We Are Golden①

3.氷解、そして(二十一歳、二十二歳 秋)

 指先で摘んだ香の端がジッと音を立て、細い煙が薄暗くした部屋に立ち昇る。実体のあるものを燃やすときの重たい匂いに乗って、すっきりと清潔な花の香りが鼻腔に届いた。胡座のまま手は膝に置き、目を閉じて香の箱を思い浮かべる。そこに描かれているのは母の好きな竜胆の花だが、実際の花はそんな香りはしないらしい。母に聞いても『いい匂いだけど、なんだろうね』と首を傾げていた。
 仕事関係者からの頂き物を持て余していた際に、せっかくだからと使ってみたのが始まりだった。最初は気まぐれに指先だけを熱して火をつけようとした。だが、一箇所に火力を凝縮したせいか、それは一瞬で消し炭と化したのだ。
 手のひらに出した炎にかざせば、普通に火はつけられる。弱火程度に調整することも可能だ。だが、〝個性〟に関してできないことがまだあるのか、と興味を惹かれ、轟はやり方を極めてみようと思ったのだ。
 地味ではあるが特訓の甲斐もあって、今ではなにも考えずに指先でつまむだけで適切に火をつけることが簡単にできる。炎すらほとんど出さなくてもいい。そして、細かい制御を練習しているうちに香りも楽しめるようになったのだ。
 当時十八歳、まだ駆け出しのヒーロー・ショートをイメージキャラクターに据えるには商品が渋すぎたのか、その時の広告の仕事は結局流れてしまった。それでも、思いがけず趣味のようなものを得られたのはよかった。……飯田なら、そう言ってくれるだろうか。
 炎を見えるか見えないかくらいにまで絞るこの技術が、実際に何に使えるのかは正直なところまだわからない。ヒーロー・ショートの強みは、身体への負担を抑えながら広範囲に展開できる、攻防どちらにも有効な氷結と高火力、そして、それを最大限に活かすためのスピードだ。いつかの父のように片手の腕力だけでトラックを止めることはできなくても氷なら間に合うし、氷壁の解体のために火力だって自由自在に調整できる。火事場の馬鹿力や滅びに抗うための強い気持ちに後押しされていなくても、今では伸びやかに、完全に思いどおりに両方の〝個性〟が使えるのだ。
 そして、スピードと威力とコントロールが増すともに、いつしか父の記録まで追い越していた。気づいた直後の月命日に顔を合わせたときに一応の報告をしたら、父は『今頃わかったのか』と静かに呟き、感慨深げに目を細めた。その顔を、十五歳の自分に見せたらどんな反応をしただろう。腹を立て、周辺一帯を氷漬けにするかもしれない。あるいは、ゾッとされるかもしれない。なぜ自分はそいつを受け入れ、阿っているのかと。最高傑作なんてものになって、ヘラヘラしているのかと。
 許せているのかは、まだわからない。昔、緑谷には『許せるようになるのを待っている』と言われたことがある。でも、一生かけてもわからないかもしれない。
 母を追い詰め、身勝手な理由で上のきょうだいたちを蔑ろにし、轟の子供時代を暴力で染めあげた怪物。追い抜かなければならなかった高すぎる壁。その研鑽に及ぶべく必死に食らいつき、友と並んで自ら教えを請うた師。同じ戦場で闘った、尊敬すべき先達。一度折れかけた心を再び奮い立たせ脅威に立ち向かった、偉大なる功労者。
 過ちを悔い、今もなお贖おうとしているひとりの人間。
 ひとつひとつ挙げていっても天秤はぐらぐらと大きく揺れるばかりで、釣り合うことはない。かといって、釣り合ってほしいのかも轟にはわからない。
 もうとっくに許せてる気もする。緑谷ならそう言うだろうか。飯田ならどうだろう。考え続けることに意味がある、とでも言うかもしれない。
 想像上の親友たちと会話するのが馬鹿馬鹿しくなって、轟は胡座の足を解かないまま畳にどっかりと寝転んだ。指先が冷たく震え、左の目の端から炎がゆらめいて、すぐに消える。部屋に漂う香りを肺いっぱいに吸い込んで吐き出し、目をうっすらと開けたところで、轟は呼吸がひどく浅くなっていたことをやっと自覚した。
 ざわざわと騒がしい頭を空っぽにするための瞑想とやらは、自分には向いていないようだ。連想に次ぐ連想が徐々にうるさくなって、すべての記憶が新旧構わず同時に耳の隣で大声で叫んでいるような感覚になってしまう。
 ——自分で自分を頭の中に閉じ込めてどうする。
 轟はもう一度鼻から大きく息を吸い込み、同じく鼻から倍の時間をかけて細く細く吐き出した。何度か繰り返し普通の呼吸に戻す頃には、炎の気配も消え、指先も通常の体温に戻っていた。
 そうだ。馬鹿馬鹿しいことだ。想像なんてしなくても、明日になったら久しぶりに二人と会えるのだから。元A組全員が二十歳になった記念に開かれた同窓会以降、三人で集まるのはおよそ一年半ぶりだ。だから、ぼんやりと自己憐憫に浸っていないで、寝る支度をしないといけない。今日の昼間に助言を求めて父に会いにいったせいか、つい無駄に思い悩んでしまった。
 明日は飯田との合同訓練を、雄英で教育実習中の緑谷に見てもらう。ヒーロー公安委員会の梃入れにより、緑谷が大学に進学した年からヒーロー科の教育実習は二ヶ月にもわたる長丁場が義務付けられるようになった。その半分が過ぎたところで忙しいだろうに、先々週通話で相談したら、指導の参考にしたいから是非見学させてほしいと頼まれた。設備もOBとしての伝手で貸し出してもらえることになっているから問題はない。
 今回はとある案件に向けて試したいことがいくつかあった。ヒーロー活動にしては珍しく毎年だいたいの時期が決まっているもので、飯田とのチームアップがうまくいけば継続的な依頼になる可能性もあるものだ。
 わくわくする。たくさんの人たちをより迅速に助け、安心させられる可能性。それと、一昨年の春に持ちかけられた、とある計画。その場にいない緑谷と話を持ってきた爆豪を除いた元A組全員がひとり残らず二つ返事で承諾しつつ、最初から関わらせろ、コソコソしやがってと一斉にブーイングが上がったその計画は、かなりの予算を要求するものだった。それに出資するために、少しでも多く稼ぎたい。
 飯田やみんなと一緒に話を聞いたときには、アイツには絶対に言うなよ、と二人並んでこんこんと詰められた。飯田とセットで扱われたことがうれしくてつい笑ってしまったら、聞いてんのか相変わらずのボンヤリが、ヒトコトでも漏らしたら殺す、と一人だけ追加で怒られた。
 夢を叶え、叶え続けている。そして、自分のこの力で、もうひとりの親友の夢を取り戻す手伝いをする。新しい道を歩み始めている本人には絶対に内緒の、一世一代のおせっかい。むしろ、諦めてほしくないという自分たちのわがままという側面の方が強いかもしれない。だけど、自分たちだって緑谷を諦めたくなかったのだ。
