1.月夜
森の中の古びた館が、宵闇にしんとくるまれた頃。いつものように目を覚ましたところで、一枚の書き付けがおずおずと差し出された。
頭が取れました。
不揃いな文字を見て「そうか」と頷く。それで部屋がまだ暗いらしい。いつもなら、しょんぼりと肩を落としているこの人間——ではすでにないものが、ろうそくに火を灯している頃合いだ。
身を起こして伸びをする間に、書き付けの束がぱらぱらぱらとめくられ、太い指先が紙に刻まれた凸凹の印を器用に探し当てた。
ごめんなさい。
「謝んなよ。すぐにくっつけてやるから」
どこかで聞こえていると信じて声を張り上げて伝え、辺りを見渡す。
闇の眷属は夜目が利く。星の光ほどのわずかな明かりがあればじゅうぶん生活できるけれど、この同居人はそういうわけにいかない。きっとこの暗闇のどこかで、取れてしまった頭部は心細く転がっていることだろう。
大きく育ったすいかのようなそれは、書き物机と書棚の間で見つかった。近づけば、赤い瞳が果肉のようにひたひたと瑞々しい輝きを取り戻す。
近くに落ちていた眼鏡を拾って、抱き上げた頭部に掛けてやる。両側頭部の大きな螺子も無事なようだ。
黒く艶やかな髪を軽く整えてから身体の方に視線を向けてやると、こちらに向かって角張った動きで手が振られた。視界を揺らしすぎないようにゆっくりと部屋を横切って、寝床にしている棺桶のそばに戻る。
そして、約束したとおりにその頭部を差し出された首にそうっと乗せ、繋ぎ目の印をきっちりと合わせて動かないように押さえながら、六十まで声に出して数えた。
しゅう、すんっ、とくん。空気と体液の循環が再開する音を確認してから手を離す。
「どうだ」
「もういいよ。ありがとう」
発声器官も問題なく動きを取り戻していた。まるで魔法のように元に戻るものだと毎度感心してしまう。だけど、これは魔法でも錬金術でも、ましてや奇蹟でもない。科学——つまり、自然哲学とやらの賜物らしい。
パチン、と指を鳴らせば部屋中のろうそくがごうっと一斉に灯る。眩しさに目を瞬かせ、逃げるように暗い方を見遣ると、書棚に書物がまた増えていることに気づいた。ここをねぐらと決めた時にはその中身はあらかた盗り尽くされてしまっていて、自分では触れることのできない聖典や説話集ばかりが残っていた。そこが埋まりつつあるのは、彼が好きなように整えているからだ。在りし日の姿は知らないが、あるべき姿だ。
目が明るさに慣れてきたところで、改めて向き合って尋ねる。
「痛いところはねえか?」
「このとおり、おかげですっかり元通りさ。心配をかけてしまってすまなかった。ありがとう」
いつもは快活そうに跳ねた眉が、申し訳なさそうに下がる。
「大したことはしてねぇよ。でも、気をつけろよ」
「ああ、もちろん! 継ぎ目を補強したいから後で手伝ってくれるかい?」
「わかった」
空を切る手の動きとその少し引き攣れた笑顔に見惚れ、微笑み返す。
顔の似たところに疵があることに気がついたのは、彼が肖像画を描いてくれたからだ。お揃い、とは言い切れないが、その偶然が愛おしいと思った。
その縫い目に沿ってひと撫でしても、頼もしい笑みはそのまま変わらない。
「さあ、そうと決まれば、次はきみの身支度を整えてしまおう。着たい服を持っておいで」
そう促しながら、彼は櫛と整髪料を取り出して洗面台に置き、汲んであった水をピッチャーに入れて持ってきた。
クロゼットを開けると、やわらかい素材のシャツに赤を基調としたウエストコート、動きやすいスラックスが並んでいた。今日は飛ぶ予定がないから、マントは省略してもいい。数枚あるクラバットも小さなドレッサーの引き出しに丁寧に収められている。くったりとしたリネンの寝巻きを脱ぎ捨て下履きだけの姿になると、少しだけ肌寒い。そろそろ冬が来る。
格好なんてどうでもいいと、彼——死んでいたはずのその男を拾うまでは思っていた。ずっとひとりだったし、鏡に映らない身では最低の清潔を保つのが精一杯だった。朽ちない身体も朽ちる世界の中では共に汚れてしまう。暑さや寒さは体質でどうにかできたし、この身に備わった力で水を温めることもできる。どうにもならない時は、全身を火で清めれば事は済んだ。そうやって、たぶん、数百年ほどの時を過ごしてきた。
だけど、埋葬してやる前に、せめてもの手向けにと、ぬるま湯に浸した布でその男の身体を拭いてやっていたところで、彼は目覚めた。そして、ゆっくりと身を起こすなり、心配そうに声をかけてきたのだ。
きみ、どうしたんだい? ぼろぼろで、血まみれじゃないか。
空腹に耐えかねて、痩せ細った野うさぎの血を啜ったばかりだった。
