない。部屋ももう暖めてあったし、薪を節約するためにも、ふたりはこのまま主寝室で過ごすことにした。暖炉の前の敷物の上に腰を下ろし、ローズティーにブランデーを垂らしたものを飲みながら、ぴったりと寄り添って小声で話をする。
 ブランデーは友が臨時収入の一部で買ってきてくれたもので、芳醇なりんごの香りがした。雪が降った夜、森のさらに奥の方で仕掛けた罠に鹿がかかっていた。明け方にふたりで街まで運び、売るのは友に任せて先に飛んで帰ったが、しばらく狩りには出られないからと高く買い取ってもらえたそうだ。鹿から抜いた血は新鮮なうちに飲める分を地下室に貯蔵していたが、残りは腸詰に加工してもらってきた。そして、加工の手間賃代わりに雪かきと子守を手伝ったら、子供たちに樹液シロップを雪で固めた飴を分けてもらえたということだった。
 みんなとても親切で、喜んでもらえたことがうれしい。それに、急いで行ったおかげで、夜になる前に帰って来られた。
 いつものように街での出来事をにこにこと楽しそうに語る友の姿は眩しくて、胸が痛くなる。
 街の人々は彼のことを長くは覚えていられない。いつも軽く幻惑を掛けてから街へと送り出すからだ。つぎはぎの顔をいくら愛おしく思っても、見慣れない人にとっては恐ろしいものなのだ。初めてひとりで街に行かせた日の夜、嫌というほど後悔した。だからそれ以上傷ついてほしくない一心でこっそりと始めたまじないだったが、ただの幻惑だけでなく、忘れさせることで他人を遠ざけているのだと気づいた時に、心が震えた——自分の無意識の行動が恐ろしくて、なのに歓喜してしまったのだ。
 それさえなければ、彼は友人を作ることもできただろう。森の奥でふたりきりではなく、街で暮らすこともできたかもしれない。その朗らかでよく気がつく人柄がいずれは受け入れられたはずだし、そうすれば本当の容姿についても徐々に受け入れられるようなまじないを考えてやることだってできたはずだ。
 だが、それを思うたびに心臓から血が体温ごと流れ出して凍てついてしまうような心持ちになる。ずっとひとりで夜の片隅にひっそりと生きてきたくせに、友と過ごしてきた瞬きの間のような日々はそれだけ濃密だったのだ。どうしても失いたくなかった。自覚だけが遅れてやってきた。
 すぐに白状すれば、友は笑って許してくれた。
『そうだったのか! 毎回「はじめまして」になってしまうから、不思議に思っていたんだ』
 四角い目を大きく見開いて『きみはすごいなあ!』と目を輝かせていたから、『怖くねぇのか』と尋ねれば、友は『後を尾けられそうになることもあったから、ちょうどいい。これからも頼めるかい?』と受け入れてくれた。
 この旅人も、ふたりのことはすぐに忘れるだろう。館のことをぼんやりと覚えていたとしても、見つけにくいように細工もしてある。
 だから、大丈夫だ。
 すっかりいつもの調子の友の話に耳を傾けていると、視界の端で寝台の上の塊が動いた。友に幻惑をかけてからふたりで様子を見に行くと、旅人は身を起こし、不思議そうにあたりを見回していた。
「気分はどうだい?」
 旅人は友がそう尋ねるのを聞いて、何かをじっと考えていた。
「あなたは、薔薇のひと? オレンジも売りにきてた……助けてくれたんやね。ありがとう」
「おまえ、コイツのこと覚えてるのか」
 思わず声を荒げてしまった。
「えっ? あ、あぁ、魅了っぽいけどなんか違うのをかけられとったから、それで気になって覚えてたんやけど」
 そこまで言い切って、旅人は、あ、と口を噤んだ。言ってはいけないことを言ってしまったかのように。
「だけど、なんだ」
 詰問され、少し考えてから、旅人はふたりの顔を交互に見つめて答えた。
「誰にも言うてへんよ。危ない人じゃないって、見てたらわかるから……ただ、薔薇はいつもすぐ売り切れるから、次こそは、って思って見てた。それだけ」
「彼がきみを見つけたんだよ」
 友が誇らしげに伝えると、ありがとう、と旅人は微笑んだ。言葉づかいは柔和で素朴、というかざっくりとしている。魅了がどうのとかまじないを看破したと言っていたが、悪意はないようだ。