 自分よりも口を滑らせてしまいそうなのは飯田だろうから、明日は必要ならフォローしてやらないと、と轟は拳をぐっと握り、勢いよく起き上がった。
 胸の奥で燃え続ける小さな白い熱が、一瞬ゆらめいた気がした。大丈夫。守れている。この思いも、それを向ける相手のことも、きっと。
 ぱん、と両の手を打ち鳴らし、轟は大きく息をつく。飯田は、友達。親友だ。並んでいたいから、頑張ろう。必要なら手を引けるよう、強くあろう。助けを拒んでしまわないよう、やわらかくあろう。親友以外の意味でも好きだからといって、それは変わらない。
 ずっと前に決めたその意志を、言葉にしてひとつひとつ取り出して、ほころびがないか検分しながら、痛みを逃すために深く深く呼吸を繰り返す。痛みには慣れていると思っていた。なのに、いつまで経っても心の準備が必要だ。
 間違えずにいるための、ひそやかな祈り。それは轟が飯田と会う前に行う、いつもの儀式だった。



 猛火が風に煽られ迫ってくる。乾いた生木が爆ぜ、重たくて嫌な煙が視界を遮る。轟は迫り来るものと同じ規模の炎の壁を展開した。膨張の可能性もあるから、進行方向は変えられても相殺はまだできない。だが、まだ心配するほどの時間は経過していない。ただ、信じて通信を待つ。
 とはいえ、これは嘘の災害なので、あらかじめ決めていたタイムリミットまでに鎮火できなければ、消火剤が散布されることになっていた。それだけでなく、さまざまなセーフティーも組み込まれている。よほどのヘマをしない限り、轟と飯田なら大丈夫だ。
 傾斜する足元も熱をはらみはじめ、強烈な温度差が土埃を巻き上げる。体温はこれからの上昇を見越して活動できるギリギリの低温を保ち続けていた。だが、空気中から吸い込む熱のことを考慮するならアイテムでの補助も検討したほうがいいだろう。火の粉にも慣れていると思っていたが、まとわりつく灰は想定よりもずっと重く、熱が長く皮膚に張りつく。耐性があるとはいえ煩わしい。ゴーグルも必要になるかもしれない。
 動いてみないとわからないことは、やはりたくさんあった。
『Ingenium to Shoto, I’ve secured the survivor. Heading out now(こちらインゲニウムよりショートくんへ、救助対象一名を確保。脱出する)』
 インカムからきびきびとした声が、脱出経路を伝える。炎の角度を調整し、伝えられたルートを強引に切り開く。そろそろ火力を中心部に合わせて上げなければ。
「Copy that, route’s all clear. Once I see you, I’m moving in for backburning(了解、ルートはクリア。そちらの姿を視認次第、迎え火を展開しに進行する)」
 周囲から熱を奪い、自分のものに変えていく。冷気を展開、身体に循環させ、上昇し続ける温度に対抗する。やがて、ごうごうと燃え盛る炎の音に混じりドゥルルルと唸る内燃機関の音が聞こえてきた。轟が開けたルートへの炎の再侵食はない。小脇に防護服姿の被救助者を抱え、白のアーマーが難なく危険区域を脱していく。巻き起こる旋風がわずかに火の勢いを煽った。
 飯田が視界から消えたのを確認してから、轟は左足の裏にジェット火炎を纏わせ炎の前へと飛び込んだ。自分自身の炎だけあって、さすがに熱い。だけど、もっと熱い炎を轟はもう知っている。野望への妄執や孤独な殺意がないだけずっと、ずっとマシだ。
 凝縮して溜めた炎を左手に集め、一気に広く放出する。温度、範囲ともに目の前の炎をわずかに超え、ただ抑え込み素早く相殺するためだけにそれは燃えた。そして、フッ、と手応えが消えた瞬間。
『Stop, you did it! Great work!(止まって! よくやった、お疲れ様)』
 終わりを告げる明朗な声に弾かれ、轟は炎を消した。迎え火で燃やし尽くした人工木材の木々の灰が橙から赤、そして黒へと色を落としていく。ハァハァと肩で息をする轟の頭の上をドローンが旋回し、制御室へと戻っていった。

 


「飯田くんが熱をかなり克服できているとはいえ、やっぱり轟くんの氷を使ったほうがいいんじゃないかな」
「あまり広範囲に使っては植生や天候への影響が無視できないという話じゃなかったか? 緊急時に即制圧できるのは強いと思うが、長い目で見る必要もある」
「なら、完全な制圧じゃなくて、〝燐〟で炎の温度を下げるのに絞るのはどうかな。最悪、轟くんなら短時間であれば内側に潜り込めるだろ」
「そこまで広範囲には展開できねえんだ。練習はしているんだが」
「なら氷のほうがよさそうだな」
 制御室は耐熱ガラスの窓を熱で炙られ、中身は当然無事だが室温は快適とは程遠い。火の中を駆け抜けてきた飯田と、わざわざ救助される役を買って出た緑谷の周りに薄く氷を展開し続けながら、三人でパソコンのモニタを覗きこむ。
 どのみちこれだけではオーディションテープ(違うけれどそうとしか言いようがない)として提出するにはやや心許ないと轟が言えば、二人も同意見だったようで大きく頷かれた。
 三人が相談しているのは、轟に直接届いたスカウトの件だった。
 アメリカ合衆国の西海岸地域では気候変動の影響もあり、山火事の被害が年々深刻になっている。例年、現地のヒーローと消防隊が合同で鎮火に当たっているが、山火事の季節が終わるまで何度も駆り出されることになる上に、ヴィランが混乱に乗じて現場をかき回しにきたり、己の力を過信した火事場泥棒が取り残されてしまうような間抜けな事態も頻繁に起こる。だが、地味な割に危険度の高い仕事なので、ここ数年の治安悪化に伴い人材が集まりにくく、後進の育成に悩んでいるらしい。極めつけには前年にヒーローが数名相次いで引退したこともあり、来年に向けてカリフォルニア州とオレゴン州が共同で国外にまで協力を呼びかけはじめたのだ。もちろん、かなり高額の報酬付きで。
 単独でも、チームでもいい。参加をしてくれるのなら、配置検討のためにデモ映像と経歴書を送ってほしいということだった。国際協力なので、採用に向けた活動にもヒーロー公安委員会の後援がついている。これまでになく大きな仕事だ。
