2.ファイアスターター(十九歳、冬)
久しぶりの通話の向こうで淡々と話す声が揺らぎ、詰まる。
燈矢兄が死んだ。葬儀はもう済ませた。……おまえに、会いたい。
その言葉はすぐに撤回された。だが当然のように受け流し、飯田は仕事のスケジュールを確認した。午前のトレーニングを終えたところで、午後は事務所で待機予定、パトロールは夜間の早番に出ることになっている。自分が絶対にいなくてはいけないような現行の案件はない。
「いま、どこにいるんだい?」
何度も訊ね、ようやく居場所を聞き出すと、すぐさま事務所へと向かい、兄と先輩方に頭を下げて許可を取ってから駅へと向かう。本当は走っていけたらよかった。だが、いくらヒーローでも正当な理由もなく全力で〝個性〟を使うわけにはいかない。規律を重んじるヒーロー・インゲニウムらしからぬ行動をすでに取っているのだ。
それでも、緊急時に親友を案ずることも許されないほど、飯田天哉はこれまでいい加減な活動をしてきたつもりはない。轟の名前を出せば、ここ数日で加熱していた報道に思い当たってくれたのか、すぐに『こっちは気にしないで行ってあげなさい』と送り出してもらえた。
燈矢兄、と迷子のような声で伝えられた名前は、苦々しい記憶を呼び起こす。
轟燈矢、通称・荼毘。世界を震撼させたテロリスト集団・敵連合の一員で、三十人以上の民間人を単独で殺害した、轟家の長子。炎熱系の〝個性〟を父親への強い執念で伸ばし、燃やし続けた、友人の歳の離れた兄。終戦時にはいつ死んでもおかしくない状態だったはずだが、予想に反してそれから二年以上も生き延び、先週死亡したばかりだった。
年末に仕事で東京に出ていた轟と会って話したときには、もう言葉も交わせない状態なのだと聞いていた。心の準備はもうとっくにできてるんだ、とこちらを安心させるような笑みを向けさせてしまったことが、飯田の胸の中で小さな棘のように引っかかっていた。
あれから二ヶ月も経っていない。だから、『やっぱりいい、忘れてくれ』と言われても、今どこにいるのかしつこく聞いた。どうしても轟を独りにしたくなかった。
在来線と新幹線を乗り継いで二時間弱。静岡駅で降り、駅前のホテルへと向かう。ダッフルコートの下にジャケットまで着てきたのは東京を出た時点ではやりすぎかとも思ったが、外は突き刺さるような寒さだ。天気情報を確認すると、夕方からさらに冷え込む予定で、深夜には雪まで降るかもしれないということだった。
滞在先として伝えられたホテルに踏み込むと、メガネが一気に曇る。レンズを拭きながらあたりを見回すと、質のいい調度品と洗練された所作のスタッフが目に入る。たしか、この一帯では最高級の一歩手前のグレードだったはずだ。フリーでやっている轟には痛い出費かもしれない。それだけ現状に困っているのだろう、と飯田は歯痒く思い、フロントへと向かう。
ロビーの様子をそれとなく窺うと、現場でよく見る野次馬と紙一重の自称メディア関係者と似た雰囲気の人たちが何人かいる。幸い、顔見知りはいないようだ。
話を通してくれているということだったので、フロントで自分の名前を伝え身分証を提示すると、ルームキーを渡された。エレベーターを待ちつつ、〝到着した。これから部屋まで行く〟とメッセージを入れるとすぐに既読がつく。念のためひとりになるのを待ってからエレベーターに乗り込んで、目的の階を目指す。特に手土産もなくきてしまったことに今頃気づくが、まずは様子を確かめたいのでそのまま部屋へと向かった。
コンコン、とノックしてから「飯田です。入ってもいいかい?」と訊ねると、金属のこすれる音が数回し、ドアが開く。
まず目に入るのは、見つめ返す色違いの瞳。そして、その下に濃く浮き出る隈だった。
「仕事、よかったのか」
「代わってもらったよ。こんな時に周りを頼れないようではいけないからな」
飯田がそう言って微笑むと、轟の目の縁にたちまち涙が盛り上がった。慌てて部屋の中に押し込んでドアを施錠すし、ラッチまでしっかりと掛けてから飯田が振り返ると、轟は所在なげに立ったまま涙を流していた。
「わり、俺……おまえの顔見たら、っ……」
「とりあえず座ろうか」
鞄を置き、コートを脱いでから、轟の手を引いてソファへと誘導する。
部屋は来客用に使えるスペースと寝室とに分かれていた。セミスイートにしては少し狭いようだが、ひとりで使うにはさみしく感じるほどには広い。