「それで、なんで森の中に倒れてたんだ? 雪の中を歩くなら準備を怠るなよ。死ぬぞ」
 それでも忠告も兼ねた厳しい言葉を投げかける。人が死んでいたら、友が悲しむのだ。それは嫌だった。
 旅人が俯くと、髪が顔に影を作った。さっきは子供のように短い前髪に気を取られ、横だけ少し長くしていることに気づかなかったが、確かにこうしてみると女にしか見えない。
「歩く予定はなかったんやけど……ただ、明るいけど雪積もってるし、人もそんなに出歩いとらんから、飛んでみるにはちょうどいいって思って出たんだ。でも、思ったより寒くて、おまけにフクロウかな、コウモリかな? 飛んできたのにぶつかって落ちてしまって。そしたら箒もなくすし、しばらく倒れてたみたいで凍えてもうた」
 苦笑いとともに語られた話を聞いた友が拾ってきた箒を差し出すと、ほっと肩の力を緩め、旅人はまた礼を言った。
「おまえ、飛べるんだな」
「私、魔女だから。今日初めて飛んだけど」
 箒を点検しながら、旅人はそう名乗った。
「魔女!? なんと、実在していたのか!」
 友が素直に驚いている。御伽噺の中にしかいないはずの存在を突然名乗られたのだから、無理もない。魔女といえば物語のそれか、かつてこじつけのような理由をもって不当に住処を追われたり命を奪われたりした無辜の人々についての知識がうっすらとあるくらいだ。
「復活させたの。曾祖母の代で途絶えてしまったのを、日記とか昔の文献とか調べて。昔から作る薬がよく効くって言われてたから、もしかして、って思って。飛ぶのもすごく難しかったし、あとはおまじないをかけたり見破ったりするくらいで、大したことはできないんだけどね」
 そうは言うが、そんなことができるのはこの魔女くらいしかいない。これまで幻惑が一度も破られたことがないのが証拠だ。
 素晴らしいな、と友の惜しみない賞賛が旅人、改め魔女に向けられる。だが、それにすぐさま同調するのは少し癪だった。
「一人で無茶するなよな」
「でもここの森なら安全だよ? 盗賊も出ないのに、なぜか他の人もあんまり寄りつかんし。やたら寒かったのと雪の中に落ちたのは想定外だったけど」
「寒かったのは自ら向かい風に飛び込んでいくようなもんだからだろ。それに、盗賊は俺たちが散歩のついでに掃除してるから、たまにしか出ないだけだ」
 うんうんと頷く友の腕ががっしりと肩に回される。側頭部の螺子が頭にぐりぐりとうれしそうに押しつけられた。
「ねえ、さっきから気になっとるんやけど、おふたりさんは、何者なの? 赤白くんはともかく、ツギハギくんもそのおまじない以外の魔法っぽいなにかを感じる」
「そうなのかい?」
 ひどく大雑把な呼び名に怯むこともなく、友は尋ねるが。
「……悪いが詮索はやめてくれ」
「あ、ごめんなさい。助けてもらっておいて、失礼だった」
 魔女は謝り、欠伸をした。
「もう少し休んでろ。夜が明ける前に街まで送る。飲み水はそこの水差し、眠れないならブランデーもある。食い物は鹿の血の腸詰とパンくらいしかねぇが、腹が減ったなら言ってくれ」
 他に何かあったか、と友の方を向くと、魔女が尋ねた。
「ベッドはこのまま使っちゃっていいの?」
 代わりに友が説明する。
「問題ない。俺はあまり眠らなくてもいいからな。彼はそこに寝床があるし、元々夜には眠らないんだ」
 魔女は示されたとおりにベッドの足元を覗き込んだ。
「え、棺桶……ってことは」
 魔女はわずかに怯えた様子を見せたが、すぐに、ぶん、と頭を振ってから尋ねた。
「赤白くんはもしかして、吸血鬼、なの?」
 おずおずと告げられた聞き慣れない言葉に、そろって首を傾げる。
「吸血鬼?」
「それはいったいなんだい?」
 魔女は丸い目をさらに丸くした。
「人を襲って血を吸う、えっと、怪異、みたいなの。知らない? わりと有名なんやけど」
 怪異という言葉は、少しつっかえていた。最初はもっと直截なものを選んでいたかのように。じわりと滲むその灰色の気分は、友と出会ってから久しく感じていなかったものだった。だけど、大丈夫だ。いまも変わらず、友がそばにいる。