「飯田の言うとおり、急激に冷やすと他のエリアに強風が起こりやすくなる。山火事には致命的だ。それと、植生への負荷もあるから、あまりよくはねえ。枯れて乾いたらそのまま次の燃料になっちまうし、まだ燃え尽きちまったほうが次を防げるという考えらしい。でも、緑谷の言うように、中から温度を下げるのはアリだろうな。それに、最終手段として制圧の準備はしておきたいから、周りへの影響を最小限に抑えた対応を——」
 白熱する議論を後押しするように、ふすふすと燻る火の音がまだ開け放たれたドアの向こうからかすかに聞こえてくる。だが、もう一ラウンド試したいことがあるから火は消さずにそのままにしてあった。
 小規模ながら現地の環境をオーダーどおりに再現してくれるのは、さすが雄英といったところだろう。最新鋭の耐火性能と条件を細かく指定できる火災シミュレーション機能を誇るこの訓練場は、今年『嘘の災害や事故ルーム』通称『USJ』に増築されたばかりのものだ。初回の実技指導後に緑谷に話せば『轟くんをコキ使う気満々だね』と言われたが、地元在住のフリーランスだから呼びやすいというのもあるのか、確かに以前よりも頻繁に招かれるようになっていた。
 報酬が悪くないのと、未来の同業者たちに渡せるものがあるのがうれしくて、轟はなるべく依頼を受けるようにしている。だが、在学中に世話になっていた教師たちからも『準レギュラー』などとからかわれはじめている上に、実際に教師を目指している緑谷よりも先に『ショート先生』と呼ばれてしまったことにはやや複雑な思いを抱いていた。
 そんなわけで、国際協力の名目もあり、今回は遠慮なく設備を使わせてもらうことにしたのだ。
「そういえば、飯田くんの脚はどんな具合? 新アーマーみせてよ! 発目さんと専属契約したって聞いたけど、変形タイプになったんだよね?」
 緑谷が消えた、と思ったら飯田の足元にスーツのスラックスが汚れるのも厭わずに這いつくばって、しげしげと脹脛周りの検分を始めていた。指先で突いて、あちち、と手を振っているのは相変わらずだ。凍らすぞ、と声をかけてから右手を伸ばして片方ずつ冷やしてやる。
「あの環境下でもあんなに動けるなんてさすがだなあ! 素材から新しく開発したのかな、それとも〝個性〟由来か……あと、全体的に轟くんの背中のアレともデザインの方向性が近くなった? やっぱりそっちのノウハウも取り入れてるんだね」
「よく気づいたな! 全体の印象は変えないようにしていたのに」
 うれしそうに驚く飯田に続いて、轟が説明を引き継ぐ。
「今回の改良は共同開発なんだ。俺が持ち込んだ話だから、提供できる技術はできるだけ提供したかった」
「熱に弱いのは昔からの課題だったからな。火災の条件下だとレシプロの有効時間はさすがに短縮されるが、今のところ通常走行にはまったく問題ないよ」
「うん、足場も悪いのにすごく安定してて、お手本のように見事な救助だった。サポートアイテムのシールドも使ってた? 何ヶ所かについてるのかな。展開してても風の抵抗をうまく逃して速度も落ちないのはすごかった! 相当練習したんだね。うちの生徒たちにも体験させたいくらいだよ」
 まだ実習中のはずなのに早くも指導者の貫禄を身につけはじめている緑谷に、飯田が苦笑を返した。その顔にわずかな寂しさを感じ、じとり、と嫌な予感が忍び寄る。
「ありがとう。参考になったのならよかった。……でも、残念だけど、スカウトの件は俺には向かないかもしれないな。現状、装備の力に頼って動けている状態だ。〝個性〟そのものに熱耐性が備わったわけじゃない。無理に現場に出て、要救助者を増やすのは本意ではないんだ」
「誰が出てもその可能性はあるだろ」
 気弱に聞こえたその発言に、轟は思わず声を荒げた。だが、轟の剣幕をよそに、緑谷はブツブツと何かを呟きながら考え込んでいる。止められないのをいいことに、轟はさらに食い下がった。
「おまえもチームの知名度を上げていきたいって言ってただろ。それに、俺が背中を預けたいのはおまえなんだ」
 飯田の眉が厳しく寄った。
「私情で決めるのか? 君なら単独でもじゅうぶん活躍できると思うぞ。色々とアップデートの機会をもらって申し訳ないほど助かってるし、何らかのお返しをしなくてはと強く思うけれど、君の、現場の負担になりたくないんだ」
「ならねえだろ、おまえなら」
「いや、確かに飯田くんの言うとおりだよ、轟くん」
 睨み合い、険悪になりかけた空気を緑谷がバッサリと切った。裏切られたような気持ちで思わず睨んでしまうと、まあまあ、といなされる。
「〝個性〟に向かない状況でも動かなきゃいけないこともある。でもそれはじゅうぶんに準備した上でのことで、最初から適材適所を無視するのは得策じゃない。……だけど、さ。本当に熱耐性はあがってないのかな。飯田くんは、ラジエーターの補助なしで高熱環境を走ってみたことはある?」
 飯田がしばし考え込んでから、うむ、と頷いた。
「……確かにないな。なら、やってみよう」
「いいのかよ」
「危なそうだったら君が消してくれるんだろう?」
「現地の環境を想定して、今日は俺じゃなくて消火剤だ」
 ふむふむ、と聞いていた緑谷が「じゃあ、さっき言ってた氷の『最終手段的』なやつもついでに試してみようか。轟くんも、もう組み立てはできてるんだろ?」と自身のこめかみをトントンと叩きながらまとめた。
 スイッチを切り替えると、火災現場再現用の人工木材の林がふたたび生えてくる。一定時間に使えるのは三セットのみなので、これが最後だ。本来試したかった方向性とは少し違うけれど、轟も知りたかった。いまの飯田の限界を。
 外に出て、左手で高温の炎を放つ。苛立ち混じりのそれはすぐに一面を火の海に変え、バチバチと木が爆ぜる音があがった。
「手加減なしだね! 飯田くん、行ける?」
「ああ、やってやるとも」
 飯田は脚部のラジエーターを外し、脹脛を露出させたままスタートの構えを取った。排気筒が伸び、ジャキンと音を立てて固定される。獰猛な肉食獣を彷彿とさせる金属の咆哮が空気を震わせた。固唾を飲んで見つめていると、ヘルメット越しに視線が合う。
 ぞくり、と背が興奮で粟立った。見てろよ、と不敵な笑顔を向けられた気がした。
 走れる限界まで、走る。限界が来たら手を挙げる。ドローン空撮でそれを確認した緑谷から合図が入った時点で氷で炎を制圧。それよりも先に飯田が行動不能になったら同じく氷で制圧。決めたことを一つずつ確認しながら、轟もスタートの合図を待っていた。
「よーい、はじめ!」
 場に合わず牧歌的な号令とともに、飯田が『エンジン』を噴かせ、炎の間を潜るように走り出した。
「音、平気そうだな」
「やっぱりそうだと思ったよ。君とよく訓練をしていると聞いてたから」