飯田はテーブルに書類とノートパソコン、そしてコーヒーカップが二人分出しっぱなしになっているのを見つけ、尋ねた。
「仕事をしていたのか」
「PR会社の人と、さっきまで打ち合わせしてた。メディア対応とか広告系の仕事の手配、頼んでる、から」
しゃくりあげながら轟は説明した。休んでしまっている仕事のことから、話題は家に帰れず、父親の事務所に泊まっている姉と母のことに移る。そして、次兄が結局顔を出さなかったこと。長兄の遺体は万一の掠取や悪用を警戒し、返してもらえなかったこと。それに誰も異を唱えなかったこと。一月の面会後、自分と一週間違いの燈矢の誕生日を勝手に一緒に祝うために、初めてひとりでケーキを買ってみたこと。この部屋の滞在費を父親が出そうとしたが、断ったこと。ベッドが無駄に二つもあって、どちらも広すぎて寝付けないこと。自分の部屋の植物に水やりができていないこと。
ただ泣くということがなかなかできないのか、とりとめなく話しながら、轟はぼろぼろと涙を流していた。俯いて丸まった背中が痛々しく、つい撫でてしまう。
「ごめん、飯田。今だけ、だから」
「好きなだけ泣くといい。ヒーローだって泣くことぐらいあるんだ」
いつかの轟が呟いていた言葉を返す。Tシャツ越しの背中は思いがけず冷たい。普段の体温は知らないが、炎熱系なら、いや、純粋な氷結系の人間でも体温自体はもっと高いはずだ。それだけ参っているということなのだろう。
背中をさすっていたら少し落ち着いたのか、いつしか轟は話すのをやめていた。紅白に分かれた髪の短く刈った襟足が時々震え、ただ静かな嗚咽だけが他人行儀すぎるこの部屋に降り積もっていく。
ありきたりなお悔やみの言葉などなんの役にも立たないだろう。
だけど、轟はこうも言っていた。今だけだから、と。
逞しくなった背中を懸命に折りたたみ、折れまいと堪えながら、前に進むと決めている。
綺麗だ、なんて言ったら不謹慎だ。それでも飯田はこの姿に、あり方に惹かれ、導かれてきた。
『なりてェもん、ちゃんと見ろ!』
復讐心に呑まれて倒されてしまい、救けにきてくれた級友たちが傷ついていくのを見ていられなくなった。そんな自分を蹴り上げてくれたあの言葉を、ずっと胸に抱いてきた。己を見つめ続けざるを得ないところに追い込まれてきた轟だからこそかけられた発破だったのだと知ったときには、その生い立ちの理不尽さに言葉を失った。
だから、飯田はここにいる。なりたかったヒーローに、人間になれたから。
「……ずっと、泣けなかった」
「そうか」
「燈矢兄が死んだ瞬間も、その後の葬儀も、誰も泣いてなかった。みんな泣きたいのに、泣いたらだめだと思ってたんだろうな。時間、たくさんもらえたのに、足りなかった。……俺も、燈矢兄を苦しめただけだったんじゃないかって、思っちまった」
大きな深呼吸に続き、あぁ、と轟が声を漏らす。ふと、あの夏の朝を思い出す。轟に告白をした日のことを。あの時も、轟はこんなふうに、底の見えない魂の深みから嘆きがあふれてしまったかのように呻いていた。
「おまえが来てくれて、やっと泣けた」
「少しでも手助けできたのなら何よりだ」
背中をさすっていた手をそのまま反対側に伸ばし、しっかりと肩を抱く。
「君もよく頑張ったな」
顔をあげた轟の目元は腫れているが、両の瞳には輝きが戻っている。やさしげに灰がかった鋼色と、意志強く澄んだターコイズブルーが、飯田を至近距離からまっすぐに見つめ返した。
「うん。俺もやれることは全部やった。燈矢兄には迷惑だったかもしれねェけど」
声にも力が戻っていて、口元にはやわらかな笑みが浮かべられている。
——ああ、好きだな。今でもまだ。
そっと腕を解き、飯田は訊ねた。
「食事はできているかい?」
「朝だけは頑張ってる。おまえは?」
「新幹線の中で少しいただいてきた。一緒に出てみるか、と言いたいところだが、外に行くのは難しそうだ。来る時も記者らしき人を見かけたよ」
「やっぱりな」
苦笑めいた、困惑の表情。だけど、さっきとは違って少し眠そうだ。緊張が解けたのだろう。それならば、早めに動いたほうがいい。
「簡単なものでよければ買ってこよう。手土産も持たずにきてしまったんだ」
「手土産」
一瞬、面食らった顔で呟いてから、轟は破顔した。
「うん、おまえらしくて安心した」
「むう……それは喜んでいいのか微妙なところだな」