「人の血はあんまり飲みたくねぇな。だいたい家畜か、狩った動物ので済ませてる」
「そっか。鏡に映らなかったりする?」
「うむ、だから俺が彼の身支度を整えているんだ」
 胸を張る友の姿に思わず笑ってしまうと、「牙、生えとる」と呆けたように魔女が呟いた。
「あとは、陽の光で身体が焼けちまう」
「でも見た目がぜんぜん違う、気がする。いや、部分的にはあってるかも? 雪白の髪と鋼の瞳が」
 思わず顔の右側を手で覆ってしまうと、友が割り込み、前のめり気味に尋ねる。
「それは先ほど話していた、曾祖母殿の日記にあった記述なのだろうか。名前があるということは、他にも彼のような存在がいるということか?」
 そう言われても現実味が薄い。自分と似たような存在がいる——そんな可能性は考えたこともなかった。なにせ、自分がかつては人間だったことと、ここよりも寒いところに暮らしていたこと以外はわからないのだ。
「うん。別の魔女の手記にもいろいろ出てきてた。でも、言い伝えがたくさんあって、いまのはこの辺りじゃなくて、曾祖母が聞いた魔女仲間の故郷の話なの。その吸血鬼ってのはきれいな女の人で、雪の降る夜に旅人を誘惑し、血を……あっ」
 びくんと跳ねた魔女の様子に友が笑い声をあげ、肩に回した腕に力を込めた。
「しねぇよ。間に合ってるから」
 そう言うと、右側のこめかみに唇がそっと触れる。舞い降りた祝福のようなキスは、いつもより長く、重たく留まっていた。ふぁ、と魔女が気の抜けたような声をあげた。
「……ベッド、ほんとによかったの?」
「もちろん。遠慮はいらないよ」
 頬を染めてふたたび尋ねられた理由を、友はきっとあまり理解していない。だが、わざわざ説明はしないし、魔女の勘違いを正すこともしない。そのほうが都合がいい気がした。
 それにしても、そんな勘違いをあっさりと自身に許してしまうほど、魔女というものにも神の教えは響かないものなのだろうか。
「……話を戻そう。その吸血鬼ってやつだが、聖典や十字架、宿木や柊なんかを触れないって話は聞いたことねぇか?」
 魔女が、うーん、と唸った。
「ちょっとわからないな。調べられそうだったら調べるから、帰ったら日記に書いておいてもいい?」
「魔女以外に見せないなら、好きにしてくれ」
「ありがと。とは言っても、私以外にはいないんだ、魔女。この辺には、少なくとも」
 その声は明るいが、さびしげだ。友がそっと寄り添うように「俺たちもそうだ」と告げる。
「吸血鬼というのも初めて聞いたし、俺に至っては造ってもらったということ以外は何もわからない」
 話しすぎだ、と袖を引っぱると、友はあわあわと口を噤んだ。だが、魔女はただほっとしたようで、「そっか」と呟いてから、ゆるりと背をヘッドボードに預けた。
「……たくさん喋らせて悪かった。もう休むといい。夜明け前には出るぞ」
 休めと言われてようやく興奮よりも疲労が勝ちはじめたのか、魔女はしぱしぱと瞬きを繰り返した。
「うん。こんな話、いままで誰ともできなかったし、楽しかった。あと、拾ってくれて、傷の手当ても、改めてありがとう」
「気にすんな。俺たちは起きてるけど、うるさかったら言えよ」
「寝つきはいい方なんだ、私」
 そして、そう宣言した通り、ベッドに潜り込んでから二分も経たないうちに、魔女は寝息を立てはじめた。
 ふたりも揃って安堵のため息をつき、暖炉の前に戻った。
「久しぶりにおまえ以外と喋った」
「きみが遭遇するのは、盗賊や襲われてる旅人くらいだものな。ここを通るなとお願い﹅﹅﹅をするときだけだろ、話すのは」
「それだって、年に一度くらいだ、最近は」
 さっきよりも小さく囁き合うと、こんなことでも大事な秘密のような気がしてくる。
「……友達になれそうで、よかったな」
「きみこそ、とても楽しそうだった」
「俺が?」
 警戒しかしていなかったが——いや、あの魔女は友の本当の姿が見えていたのに、怖がらなかった。それに、ずっと知っていながら、これまで誰にも言わなかったのだ。そうわかった時点で、確かに警戒するのはやめていた。