 時折姿を見せては炎の奥へ奥へと突入していく飯田はまだまだ止まらない。携帯用モニタの中でも、白いアーマーはまだ縦横無尽に、炎の中にわずかな通り道を見つけてはそこを切り拓くように進んでいく。
「そろそろ止めたほうがいいんじゃねえか?」
「呼びかけてみるね。インゲニウム、応答せよ。そろそろ活動限界だと思うんだけど、止めようか?」
『あと、三十秒だ』
 緑谷がストップウォッチで三十秒をカウントし始める。轟も胸の前で手を組み、右側の氷結を溜める。
「わかった。その前にヤバそうだったら止めるよ」
『了解!』
 そして二十秒が経過し、十、九、八、とカウントダウンをする緑谷の声に集中していると、突然、バン、と金属が破裂する音がした。
「轟くん、お願い!」
 声が届く前に、轟は右手を振りかぶっていた。あたり一面に氷が展開され、炎を押し消す。発語のひとつもなかった。
 緑谷を放置して、最後にあの破砕音が響いていた地点に滑って移動する。駆け寄ると、飯田がちょうどヘルメットとマスクを取っていたところだった。
「飯田!」
「思ったよりは伸びていたな」
 吹っ切れたような晴れやかな眼差しに射抜かれ、轟は宇宙空間へと飛ばされたかのように一瞬呼吸を忘れた。飯田の吐き出す息が白く視線を遮って、そこで初めて自分の立つ地面の感触を思い出す。
「さっきはすまなかった。冷静なつもりで消極的なことを言ってしまった。今回のデータは発目くんにも共有して」
「脚は平気か?」
 まだ露出している排気筒の数本に、近くで見なくともわかるほどの亀裂が走っている。
「このくらいならすぐに治るさ。しかし、どういう理屈なんだろうな、この記録は」
 飯田が、ブロン、と一度だけ『エンジン』を噴かせた。エンストもまだしていない。
「おまえにも、まだ成長の余地があったってことじゃねえのか」
「そのようだ」
 歯を見せて大きく笑う姿は、人工太陽光と氷の輝きの中で、世界の中心のように眩しかった。
「おーい」
 近づく微かなモーター音に、二人は振り返った。悪路仕様の電動スクーターをちょうど停めた緑谷に手を振り返してから、もう一度飯田と目を合わせて微笑みあう。
「……さっきはカッとなっちまって悪かったな。おまえの心配ももっともなことだった。でも、向かないと判断するのは先方だ。おまえでも、俺でもない」
「そうだな。なら、やれるだけのことはやってみるよ、リーダー」
 リーダー、と呼ばれてさすがにくすぐったい。だけど、頼るばかりではなく頼ってもらえるようで、胸がいっぱいになる。
 ととと、と足音が駆け寄ってくる。
「二人とも仲直りできたみたいだね。よかった」
「ああ」
 寒さに少し震えながらもにこにこと両手の拳を握る緑谷に轟は頷き、飯田を見上げた。コスチューム姿の飯田は、普段よりも少し目線が高い気がする。なんだか遠いような、安心するような、相反する印象を抱いてしまう。
「君にも心配をかけたな、緑谷くん」
 昔よりも落ち着いた、自分よりも少し高めのやさしい声。頼もしく整った横顔。緑谷との〝個性〟談義にじっと耳を傾け、どんどん大きくなる二人の身振り手振りを眺め、時折口を挟む。
 対等に並び、手を引き合うことの難しさと達成感。衝突したところで揺るがないような信頼を培ってきたこと。確かに成長しているけれど、この輪の中にあるものはあの頃とまったく変わらない。
 轟にとって、ここは安心できる場所だった。
 その輪を構成する一人をことさらに特別に思っている件については、ずっと棚上げしたままだ。
 それでいい。間違えたくない。
 昨夜の祈りを思い出しながら、轟は二人の話を聞き続けていた。

 ◇
 
 お邪魔します、と飯田は声のボリュームを落とし、轟に続いて玄関に足を踏み入れた。
 数ヶ月ぶりに訪れる轟の部屋は、今のところあまり変化はない。見える範囲は綺麗に掃除されていて、棚の上には小さなポトスの鉢が増えていた。また株分けしたのだろうか。夏場に茂りすぎて困っていると話していたのを覚えているが、これではまた近いうちにいっぱいになってしまいそうだ。
 合同訓練後は三人で食事に出て、明日の授業の準備があるという緑谷を先にキャンパスの正門まで見送った。名残惜しかったが、また実習が終わったら会おうと約束をし、今度こそあまり時間を開けないようにしようと三人で手を重ね決意表明までして、まだまだ青春だ、と笑いあった。
 少し酔っていたのかもしれない。神聖な学舎を騒がせまいと、こそこそと逃げるように去ってしまったのが可笑しくて、楽しくて、まだお開きにするには少し早く、さみしい気がした。こうして、どちらからともなく轟の部屋で飲み直そうと提案したのが三十分前のことだ。
 もとより泊まる予定だった上に、今日の反省会と資料作成のために明日の午前は空けてある。深酒をするつもりもないから、なんの懸念もない。こうして、途中のディスカウントスーパーで酒とつまみ、朝食用にパンとオレンジジュースを買って、浮かれすぎない程度の足取りを保ったまま、飯田は轟と並んで轟の部屋へと向かったのだった。
 片思いも四年を超えれば慣れたものだ。不意に触れ合っては心臓がおかしな音を立てたり、ただ二人で過ごせることが怖いくらいうれしかったりすることも、なくはない。だが、それよりも優先すべきことがたくさんある。忘れる努力もしないくせに、と自嘲することもあるけれど、内心は自由なはずだ。それに、不埒なことは極力頭から追い出しているし、苦しいわけでも、今のところ迷惑をかけている様子もないから忘れる必要もない。
 これも柔軟性を努めて身につけてきた成果だろう。
 飯田天哉は満足していた。それだけに、今日つい弱気になってしまったことが情けなかった。原因はわかっている。話したら呆れられてしまうかもしれないけれど、ここからほんの少しだけ酔いが深まればこぼすこともできるかもしれない。好きな人だと思うと格好悪いところを曝け出したくない気持ちもあるけれど、親友で、頼りにしてくれている仕事仲間なら話すべきことだ。
 子供の頃は大人が酒を嗜む理由が知識以上には理解できなかったけれど、今では感覚として少しわかる気がする。理性を失うほど飲むような愚行を冒すことはないが、少なくとも飯田にとっては、心地の良い酩酊は悲観に沈む余地を取り去ってくれるものだった。
「洗面所、借りるよ」
 無為な思索を断ち切るように宣言して洗面所へと向かうと、轟がついてきた。けして狭くはないが、身長を四捨五入したら揃って百九十センチの筋肉質な男がふたり並べば、みちみちになってしまう。