「懐かしい感じだ」
学校を卒業してまだ一年も経っていない。だけど、飯田も同感だった。もうとっくに大人の仲間入りをしているというのに、たくさんのものに守られていたあの日々が急に恋しい。
轟が乱雑に拳で目元を拭った。
「……買い物行ってきてくれるなら、ついでに頼みたいことが二つあるんだが、いいか?」
「俺にできることなら」
飯田が頷くと、轟は、それなら、と恥ずかしそうに目を伏せてから、頼みを口にした。
「部屋の植物に水をやってきてほしいんだ。どうでもいいこと、かもしれねぇけど」
「どうでもよくはないだろう? 植物だって生き物なんだ。枯れてしまってはかわいそうだ」
——何より君が落ち込むだろうから。
そんな思いを抱いて承諾し、尋ねる。
「もうひとつは?」
「今日、泊まってほしい。ここに」
「お安いご用だとも。念の為、着替えを持ってきてよかった」
事務所に置いてある出張用の一式をそのまま掴んで出てきたから、特に問題はないはずだ。
「準備がいいんだな。相変わらずだ」
いつのまにか日はほぼ沈んでいた。部屋には夕闇が差し込み、部屋の中の調度品だけでなく飯田たち二人の輪郭をも曖昧に揺らがせている。心細そうに翳る轟の表情に、胸が絞られるように痛んだ。
「ひとりにするけれど、照明をつけて、暖かくしておくんだよ」
「うん」
「必ず戻ってくるから」
「わかってる」
幼子に言い含めるような調子で伝えたけれど、轟は素直に立ち上がって壁のスイッチをひねり、離れたところの椅子にかけてあったパーカを羽織った。そして、スウェットのポケットから何かを取り出し、飯田に放って寄越した。
「家の鍵。暗証番号もいるからラインで送る」
淡い暖色の間接照明は段階的に照度を増していった。明るくなった部屋はさっきよりは格段に過ごしやすそうに見える。轟の顔色も少しマシになっているようだ。ものを渡すのに投げたことについては今回だけは見逃してやることにして、飯田は訊ねる。
「食べたいものもついでに送ってくれるかい? どの植物にどれくらい水をやればいいのかも」
「わかった」
「なるべく早く戻ろう」
しっかりと轟と目を合わせて頷き、飯田は部屋を出た。エレベーターを待ちながら轟の自宅までの経路を確認していると、メッセージが届く。
〝蕎麦がいい。あったかくねえやつ。あれば温玉となんか適当な惣菜も〟
続いて暗証番号と部屋番号、エレベーターを降りる頃には水やりの指示が次々と入る。
〝委細承知した〟
そう返すと既読がついた。
轟に対する深い敬愛と友情に、それ以外のものが混ざりはじめたのはいつからなのか。共に何度も命の危機を掻い潜っていたあの頃はそれどころではなかったはずだが、実のところその記憶についてはあまり自信がない。大切な親友だったことに変わりはないのだけれど、そうなったきっかけの出来事は飯田にとってあまりに苦く、重たい恩義を伴うものだった。だから、最初からそうだったとしても、あの頃の飯田にはきっと気づくことはできなかっただろう。
自覚した時にはさほど驚かなかった。
彼の行動と言葉に身も心も救われたからといって、他の級友たちと比べて贔屓しているつもりは当然なかった。特別に仲がよくても、クラスの委員長としては全員のことをしっかりと見ていたはずだ。なのに、気づけば轟のことを目で追うことが増えていた。
対人訓練で見せる好戦的な表情も、目で交わす合図も、向けられたら背筋が伸びる。頼ってもらえると必要以上に張り切ってしまう。時折浮かべる無防備な笑みを自分だけが見分けられるらしいと知ったときの、高揚。他のクラスメイトたちにもそれが気づかれるようになってきたときの喜びにまとわりついた、わずかなさみしさ。
そして、あの群訝の地獄絵図の中、やさしくて雄大な氷に目を奪われてしまったから。限界寸前の身体から最初のものよりも格段に大きく放たれたその氷は、その技名のとおりすべてを包む大波となり、からくも破滅を押し留めた。遠くから眺めていても、その覚悟は眩しく、美しかった。
轟を送り届けるのに、間に合ってよかった。この脚があってよかった。心の底からそう思った。
……そう。ふたりには、確固たる絆がある。それに、轟はさまざまな魅力にあふれている。好きになって当然だと思った。そして、自分も彼にとってより特別な存在になりたくなった。
