2.怪物
紙の束に二枚の書き付けを追加して、糸で綴じ直す。
頭が取れてしまったときに知らせるものを一枚、繋ぎ目の調整を頼むものを一枚。丁寧に文字を綴り直し、きれいに乾かしたものだ。しっかりと束ねたことを確かめてから、ポケットに押し込む。
以前よりも頻繁に起こるようになってしまった多種多様な不具合を直すすべは知らない。そんなものが存在するのかどうかも。落ちてしまった首や腕は丈夫な糸を通して補強することができるけれど、古い縫い跡もそこかしこにうっすらと見えている。傷の治りが前よりも遅くなっていた。
いつから、という問いに意味はあまりない。自分がそもそもいつから存在しているのかもわからないからだ。
自分のことだけでなく、造ってくれた人のことですらほとんど覚えていないのだ。兄と名乗っていたことと、足がうまく動かなかったこと——そして、深く愛してくれていたことだけは覚えているけれど。
そう、兄がいた。友と出会う前は、兄のそばにいたのだ。
自分も仕事をしたほうがいいだろうと外に出ようとすると、止められた。着替えや入浴の手伝いをするとたくさん褒めて頭を撫でて抱きしめてくれた。高価な書物を取り寄せてくれて、おまえは昔から勉強が好きだったよな、と言ってくれた。少しさびしそうだったその顔も、互いに呼び合った名前のことも忘れてしまったけれど、確かにそうやって生きていた。
そんな兄とどうして離ればなれになってしまったのかはわからない。だけど、おそらく、この世にはもういないのだろう。取り出せない記憶の中にその経緯がしまい込まれているのか、このことについては確信があった。それに、生きていたなら、何を差し置いても探しに来てくれたはずだ。兄には気にかけてくれる友人たちだってたくさんいたのだから、助けてもらうこともできただろう。だから、きっともう。
それはこの館で目覚め、ここの主人の世話をしたり、住みやすいように館の修繕をしながらじっくりと考えて得た結論だった。そして、この十二年と少しの間でそれを否定する事実は何ひとつ見つかっていない。
悲しい、とはあまり思えなかった。どこか他人事の、書物で得た知識から組み立てたような、もっとも確からしい推論。ただ、そのように受け止めていた。
だから、ここで過ごすようになってから数ヶ月経った頃のある日、館の主人に、『今更だが、おまえはどこの何者なんだ』と問われ、迷わず兄の話をし、自分はどうやらひとりになってしまったようだと締め括った。
『兄貴のこと、大好きなんだな。……でも、帰るところはねぇのか。なら、好きなだけここにいたらいい』
その言葉は許可というよりは懇願のようで、彼もまたひとりなのだと、このときはっきりと理解した。
……いや、目を覚ましたあの夜、窓から差し込む月光を背負った血濡れの怪物のような壮絶な姿を見たときから、もう気づいていたのだろう。だから、それは再確認に過ぎなかった。
あんな姿を見たのに、不思議と怖くはなかった。彼と一緒にいられるなら心強いとすら感じた。
昼間は出歩くこともできないこの夜の住人は、二百年以上も若々しい少年の姿で生きている。生き物の血を飲まねば力が出ず、太陽の光と聖なるものからは拒絶され、出自すら思い出せないということだった。そして、死ぬことができない。どうしてそれを知っているのかはまだ聞けていないが、出会った時の姿を思えば真実なのだろう。常人であれば、召されていてもおかしくない姿だった。
初めて言葉を交わした夜、彼は鏡にも映らないから身支度も上手くできないのだと言っていたけれど、磨けば儚げなのにどこか野生的な鋭さのある、明るい月夜のような美貌が現れた。だが、守ってやらねばという決意はすぐに覆されることとなる。共に暮らしているうちにわかったことだったが、彼は細身なのに腕っぷしがとても強い。どこかで剣術を習っていたのか、棒切れだけで盗賊の意識を刈り取ったのには心の底から驚かされた。それに加えて、幻惑や魅了、さまざまな生き物の姿への変身、そして氷と炎を鮮やかに操ることまでできる。
なにより、彼はやさしかった。機能停止して行き倒れていたところを、埋葬するために身を清めてくれていたのだと知ったとき、兄もきっと同じようにしただろうと胸が熱くなった。うまく動かない足を引きずってでも、見知らぬ他人のために力を尽くしていた姿が脳裡に閃き、目の前の少年と重なった。