 肩をぶつけ合いながら手を洗い、うがいを済ませる。酔っていなくても毎回こうなのだ。飯田が最初に洗面所に入ると、轟がのっそりと寄り添ってくる。最初こそ待っているように諭したけれど、過度に水を撒き散らすこともなく綺麗に使うし、何よりここは轟の部屋だ。ならば家主の流儀に従うほかない。
 貸してもらったタオルで口元を拭くと、ハンドソープのオレンジの残り香に外で張っていた気がほぐれていく。ここでようやく轟の部屋にいるという実感を得て、飯田は心の中で唱える。
 呼んでくれてありがとう、ここにいられてうれしいよ、と。


 先日買い替えたというソファは座り心地がとてもよかった。応接セットの一部ではあるけれど、以前のものと違って並んで座っていられるのがいい。最近よく泊まりにくる轟の姉の助言があって購入を決めたもので、打ち合わせにも重宝しているということだった。唯一の難点は、仕事が終わりくたくたで帰宅すると、もういっそここで寝てしまおうかという誘惑に駆られること。そうなったら終わりの始まりだぞ、と轟は少し脅すような口調で飯田に忠告した。
 飯田自身、仕事を始めてからも増え続ける蔵書のために、そして、来年度に向けて生活がこれまで以上に不規則になりはじめているため、実家を出て事務所の近くに部屋を借りることを検討している。それもあって、最近の轟はしばしば一人暮らしの先輩ぶりたがることが多い。
 他愛のない雑談が一段落し、買ってきた缶入りの緑茶割りもあと二、三口でなくなってしまう頃、それを先に切り出したのは轟のほうだった。
「今日、どうしたんだ?」
 昼間、訓練が終わるのを待たずに案件から降りることを事実上提案してしまったことを指しているのは明白だった。飯田は気合いを入れ直し、口を開いた。
「……さっき、緑谷くんもいた時に話したけれど、神経の再建手術をこの前してきたんだ」
「ああ」
 それがどんな意味を持つのか、轟も緑谷も知っている。二人も居合わせた、飯田が単身でヒーロー殺しに復讐を挑んだ事件で負った傷の後遺症。そのときの過ちを戒めるために治さずにいたが、轟には『もっと早くてもよかっただろ』などと言われてしまったし、確かに終わってみれば、当時説明されていたよりも簡単に済んでしまったのだから拍子抜けをした。
 戦後の復興やヴィランの残党への対応で忙しい時期に、優先度の低い処置で医療現場に負担をかけたくない。プロ免許の試験前に調子を変えたくない。活動しはじめてすぐに長期の休みを取りたくない。そんな理由を並べ立て、飯田にしては珍しく先延ばしにしていたことが却ってよかったのだろう。大戦を経て国内の医療技術にも目覚ましい躍進があったのを身をもって知ってしまったことに複雑な思いもあるが、それよりも腕が万全に動くことになったことを喜ぶべきだ。
 喜ばないと、いけなかった。
「来年度から正式に事務所代表となるんだ。ならば、今のうちにするのがタイミングとしては最適だ。それでも、長いこと付き合ってきた後遺症だからね。リハビリも終えて力の加減にも慣れてきたけれど、たまに『ない』ことが気になってしまう。……さみしい、とすら思う。それに、」
 禊が済んだ、という心持ちではない。ソファの隣に並んで真剣に耳を傾けてくれる親友のおかげで『なりたいものになれた』のだと、もうずっと前から確信をしている。だけど、痛みや痺れが消えた今、それが息をするように当たり前のことになったのが少しだけ怖い。ヒーロー殺しのぎらつく瞳が、忘れるな、と睨みつけてくるような悪寒まで覚えてしまう。
「慢心してしまわないか、不安になった」
「何言ってんだ」
 肩にがっしりと手が置かれ軽く揺さぶられる。繊細な作りの顔からは想像しにくいほど、骨ばった大きな手。指が太く分厚い自分の手ともあまり変わらないことに、いつも改めて驚いてしまう。軽く酔っているせいか、胸のうちにさわさわと細波が立った。
「飯田なら、大丈夫だろ。大丈夫じゃなくなりそうだったら、そうなる前に俺に言えよ。俺も、ちゃんと見てるから。できること、一緒に考えるから」
 思いのほか力強く激励され、目元がじわりと熱くなる。
「……わかった。君が言うなら、信じよう」
 本当なら、轟の存在にすがらずとも、ひとりの足で大地を踏みしめられるようにあるべきだ。今日ラジエーターを外して炎の中を走ったように、もうとっくにそうできているのかもしれない。
 だとしても、今は少し甘えたくなった。
「そうだ。俺が言うんだから、しっかり覚えててくれよ」
 淡い笑みとともに肩を引き寄せられ、軽い抱擁に巻き取られる。酔いで火照ったところに右半身の冷たさが心地よくて、つい必要以上に体重を預けてしまう。だが、あまりに近いと勘違いをする。
「ありがとう、轟くん。もう平気だ」
 だが、身を起こした瞬間、視線がぶつかり絡め取られ、身体が再び引き寄せられた。
 離れなくては、と思ったときにはもう唇に唇が押しつけられていた。
 やさしく食むその動きを、思わず受け入れてしまう。半分熱くて半分冷たいはずなのに、すべてが混ざり合ってぬるんでいく。メガネが押し上げられ、目の焦点が定まらない。瞼を閉じれば感覚が研ぎ澄まされ、身体の内側からふつふつと欲が沸きあがる。もっと、ずっとこうしていたい。せつなげに喉が鳴るが、どちらが立てた音かはわからなかった。轟だといい、そうだとうれしい、とぼんやり思う。
 そんなに酔っているようには見えなかったが、これは、どういうことなのだろう。くらくらと歓喜しそうな心を必死に押さえつけ、ようやく戸惑いのほうが優勢になる。
 息継ぎのためか、唇が離れた。飯田はその隙を逃さなかった。
「轟くん」
 手のひらで押し戻すと、ひ、と息が引き攣れる音がした。指の間から見える轟の顔がみるみる青褪め、右側の髪と同じほどに蒼白になっていく。
「……悪い。まちがえた」
 可哀想になるほど小さな声で、轟はつぶやいた。同時に飯田の混乱も霧散する。
 ——ああ、なんだ。うっかり喜んでしまわなくてよかった。
 それはごくシンプルな真実の告白だった。
 重めのボディブローが入ったような衝撃を殺すように、飯田はわざと大袈裟に渋面を作った。お説教タイムだ、とかつての級友たちの声が記憶の彼方で囀りだす。
「なるほど、『まちがえた』のか。轟くん、パートナーがいるのにこういうことをするのは感心しないぞ。ましてや、俺の合意もないんだ。俺自身はそこまで気にしているわけではないが、これは明確な加害行為に当たる」
「は」
 顔を白くしたまま、轟が固まる。
「酩酊しているからといって、軽々にしていいことではないのはわかるな? お相手に何をどこまで伝えるかは君の裁量によるが、必要とあらば俺も一緒に謝ろう。だから今後はきちんと節度と誠意を持って」