「おまえの良さをわかってくれそうなのは悪くねぇと思った」
「きみのこともな。それに、たくさんのことを教えてくれた」
「あぁ」
 だが、その後は吸血鬼のことも、友の身にあるという魔法らしきもののことも、特に話題に上らなかった。今はまだ互いに受け止めきれず、話すには早いのかもしれない。
 肩を寄せ合い、手を握り、薪が燃えるのをふたり静かに見つめる。言葉は少なく、ただ乾いた木の爆ぜる音だけが沈黙を穏やかに彩っていた。
 時計が三回鳴り、やがて四回鳴った。
 友がゆっくりと立ち上がる。そして、手を引いてもらって隣に立ち、そのまま抱きつく。
「そろそろ食事の準備をしてくるよ。魔女くんも出る前に何か食べたほうがいいだろう」
「腸詰と麦の煮たやつがいい」
 だが、肩に頭を預けてねだっても、友はすぐには頷かない。
「悪くなる前に鹿の血を飲んでしまったほうがいいんじゃないか?」
「魔女のやつ、びっくりさせたくねぇんだ」
「なら今のうちに先に飲んでおいで。いざとなったら二人まとめて運んでもらわないといけないし、力が出たほうがいいだろう? スープはきみの分も作るから」
 やさしく宥められ、去り際に手の甲にキスをすると、「俺の血は飲んではいけないよ」といつもの生真面目な注意が返ってきた。
 出立したのは、まだ暗いうちのことだった。食事を済ませた魔女は元気いっぱいに「もう一回飛んでみる」と箒に跨り、ふわりと浮いてから旋回しながら上昇した。
 それを見届けてからマントを翼に変え、友を抱きかかえて魔女と同じ高度に並ぶ。
 月が沈んでしまっていたので、魔女は友に借りたランタンを灯し、空中にぴたりと浮いていた。夜空はひそやかに澄んでいた。頭上には無数の星々が瞬いて、そのさざめきが聞こえてきそうなほどだった。
「街のどの辺なんだ?」
「街というか、街はずれの、森に近いところ。裏に畑のある、赤い屋根の家だよ」
 友には心当たりがあったらしく、星の位置を確認してから、「あっちだな」と指差した。
 飛びながら、また少し話をする。
 魔女は『なんでも屋』を営んでいた。子守や畑の手伝いに、失せ物探しや占い、家まわりの簡単な修繕などを時々しつつ、住居兼店舗の店先に薬草や花で作った薬などをあれこれ並べている。そして、店じまいの後は、より善き魔女になるための研鑽を積んでいるということだった。
 歳は十六。事情があって早くから親元を離れていて、いま住んでいる家は亡くなった祖母から譲り受けたもの。夫はいないし、結婚するつもりも相手もいない。周りには夫は首都に出稼ぎに出ていると話していて、用があって出かけるときは、首都まで会いに行っていることになっている。首都とやらがどこなのかは知らないが、それで通るくらいの程よい距離にあるのだろうか。親も近くにいないなら、嘘でも夫がいると話しておかないと色々と大変なのかもしれない。
 胃のあたりに不可解に捻れた感覚が現れた。不快感のような、怒りのような。
 怒らねばならないようなことがあっただろうか。だがそれをじゅうぶんに考える前に話題はまた移り変わっていた。
「……とにかく手に入れた資料の読み解きが全然進まなくって。どこの言葉なのかも行商のおじさんは知らなかったし、そもそも本物なのかもわからないし。でもそれっぽい図案が描いてあったから売ってもらったんやけど」
「ふむ。俺なら手伝えるかもしれない。他国の言葉は、昔少し勉強したんだ。差し支えなければ、今度見せてもらってもいいだろうか」
 止める前に、友は申し出ていた。
「ええの? 命を助けてもらった上に、そんなことまで」
「まだ読めるとも読むとも決まったわけじゃねぇだろ」
 思わずそう割り込んでしまうと、友は「勝手に決めて悪かった」と謝った。
「だが、力になれるならなりたいんだ」
 そんな話をしているうちに魔女の家の上に着いていた。
「なら、今ちょっとだけ見てもらえるかな? 取ってくるから待ってて」
 そう言って、魔女はサッと地面に降り立って、家の中へと駆け込んでいった。ふたりも地面に降りて、固まりはじめた雪を道路に続く小道からどけながら待っていた。