飢饉か蝗害でもあったのだろう。実りの少ない秋だった。身だしなみなど、ますます構っていられなかった。だけど、失くした記憶の奥底からかすかな羞恥だけがぷかりと浮き上がり、凪いだ感情の水面に細波を立てた。
そんなに酷えのか。悪ぃな、鏡に映らねぇからわからなかった。
伸び切った二色の前髪の間から見つめ合った瞳は血の色に輝き、眼鏡の向こうで好奇心と使命感に瞬いていた。
俺でよければ、身繕いを手伝おう。大丈夫だ、これでも兄さんをよく手伝っていたんだよ。
彼はそう言って、手を差し出した。
そこでようやく見て取れた。彼は、人ではなかった。
たいていの人間なら目を逸らすであろう、肉片を寄せ集めて組み立てられたモノ。その手も当然、爪の黒く変色した、死人の手だ。それなのに触れられると温かく、なつかしい慈愛に満ちている。仕草や言葉遣いは堅いところもあるが溌剌と若々しく、そんなはずはないのに歳も近いように感じられた。そして、その瞳と佇まいには、たしかな知性に裏打ちされた思いやりが感じ取れるのだ。
それでも、共に過ごすうちに直感的にわかってしまった。自分と同じく、この男は魂を欠いている。
それに気づいた頃には、もうとっくに魅了されていた。だからこそ、だったのかもしれないが。
同胞も寄る辺もない、形の異なるひとりとひとり。神の国へはたどり着けない、名前すらもなくしてしまった迷い子たち。それを喜ばしいと思うたびに、魂の不在がまた証明される。
それでも、彼——友と呼ぶようになった男と過ごす夜々は、この荒涼とした胸のうちにやすらぎを与えてくれていた。
顔を洗ってからシャツを羽織り、ボタンを留めはじめた。これくらいはなるべく自分でするようにしていたが、そわそわと待機している友の存在感に根負けして訊ねる。
「変なとこねぇか?」
「襟が巻き込まれているよ。貸してごらん」
ん、と顎を上げて首を晒すと、温かな指先が布地を掬ってぴんと引っ張った。残りのボタンも留めてもらい(今日はひとつもずれていなかった)、最後にクラバットが巻かれる。スラックスを履き、ウエストコートを着せてもらい、最後に髪を整えてもらって完成だ。
「うむ。今日もとても素敵だ」
自分ではわからないけれど、満足そうな友の笑顔がすべてを物語っていた。
「毎日ありがとな」
肩に置かれた手を取り、口づけを落とす。やはり、笑顔は変わらない。
「俺の血は毒だから、飲んではいけないよ」
いつものように諭されて、そんなところからは飲めない、とは言わずにただ頷く。
「豚の血の腸詰がまだあるから、今日はそれでいいかい? 満月だから、庭でピクニックにしよう。そろそろここからでも見えるはずだ」
握り返された手にもう片方を添え、「ああ、楽しみだ」と微笑み返す。
食事の用意をしてもらっている間に、裏の温室からオレンジをいくつか捥いで、バスケットに入れる。隣の木苺も小さな籠に入るだけ採っていると、月明かりが射し込んできた。急いだほうがいいだろう。庭から月が綺麗に見える時間は、そう長くはない。
室内に戻り、木苺を布巾で拭いてから、バスケットに焼いた腸詰とパンも入れてもらい、手に手を取ってふたたび外に出る。
庭には赤と白の薔薇が競うように年々その勢力圏を広げていた。真冬以外はずっと花をつけているので、手入れがいいのだろうと褒めたことがあるが、剪定と水やりくらいしかしていないのに、と首を傾げられた。だが、色合いがきみに似ている、と言われたこともあったし、もし同じように手をかけてもらっているのならよく育つのも納得だ。それを面白くないと思ったのも、もうずいぶん前の話だ。昼間は起きていられない自分に代わって彼の慰めになってくれているのなら、それでいい。今ではそう思う。
敷布に座り、まずはカッティングボードの上でオレンジを二つ、それぞれ半分に切った。きらきらとした瞳に見つめられながら、絞り器で果汁を絞り、木製のコップに慎重に注いでから右手で凍らない程度に冷やす。食事をあまり摂れない友は果汁を好み、特にオレンジのものを飲むと調子が良さそうだった。頭が取れてしまったばかりだから多めに持ってきたと言えば、うれしそうに目を細め「ありがとう」と口元をほころばせた。
皮袋に入れてきたワインとオレンジジュースで乾杯し、焼いてもらった腸詰をパンに挟んでかぶりつくと、香ばしさと濃厚な血の風味が口の中に広がる。
「うまいよ」
短く感想を伝え、もくもくと食べる。