「なんの、話だよ」
 どうして君が泣きそうな声を出すんだ、と飯田は歯を食いしばった。
「間違えたと言っていたじゃないか! 君がぼ、僕に……いや、浮気をしたんだ」
「してねえ」
 空気が文字通りぴしりと凍り、轟のやわらかい曲線を残した頬がさらに青白く冷えていく。
「いねェよ、誰も。おまえ以外に、そういう意味で好きな奴なんて」
 くそ、と聞き取れないほどの悪態が、きらきらと光を撹乱する結晶たちの合間に放られた。ぎょっとして、飯田は叫んだ。
「頬に霜が降りているぞ!? 大丈夫か?」
「頭、冷やしてぇんだ。寒くてわりぃ」
「寒くはないよ。ただ、心配なだけだ」
 どさりとソファの背に身体を投げ出した姿はどこか捨て鉢だ。いま投げかけられた一連の言葉の意味を考えるよりも、轟を案ずるほうが大事なことのように思えた。だが、氷結を暴走させているわけでもないから、飯田にできることはない。
「……俺のほうから、友達でいてほしいって頼んだのにな。身勝手だった、あの時も、今も。……加害行為、か。おまえの言うとおりだ。本当に悪かった」
 空気の冷たさがわずかに和らぎ、飯田が問いただす前に轟は言葉を続ける。
「なあ、飯田。俺が言っていい立場じゃねえのはわかってるし、身勝手をさらに重ねることになるけど……忘れてくれねえか」
「本気なのか、轟くん」
 飯田は思わず訊ねていた。轟は答えない。視線も合わせてくれない。沈黙が破られないことを確信し、飯田はふたたび訊ねかけた。
「……少し、昔の話をしてもいいかい? 俺が、君に気持ちを伝えたときのこと」
「なんで」
「聞きたくないなら話さない。だけど、君が俺と少しでも同じ気持ちなら、確かめたいことがあるんだ」
 そわ、と轟の指先が震えた。轟が本当になにも望んでいないのなら、忘れてやるべきなのだろう。だが、どうしてもそれが本心なのだとは思えなかった。自分に都合よく話を進めようとしている自覚はある。それでも、ここで流してしまっては互いに後悔することになるという予感も痛いほどに感じていた。
 轟は相変わらず答えないままだ。
「なら、勝手に話すよ」
 飯田は酒の缶を掴み、残りを一気に飲み干した。思っていたよりも残量が多く軽く咽せてしまったが、緑茶の苦味が心配を抑え、話したいことが整理されていく。轟が頭をわずかに傾け、目線だけを寄越した。それを合図に、軽く深呼吸をする。
「最初に伝えておこう。俺は、今でも君のことが好きだ」
 じっと聞き入りながら、轟が色違いの目をゆっくりと瞬かせた。
「だけど、あのとき伝えたのは軽率だったと、今でもたまに後悔するんだ。俺たちは、世界の危機にたったの十六歳で立ち向かった。それを生き抜いてからは、級友たちと残された傷を互いに認め、復興や対話を通じて癒し合い、成長してきた。それゆえの万能感だったのだろうな。凄惨な戦いで失われたものはたくさんあったが、それゆえに、皆と共にこれから創る明るい未来ばかり見ていたように思う……戦える者、他者を救える者として、それが責務なのだと思っていた。兄なら、きっとそうすると」
 相槌はないが、注がれる視線も揺らがない。心なしか、顔色も戻っているようだ。飯田は改めて轟と目を合わせ、話を続けた。
「だから、あの頃の君がどんな思いでいたのかを、まるで想像できていなかった。近くにいて話も聞いていたはずなのに、君が以前よりもよく笑うようになって、ただ安堵していたんだ。家族の、兄のことを乗り越えられて、お父上とも和解できた。君が君らしくいられるようになって、本当によかったと」
「……よく見てくれてたんだな」
 轟の声が割れ、口元が痛みを堪えるように歪む。飯田は全神経を集中させ、轟へと手を伸ばしてしまわないよう拳を握り込んだ。
「君があの日教えてくれたようなことにまで気づくのは、それこそ精神干渉系の〝個性〟でもないと無理だったろう。君自身、気づいていなかったのだから。それは理解している。だが、不甲斐なく感じることもまた止められなかった。自分の手に余ることに無遠慮に触れてしまい、友達を、親友を、また﹅﹅傷つけたんだ。当然のことだろう?」
 轟が目をわずかに見開いた。耐えきれず、顔を伏せてしまう。
「君に同じ気持ちを返してほしいと望んだことはなかったよ。それは本当だ。そうなってくれたらと夢想しても、それは夢想に過ぎなかった。告白をして、君を傷つけてからは、それも抑えていた。……それでも、俺は手放したくなかったんだ。君という人間と出会い、特別に大切に思うようになったことを。だから、恋というままならないものと共存することを選んだ。思いがいつか薄れていくなら、それでもいい。どのみち、俺たちを俺たちたらしめるものは何も変わらない。だから、わざわざ心の裡から追い出したりはしなかったんだ」
 轟が、ふ、と溜めていた息を漏らした。
「……轟くんは、いつからなんだ?」
 何をどうした、とはわざわざ聞いたりはしなかった。
「卒業式の日。集合写真撮るとき、おまえが隣に並んでくれて気づいた」
「すごいタイミングだ」
 飯田が驚くと、轟も頰をゆるめる。
「たぶん、告白してくれた時にはもう……でも、決めたことを変える気はなかった。あの時話したこと、自分の中で決着がついてなかったから。……今も、実はよくわからねえ」
「なら、どうして俺にキスをしたんだ?」
 少し遠くを見るような、諦めたような目で微笑んだまま、轟は小さく頷いた。
「飯田が俺の腕の中にいると思ったら、ぐらっときちまった」
 声に滲むのは後悔だけではないように感じる。期待しているわけではないが、教えてくれるのならすべて受け止めたい。
「これまでも、なかったわけじゃねえのにな……でも、昼間、おまえが火の中を駆け回ってるのがカッコよくて、うれしくて……メット取った時の姿が本当に綺麗だった。ここに俺の世界があるんだと、思った。緑谷がいなかったら、訓練場でキスしてたかもしれねぇ。『俺のために』だなんて、思いあがっちまった」
 思いがけない自白とともに、投げ出されていた轟の手がゆっくりと拳を形作った。飯田自身の手と、同じように見える。したいことを、抑え込んでいる。誤魔化したくないから。まずは言葉を尽くしたいから。
「そう間違ってはいないさ。俺も、君の期待に少しでも近づけてうれしかった。諦めてしまわなくてよかったよ」
 飯田がそう伝えると、轟はわずかに唇を突き出した。
「……でも、緑谷の言うことなら聞くのかよ、ってちょっとだけムカッときた」
「それは悪かった」