 魔女はしばらくしてから紙束を持って出てきた。そして、「雪どけてくれたん? 何から何まで、本当に助かる」と心の底から安心したように笑った。
 ランタンの灯りで古ぼけた紙を照らし、中身を見る。
「ああ! 北方の古語だな、これは。ええと、『子供を病から守る』には……『満月の夜に香木を焚きしめて』、なんだろう、なんらかの石を清め、紋様を刻むようだ」
「香木は松の葉かもしれねぇ。で、『月光に浸しながら石に印を刻み、その石をイラクサの紐で編んだ小袋に入れて子供に持たせる』。いや、編んで巻きつける、か? こっちの図が紋様で、石の種類も書いてある。生まれ月で変わる、って書いてある」
 文章の下に描かれた図と説明を指差す。
「きみもこれが読めるのか!」
 驚いた友に問われ、気づく。
「……ああ。知ってるみたいだ」
 誰かに、教わった。その言葉は、故郷を奪われた人たちのものだった。覚えていてね。あの人——よく知る、別の恐ろしい誰か——には、けして知られないように。そうやさしく言い含められて。
 どうっ、と血が逆流したかのように、心臓が大きく波打った。気取られないよう、深く息をする。
「北方かあ……あの辺って、何百年もずっと氷に閉ざされてて、もう誰も住んでないんだよね? 魔女が多くいた地域もあるけど、それより北にあった国は滅んじゃって、氷壁の先には進めないって聞いたことがあるよ」
「そうなのか! そこまでは知らなかった」
 感心したように友が声をあげる。
「確かに国のことまではあんまり知られてないかも。昔のことだから、別の伝承と混ざったりしてるみたいで、正確な話もわからないし。でもそう考えると、言葉がわからなくても当たり前なのかな。よく知ってたね、ふたりとも」
「俺は昔から勉強が好きだったらしい。しかし、全然足りなかったようだな」
 そんな話ではない気もしたが、魔女は「そんなことないよ! たぶん同じ言葉のやつがまだあるから、また読んでもらえると助かる」と興奮気味に拳を握りしめている。
「俺も、他にも読ませてもらえるなら見せてほしい」
 友より先に答えると、魔女は先ほどの非礼も気にしていないようで、「うん、是非!」とぶんぶんと頭を振って頷いた。
 そして、次の約束を決めて、「たいしたものじゃないけどお礼がしたい」と魔女は薬草の香り袋を数種類と、友の手のひらほどの大きさの、なめらかに磨かれた透明な水晶の塊を渡してくれた。手順に従って清めてみたはいいものの、形がいびつで、何に使っていいかわからない、置いておくだけでもきれいだから、と言われて受け取った。
 帰路につき、遠くの山脈の稜線が白みはじめても、眠気は感じなかった。ただ黙って飛んでいたが、腕の中の友も黙って寄り添ってくれていた。
 館について寝巻きに着替え、いつもより遅く棺桶に収まった頃には、外はほとんど明るくなっていた。カーテンをきっちりと閉め直してもらえば、部屋の中に暗闇がふたたび訪れる。
「なんだかすごい夜だったな」
 棺桶の傍らに膝をついて座り込んだ友がしみじみと呟いた。だが、それ以上のことを、ふたりともまだ口にすることができずにいる。
 目を閉じても落ち着かず、何度か寝返りを打ってから、ふう、と息をつくと、友が「眠れないのかい?」と尋ねた。
「色々あったから。……もう少しここにいてくれるか」
「いいとも。子守唄でも歌おうか」
 カーテンの向こうからは、小鳥たちの囀りがかすかに聞こえる。
「いや、今日は外のあいつらに任せよう」
「わかった」
 差し出された手を絡め取り、握る。
 氷に沈み、滅んだ国。蹂躙された土地、言葉。誰かのやさしく、哀しげな声。魔女の言い伝え——雪白の吸血鬼。
 自分が何者なのか、ずっと知らないまま生きてきた。今夜、記憶の扉が少しだけ開き、わからないことがさらに増えた。
 だが、何を知って誰と出会っても、帰ってくるべき場所はここにある。
 友の手に頬を寄せ、目を閉じた。
 眠れない朝も、友の隣にいれば恐ろしくない。それだけは、変わらない。

<続く>