思っていたよりずっと空腹だった。そろそろまた新鮮な血を飲んだほうがいいのだろう。食肉用に加工されたものでも飢えは凌げるが、瞬時に力が漲るあの感覚は得られない。だが、かつて身につけたと思われる作法と、こうして誰かと食事を楽しんだようなおぼろげな記憶があるせいか、人を幻惑して首を差し出させるのにも、野の生き物にかじりついて血を啜るのにも、どうにも抵抗があるのだ。特に、友の前では。
まだ人でいたい。太陽の下では焼け爛れてしまう肌と血液への渇望、そして氷と炎の異能を持ちながら、まだそんなことに固執している。もしかすると、ふたりで過ごすようになってから、そんな気持ちが戻ってきたのかもしれない。
ひとりの頃は、ただ生き延びるだけだったのに。
隣に視線を遣ると、黒ずんだ指先で木苺を一粒摘み、うれしそうに口へと運ぶ様子が目に入った。その愛らしい仕草に、喉が渇きを訴える。
「きみも食べるかい?」
差し出された果実は、つやつやと魅惑的な血の色を湛えていた。返事代わりに口を開くと、小さな果実が舌にそっと乗せられる。牙で傷つけないよう、指が離れるのを待ってから舌で押しつぶせば、甘酸っぱくて、古い古い記憶にある夏の陽射しの味がした。それだけで渇きが少し遠のく。血の代わりにはならないが、手ずから与えられたのがよかったのだろうか。
「ありがとう。ちょうど食べ頃だな」
「まだあるなら早めに収穫してしまおうか。そろそろ最後の実りだろう?」
肩を寄せ合ってそんな相談をしていると、冷たい夜風がむき出しの額を撫でる。短い秋が終わればじきに冬になる。遠い記憶の中にある冬よりは温暖だが、それでもしっかりと支度はしたほうがいい。夜が長くなる季節を思い胸を弾ませながら、薪を割って、毛皮の敷物を出して、とやることを数えていると「なら、今度また街に行くよ」と申し出られる。
「いつも悪いな」
「そろそろ家畜を解体する時期だし、手伝いついでに新鮮な血を分けてもらってこよう」
「ひとりで平気か?」
一緒にはいけないくせに、つい訊ねてしまう。昼間は出歩けないし、夜中に飛んでいって宿屋で合流するのは、誰に見られているかわからないからできない。だから、ふたりで暮らしはじめて三年経った頃には、もうそのように決めていた。
「もちろん。きみが守ってくれているし、いざとなれば走って逃げるさ。俺は走るのがとても速いんだ」
過去にそんなことがあったのかもしれない。本人はあまり覚えていないと言うが、身体に染みついた記憶というものもある。
「そうならないように気をつけろよ」
頬に口づけをする。かつて誰かに——母か、姉か、そんな近しい人にそうしてもらった温かさを注ぎ込むように。お返しに、と頬に薄い唇が触れる。唇は少し湿っていて、離れればオレンジの香りがかすかに漂った。
そして、ふたりで他愛のない話をした。せっかく植えた花を鹿に齧られてしまったから、残っていたものを鉢に移して室内に入れた話。庭にやってくる鳥やうさぎたちの話。そして、何度も繰り返し聞いた兄の話。自分から話せることはあまりなかったが、はきはきと心地の良い語り口はいつまでも聞いていたい。
噂話を聞きつけたのか、うさぎが一匹こちらを見ているのに気づく。うさぎは紅茶にミルクを足してひと混ぜしたような色をしていた。
「捕まえようか?」
そうするのが当然とでも言いたげに、友が尋ねる。
「いいよ。友達なんだろ? 友達はできれば食べたくない」
来い、と念じると、うさぎはとてとてと寄ってきた。鼻先に木苺を一粒差し出せば、ふんふんと匂いを嗅いでからぱくりとかじりつく。もぐもぐと口をうごめかせているうさぎの身体を撫でてみると、やわらかくて、温かかい。うさぎは冬に向けて蓄えはじめているのか、早くも丸々としていた。
友は毎年同じくらいの時期に同じことを尋ねる。今夜もよほど物欲しそうな顔をしていたのかもしれない。
誰にも捕まるなよ、と言い聞かせてからうさぎを抱き上げて渡してやると、友は「うさぎくん、こんばんは。素敵な夜だな」と挨拶をしてから、カクカクとぎこちない動きで撫ではじめた。
牙がむずむずと落ち着かないのは、ワインで誤魔化した。
友達は食べたくない。だけど、この同居人にはかぶりついてしまいたくなることがある。二度と悲しませたくはないからしないけれど、それでも、どうか遠慮はしないでくれ、とふたたび許され、もう一度あの縫い目の浮き上がる浅黒い肌にこの疼く牙を沈められたら。
——おまえがいれば、何もいらないのに。
だけど、その望みだけは、叶っているようで叶わない。
茶色い毛玉と愉快そうに戯れる友の姿を眺めながら、ため息を我慢して、オレンジを手に取る。
月が隠れてしまうまでのひとときは、薔薇とワインと柑橘の甘くて少し苦い香りとともに過ぎていった。