 急に拗ねた子供のようなことを言い出した轟は、突き出した唇を今度はきまりが悪そうに噛んだ。真面目な話をしているはずなのに、どうしても目が吸い寄せられてしまう。咳払いで誤魔化して、飯田はいちばん聞きたかったことを聞いてみる。
「君は、俺のことを諦めたいのか?」
「そんなわけねえだろ」
 想像していたよりもずっと力強く返されて、面食らってしまう。それなのに、やはり轟は踏み出せずにいるように見えた。
「でも、友達じゃなくなるのも、嫌だ」
 そう続けた轟は、飯田が口を挟む前に「ガキくせぇのはわかってる」と付け足した。
「なら、俺と同じだな。俺は、君にずっと恋をしたまま、友達であり続けようとしてる」
「苦しくねえのか」
 気遣うように、そして、轟自身も苦しそうに、訊ねられる。
「もうとっくに慣れたよ。俺だって、君と友人、親友でいられなくなるのは困る。そのためにする努力なら、苦しくても意味があるんだ」
 心配そうな表情を和らげるべく、できるだけ明るく説明したが、轟は唇をさらに曲げ、眉をしかめてしまった。
「俺のせいでおまえが苦しいのは、俺は嫌だ」
「本当にたいしたことじゃないんだが」
「そう言われるのも嫌だ。たいしたことであってくれよ」
「君、なかなかの駄々っ子だな!?」
 ますます拗ねたように、轟は足裏をソファの座面に引き上げ、膝を抱え込んでしまった。長い脚が窮屈そうに腕の中に折りたたまれていて、見ているだけで心細さが伝わってくる。
 やはり難しいのだろう。なら、これ以上押すのはやめよう。諦めたくないという思いが轟にあったからといって、それが飯田自身の思いと完全に同じものであると断定するのはただのエゴだ。きっと、また轟を傷つけるだけだ。
 飯田はそう結論づけて、最後にひとつだけ伝えることにした。
「俺も、君に苦しい思いをしてほしくない。……だけど、さっきのキスはうれしかったよ」
「そうなのか? でも、加害だって」
「加害行為には変わりない。だからといって、心が動くのも抑えられなかった。好きな人にあんなにも切実に求められて、動かないわけがないだろう?」
 膝を抱えたまま、轟は目を何度も瞬かせた。
 飯田の言葉が信じられないとでも言いたげに。
「離れるのが惜しいと思った。ずっとこうしていたいと。止めたのは、君の意図するところがわからなかったからだ。傷つきたくなかったし、俺が傷つくと君もつらいだろうと思った」
「本当にごめん。……俺も、うれしかった」
 そう認めた轟の身体から強張りがほどけていく。
「そうか。それならよかった。君、すごい顔になっていたから。真っ白なのにさらに氷まで出して」
「勝手なことしたのにな」
「うむ。そこは反省の余地が大いにあるぞ」
 ついいつものように、両手で手刀を作り身体の前で素早く振り下ろしてしまう。だが、轟がやっと笑ってくれて、それで正解だったのだと飯田も目を細めた。
「そうだよな。……なあ、飯田。手ェ握ってもいいか」
 やめておこう、とさっき決めたはずなのに。押しつけないと決めたのに。それでも、そんな躊躇を知ってか知らずか、轟は飛び越えてきた。
「もちろん」
 手を差し出すと、轟が困ったように眉を下げた。
「意図もわかんねえのに、無防備すぎるだろ」
「許可を取ってくれた。それに、君なら悪いようにはしないだろう?」
 手のひらに、ほとんど同じ大きさの、自分のよりも薄い手がポンと置かれる。
「あってるか?」
「社交ダンスのようだ」
「好きな奴との手の繋ぎ方なんて知らねえんだ。悪いな」
 好き、と明確に言われ、頬に熱が集まる。
「手を貸すときとあまり変わらないと思うが……あえて繋ぐとして、友達やきょうだいならこうだろうか」
 轟の指を揃え、手のひら同士を軽く噛み合わせるように包み込むと、轟がこそばゆそうに身じろいだ。
「……お母さんと、同じだ」
 また意図せず轟の心のやわらかい部分に踏み込んでしまったのかと様子を窺うが、遠き日々を懐かしむ瞳は温かく輝いている。飯田は、ほ、と内心で息をついた。
 轟は飯田の手をしばらく握ったりゆるめたり、ゆらゆらと揺すってみたりしていたが、やがて意を決したように切り出した。
「友達なら、って、違うやつもあるのか」
「ああ。俺も実践経験はないのだけれど」
 ほどくよ、と声をかけてから手を放し、飯田はゆるめさせた轟の指の間に自身の指を絡めるように滑り込ませた。
「俗に言う『恋人つなぎ』だそうだ」
 どこでそれを覚えたのかは忘れてしまった。かつての寮生活の中、共同スペースで同級生の女性陣が恋愛話に花を咲かせていたときに教えてもらったような気もする。女子同士でおそるおそる指を絡めあわせて、きゃー、と愉しげに笑っていた様子は微笑ましくも、当時はあまり理解できなかった。それが、今ではよくわかる。ぐっと手のひら同士が近くなり、手の甲の骨の間の窪みに轟のがっしりとした指が収まる。手首で感じる脈拍まで重なるようで、なんともいえない充足感があるのだ。轟も同じように思ってくれているのだろうか。畳まれた膝はゆるめられ、握り返された手はかすかに震えている。
「これ、おまえと友達のままでもしていいことなのか」
 わずかな怯えと、全身から放たれる期待。きっと、前者のほうがその質問を投げかけているのだろう。あの日、最初に告白をした日に告げられたわだかまりと恐怖がまだそこに残っている。そして、それは考える余裕ができたからこそふたたび浮上したものでもあるのかもしれない。
 ならば、と飯田も心を決める。
「俺は構わないよ。君とこうして手を繋ぐのも、キスをするのも、友達のままでしてもいい」
「でも」
 言葉で迷いを示しながらも、轟は手を離さない。飯田は繋いだ手をさらに密着させるように力を込め、静かに語りかけた。
「君との間にあるものを、俺は諦めたくない。君も、そうなんじゃないのか」
 話の行方を見守るように轟が頷くのを待ってから言葉を続ける。
「なら、このままで、何を思いどう伝えたいか、ふたりでどうありたいかを、俺と一緒に探ってみないか? 君がそう望む限り、俺たちの間にどんな感情や言葉があって、どんな接触があったとしても、俺たちは『友達』でいればいい。単なる言葉遊びのようにも思えるかもしれないが、無理に既存の型に嵌まりにいくこともないだろう。社会的承認など瑣末なことだ。そんなものより、君のほうが大切なんだ」
 轟は飯田の並べる提案に、お、おお、と小さく相槌を打っていた。そして、しばらく考え込んでから、大きなため息とともに口を開いた。
「俺に都合がよすぎる」
「それの何が問題なんだ?」