だから、兄がそうしてくれたように愛してみようと決意した。彼もまた、それを必要としてくれたらいいと思った。ただ、愛し方などわからない。これまでただ与えられてきただけで、返せたのは模倣した行為ばかりだったのだ。
自発的に湧きあがるものが愛ならば、自分にはそれが欠けている。さまざまな書物のページをめくって得た結論だった。そして、これもまた否定する材料を見つけられていない。
模倣でも、兄のくれたものを覚えていたかった。そして、この心優しい友にも、それを知ってほしかった。
彼にはそこまで詳しくは話したことがない。だけど、兄が見せたようなさびしそうな表情を彼もすることがあるから、この心の中の欠けた部分に気づいてはいるのだろう。
どうしたらそんな顔をさせずに済むのか。どうにか不具合が直せたらいいのだが、と思考の輪がひと巡りしたところで時計が鳴った。ひとりで物思いに耽っていたら、早くも日が暮れようとしていた。あまり睡眠を必要としない身体だが、こうしてぼんやりすることが休息になっているのか、頭の中はすっきりと晴れていた。
明日からは収穫祭の前に準備のための小さな市場が立つので、二日ほど街に出ることになっている。頭の形が隠れるように大きな帽子をかぶり、手袋の下には念のために包帯も巻いて、笑顔ではきはきと話せば大丈夫。友のおかげで顔や姿形を覚えられることはないが、なにかのはずみで街の人々を怖がらせてしまうのは本意ではない。みんな親切な人たちばかりなのだ。
目的は、家畜を解体する手伝いをして、友のために血をもらってくることだ。そのほかにも、薔薇の花と森で採れた榛や胡桃などの木の実を少しずつ持っていくから、余所者でも怪しまれることもない。物々交換でも金銭での支払いでも受け付けるので、かれらの記憶に長く残らずともいつも重宝がられているのだ。
それでも友は心配なのか、いつもどうにかして一緒に行けないかとあれこれ画策する。
昨晩などは赤い斑の入った白ネズミに変身して、どうだ、と胸を張っていたが、それでは宿屋の猫につかまってしまう、と指摘すれば不服そうにキィと鳴いた。それでも彼はその姿が気に入ったのか、しばらくネズミのまま頭や肩の上に乗って、腕を駆け下りては手の中でころんと転がったりしていた。
だけど、言葉を交わせないのは困る。街に出るまでの時間は限られているのだから。それに、一緒にいるのなら顔を見て、話をして過ごしたい。
『俺はもうすぐ出かけてしまうんだ。ネズミのきみも愛らしくて素敵だが、いつもの姿を見せてくれないか』
そう伝えてから尖った鼻先にキスをすると、たちまち友は元に戻ってくれた。いつもながら見事だと感心していたら同じように鼻の先にキスをされた。お返しだ、と微笑む彼はまたさびしそうだった。
『ちゃんと帰ってくるから』
『帰ってこなかったら探しに行く』
それはだめだ。陽の下では、彼は焼けてしまうのだから。
『いけないよ』
『……わかってる。今度は猫になる練習でもしながら待ってる』
そこからは出立の準備を手伝ってもらって、仕入れたいものをいくつかリストに追加したらもう明け方になっていた。
荷車の整備も昼のうちに済ませ、あとは夜明けまで特にすることもない。薔薇は出かける直前に切って棘を落とし、水を張った桶いっぱいに入れる。もうひとつの小さいほうの桶には、ふたりで拾い集めた木の実が詰められていた。昼にりんごも少し収穫したので、それも麻袋に入れてある。他に忘れたことはないだろうか、と身支度を整えながら振り返る。
鏡の中からは、浅黒く変色した肌と血色を失くした肌がつぎはぎになった顔が覗き返していた。引き攣れた笑み以外の表情はなかなかうまく作れない。
醜い、と落胆する心は兄が取り除いてくれていた。それでも他人からすれば、それが悍ましい姿であるとも理解している。
友は、なにも言わない。ただ、自身にも似たような傷痕があることを知るとうれしそうにしていたし、何かと額や頬や手に口づけることも厭わない。そんなときに心臓が痛み、ひしゃげたような音を立てるのも、やはり不具合なのだろうか。
……自分はあとどれくらい、ここに居られるのだろう。
そんな不安を振り切るように、ぬるま湯に浸した布で身体と顔をしっかりと拭い、縫い目の部分は特に念入りに汚れを取ってから、頭に差し込まれた大きな螺子を避けて髪を梳る。
眼鏡を拭いて掛け直すと、前髪が少し伸びていることに気づく。黒ずんだ爪も同じくわずかに長くなっている。それは生命活動の証だったが、同時に冒涜の証でもある。