 もう片方の手を繋いだ手に重ねると、轟の頬がぱっと色づき、じわじわとその朱を深めていく。それは、初めて見る表情だった。ぱきん、とぬるんだ空気がまた冷える。
「規律を重んじるんじゃねえのか」
「間違ったことではないよ。社会通念として理解を得にくい、説明しづらいことではあるが、誰かを害する行いでもない。不用意に知られてしまえば騒がれるかもしれないが、自由意志の範疇だ」
 それはまごうかたなき本心だった。社会規範を受け入れることを飯田は苦としていない。一般的にも恋愛感情を満たすための行動を取るのなら、その実態を簡潔に説明できる名付けをしたほうが自他ともに安心、納得できるのだということも理解している。
 だが、いま目の前にいる轟にとっては違う。彼にとってそれはすでに手の届いている大切な友情よりも脆く、儚いものなのだ。もしかすると、枷になりうることでもあるのかもしれない。だから、いまの未熟な飯田の出せる最適解がこれだった。
「……おまえが柔軟すぎて、ちょっと心配だ」
「そうあろうとしてるんだ。努力の賜物さ」
 飯田が力強く頷くと、轟も、おう、と唸った。消え入りそうな返事だった。その表情は泣き崩れてしまうのを必死に押し留めているかのようにきりりと力がこもり、それでいて頬は紅潮し、口元には笑みが生まれかけている。飯田自身も冷やされた寒さを感じないほど顔や首筋がじっとりと熱くなり、汗がシャツの襟の内側を湿らせていた。
 必死すぎるだろうか。だけど、格好悪くても掴みたい、手放すわけにはいかないことだった。詭弁めいた理屈を重ねた、私利私欲の自分勝手。だが、轟も望んでくれているのなら、投げ出したくない。
「交際経験のひとつもないのに大それたことを言っていると我ながら思うよ。それでもよければ、一緒に考えてくれないか?」
「経験、ねえのか」
「がっかりしただろう? この歳で、なかなかに清い身なんだ」
 復唱されて苦笑を返すと、まさか、と轟が頭をぶんぶんと振った。思いがけず激しい動きと共に、氷の結晶がまたきらきらと宙に舞う。
「そんなの人それぞれだろ。俺が喜ぶのも違う気がするけど……いや、おまえと同じなのは、うれしい」
 納得をそのまま声に乗せたような言葉に、同じ言葉を重ねる。
「ああ、うれしいね。うれしいことを、俺はこれからも君と、大好きな親友の轟くんと、一緒に見つけていきたい」
 つとめて明るく言い切ると、轟の自由な方の手が伸びてきて、頬の近くで止まる。
「どうしたんだい?」
「顔、触りてえ」
「少し待っていてくれ」
 飯田は轟の手の上に重ねた手を外し、メガネを取って目の前のローテーブルに置いた。
「どうぞ。目の周りだけは気をつけて」
「ああ」
 ひんやりとした手が頬を包む。熱が奪われるが、やはり寒さは感じない。
「ひげ生えてんな」
 顎付近と口の端辺りを撫でながら、轟がつぶやく。
「君もだろう? この時間だから仕方ない」
「俺はそんなに生えねぇから。こんなふうになるんだな。初めて知った」
「そうなのか」
 子供の頃、兄に生えかけの髭を顔にこすりつけられ揶揄われたのを、飯田は思い出していた。轟には、親兄弟とのそんな触れ合いの経験もないのだと、改めて理解する。それでも氷結の酷使で硬くなっている手のひらはこんなにもやさしい。
 ざりざりとした感触が面白いのか、手のひら、手の甲、指先と部位を変えながら撫でられる。前にもこうしてされるがままになったことがあった。そのときと同じ、眩しそうな顔。いまはきっと、飯田自身も同じ顔をしている。
 気持ちがあふれて、泣いてしまいそうだ。
 だけど、そんな涙にそっと蓋を被せる方法に、ひとつだけ心当たりがある。
「キスをしようか、轟くん」
「……する」
 だが、飯田が立ち上がると、轟にぐいっと手を引かれた。
「どこいくんだよ」
「歯を磨きに。さっきは不意打ちだったから準備が」
「いらねえだろ……あとで一緒に磨くから、行くなよ」
 もう一度強く引かれ、飯田はゆっくりと腰を下ろす。
「それで何かだめだったら、次からはおまえの言うこと聞くから」
「なるほど、いい提案だ」
 そう、ふたりで探っていこうと、説得をしたばかりだった。
 手を繋いだまま、もう片方の手で顔を引き寄せられる。目を閉じ、唇の力を抜く。さっきも力が入らないほうがよかった。轟がしたいことをすべて感じられるようで。
 いいだ、と声と息が唇にかかり、やわらかいものが押しつけられた。半分冷たくて半分熱いその唇はすぐにまた飯田の体温と馴染んで、ふたりの境目を曖昧にしていく。
 空いたほうの手を背中に回すと、轟がせつなく喉を鳴らした。頬を支える手が後ろに滑り、耳をくすぐってから刈り上げた髪の表面をさわさわと撫でていく。角度が深まり、わずかに開いた唇同士の粘膜がぴたりと吸いつくように重なった。
 くらくらと力が抜けていく。いまさら酔いが回ってきたのだろうか。いや、経過時間と摂取量を考えれば明らかに違う。息継ぎで離れるのももどかしい。離れてほしくない。
「轟くん」
 すがるように名前を呼ぶと、もう一度唇が重ねられ、すぐに離れた。
「あの日、おまえの手を取れなかったのが、ずっと気になってた」
 答える前にまたキスが降ってくる。
「あの時はまだ、こんなに強い気持ちじゃなかった。でも、飯田とならこうなりたいって、想像できたんだ……うれしかった」
 もう一度、今度はまた角度の深いキス。だけど勝手に侵入されることはない。そういうキスの存在を飯田は知っている。轟も抑えている素振りからしてそうなのだろう。
 愛おしい。そう思うと、目の奥から一気に熱くなり、止める間もなく決壊する。経験不足の身では、やはり蓋などできなかった。
「泣くなよ。俺も泣いちまうだろ」
 そう言う轟もすでに涙声だ。近すぎて見えないけれど、きっと綺麗なのだろう。
 轟はずっと綺麗だった。傷ついても立ち上がり続ける姿も、人を安心させたいというやさしく気高い目標も、そこに至る道程を思うとただ『美しい』と称賛するには複雑すぎる。
 だけど、この瞬間、自分だけに向けられた気持ちくらいは、綺麗だと思ってもいいはずだ。
「好きだよ、轟くん」
「ああ。俺も、飯田が好きだ」
 少しだけ離れて顔を見て告げると、同じ言葉が返ってくる。瞬きとともに目の縁から転がり落ちる涙は、想像していたよりもずっと透き通っていた。冬の朝、陽光に溶けはじめた氷柱から落ちる水滴のように、きらめいていた。
 繋いだ手に力がこもり、半分の抱擁がふたたび深まる。
 いたいところに、ふたりはいる。
 それでじゅうぶんだった。

<続>