生きているが、生きているはずがない。生命は人の手によって造られるものではないのだから。それでもいつかは終わりを迎えるのだろうし、その後の行き先はわからない。兄のいる場所に、たどり着けたらいいのだが。……でも、友をひとりにしたくない。
ぶるり、と肩が震えた。きっと寒いから気が滅入っているのだ、と結論づける。皮膚と同じようにつぎの当たってくたびれた衣服を身につけながら、市場で石鹸を買い足そう、と思いつく。湯に浸す香り袋も、薔薇以外のものがあれば。ふたりにはあまりその必要はないが、冬の長夜にする入浴は気持ちがいいものなのだ。
手燭にろうそくを灯して、主寝室へと足を運ぶ。共に過ごせる時間が増える冬が楽しみなのは、友だけではない。今から寒さにせつなくなっているのは勿体無い。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の奥には寝台が、そしてその足元には大きな棺桶が置かれている。
テーブルに手燭を置いてから側に跪いて蓋を開ければ、そこには永遠の眠りについているかのようにひんやりと穏やかな友の姿があった。この棺桶は元の使用予定者がよほど大柄だったのか、友ひとりでは余白が目立ち、さびしげだ。
しかし、今でこそ棺桶に納めるときのお手本のような姿勢で眠っているが、赤と白に左右で塗り分けられたような髪はぼさぼさと寝乱れていた。昼のうちに何度か寝返りを打っていたのだろう。寝巻きもよじれてしまっていて、筋肉質で引き締まった脚が片方すっかり見えていた。仕方ないな、と直してやる。
起こすにはまだ早い。けれど、どうしても顔が見たくなってしまった。
鼻の下に指を当てると微かな冷たい呼吸が皮膚を撫でた。手のひらで頬を包むと熱が吸われていくようだ。起きているときに触れてもあまり冷たくないのは、内なる炎で温めているかららしい。
さまざまな姿形や体温になる友もまた、知識にある人間とは違う。彼のような人を他に知らない。書物にも記されていなかった。
違うといえば、言葉づかいと顔立ちも街の人たちとは違う。所作は古風だが、上流階級の者を思わせるものだ。だが、この館には勝手に居着いたのだと話していたし、それ以前のことは覚えていないということだった。
なぜそうなのか。彼も、誰かに造られたのか。もっと知ってみたいとも思うが、彼自身も知らないことは知りようがない。
頬をぼんやりと撫でていたら、ん、と友の喉が小さく鳴る。慌てて手を引っ込めようとしたら、そのままやんわりと擦りつけられた。ゆるく綻ぶ唇は開いたばかりの花弁のようにあどけない。また心臓が軋む。やはり不具合だ。なのに、悪い気分ではない。
空いた方の手で今度は髪を撫でると、うっすらと目が開いた。鮮やかな碧とやわらかい鋼色がゆっくりと像を結んだのか、きらりと閃いた。そのふたつの宵の明星を覗き込み、謝る。
「ごめん、起こしてしまったね。まだ夜ではないんだ」
「だよな」
ふぁ、と欠伸をしてから友は眠たげに目を瞬かせた。安眠を邪魔したというのに、歓迎するように手を握られる。
「もう少し寝ているといい。陽が落ちたらまた起こしに来よう」
「準備は」
「終わったよ。あとは出かける前にする分が残っているだけだ」
「ならここにいればいいだろ」
それは許可ではなく、とろとろと甘い懇願だった。
「少し寒いから毛布を取ってきてもいいかい?」
「俺が温めるんじゃだめか?」
そして、友は身体を棺桶の片側に寄せて、ぎりぎりだがひとり分の場所を空けた。持ち込んでいた枕も半分空けてある。
「ではお願いしよう」
眼鏡をテーブルに置いて、ブーツを脱ぎ、棺桶を壊してしまわないよう気をつけて横になる。繻子織の内張はひやりと気持ちよかったが、すぐに腕の中に潜り込んできた友の熱で暖まる。
「もう寒くないよ。ありがとう」
ん、と答える声は、もうほとんど夢の中に戻ってしまっているようだった。
「今夜のお茶には木苺のジャムを入れようか。きみが好きなやつだよ」
聞いているかはわからないが、そう伝えてから髪に口づける。
あの遠い日の愛を覚えていたいから。真似事で申し訳なく思うが、いつか自分がいなくなる日が来ても、代わりに覚えていてほしいから。
カーテンに遠ざけられた陽光の名残が闇に塗り替えられていく中、友をしっかりと胸に抱きしめる。
いつもの買い出し、たった二日間の不在。なのに、出かける前からそれはとても長く感じられた。
これも最近よくあることで、不具合なのかもしれない。だが、これもまたそんなに悪い気はしなかった。