伝えるべきかは、少し悩んだ。同性愛を忌避する社会規範についての知識はあった。だが、その頃には婚姻の平等に関する法も整いはじめていたし、それゆえに差別などはもうほとんど過去のことなのだと認識していた。飯田自身、おかしなことだとも不自然なことだとも思っていない。そこにあるならあるのだと、さまざまな性のありようをさまざまな〝個性〟が存在するのと同様に当たり前に受け止めてきた。だが、轟が飯田の求めるものと噛み合うような指向であるかどうかまでは知らなかった。自覚するまでそれを確認する必要性を感じていなかったからだ。
それでも伝えることにしたのは、隠し事をすることに抵抗があったからだ。隠し事をしたせいで後に親友と呼ぶようになる二人をひどく傷つけてしまった記憶は、飯田の在り方と不可分に結びついて切り離すことができない。だから、開示しないという選択は最初からなかった。
その時の隠し事と比べたらこれはまるで他愛のないことだと、今なら踏みとどまれるだろう。だが、その当時はそんな引っ掛かりがあったせいで告白せずにはいられなかったのだ。
話すことで傷つけてしまうとは、思いもよらなかった。拒絶されるにしても、友達以外には思えないと言われる程度で済むものだと楽観的に考えていた。
寄せていた信頼が思わぬ形で仇となったことについて、とっくに整理のついた今では『あの頃の自分にそこまでわかるはずがない』とも理解している。轟家の事情が轟自身にもたらす逆風に飯田も涙したことがあったが、こんなところにまで伏兵が潜んでいたとは、本人も与り知らぬことだったのだ。
だが、今現在が轟を傷つけたことの罪滅ぼしの延長にあるとは思っていない。ただ、幸せでいてほしい。少しでも自分の手で悲しみを減らせるのなら、そうしてやりたい。轟との関係において、それが最も重要なことだった。
マンションのドアを開け急いで中に入って施錠すると、飯田はその場にへたり込んでしまった。メガネが曇っているのも直せないほどにまだ動揺していたが、轟のスニーカーを踏んでいることに気づき、足をのろのろと退ける。
逃げていったはずの記者たちがここまで押しかけることはないだろう。だが、さっきのやり取りで噴出したアドレナリンがまだ残っているのか、両脚のエンジンが揃って胸に移動してきたのかと思うほどに心臓がばくばくとうるさく脈打っている。
迂闊だったのか、運が悪かったのかはわからない。ヒーローとして活動する際、飯田はヘルメットを被っていることが多い。広告や広報の仕事もまださほど多くはないため、普段は後ろに流している前髪を下ろしておけば、人口の多い東京ならある程度は紛れることができていた。だが、轟のマンションの下で張っていた記者の二人組にはそれが通用しなかったのだ。
『お疲れ様です、インゲニウム! ショートとは連絡取れていますか? ねえ、家にいるんでしょう? 全然出てこないんですけど、仕事もしないで何してるんですかねえ? 先日死亡した『荼毘』と、エンデヴァーの会見について聞きたかったんですけど、ご友人のあなたからもコメントをお願いしますよ!』
カメラとマイクを不躾に突きつけられ、息が止まる。
『黙ってないでなんとか言ってくださいよ』
『ヒーローのアンタも無関係じゃないでしょう』
『犯罪者の兄弟なのによく友達付き合いできますね』
わざと過激に挑発して反応を引き出すための質問を、答える間もなく畳み掛けられるように繰り返される。乗ってはいけないと思いつつ、一気に視界が赤で満たされた。沸騰しすぎて耳鳴りがする。
轟は、ずっとこれに晒されていた。何日も、きっと、もっと苛烈な勢いで。
『あなたたちは、恥ずかしくないのか!』
生来のよく通る声で怒鳴りつけると、相手が怯んだのがわかる。だけど、止まれなかった。
『身内を亡くしたばかりの青年を追い詰めて何がしたいんだ? あなたたちが今すべきことはショート君を追い回すことか? あなたたちのせいでショート君は本分であるヒーロー活動はおろか、家に帰ることすらままならないんだぞ! 会見の内容に疑問があるなら、問い合わせるべきところが他にもあるだろう! 放っておいてやってくれないか!』
怯んだはずの相手がニヤリと笑い、しまった、と思った時には遅かった。
『ヒーローのくせにそうやって市民を恫喝していいんですかぁ? いやぁ、ショートくんもいいお友達がいて幸せっすね。じゃあ、しかるべきところに連絡して、厳重に抗議させていただきまーす』
勝った、と言わんばかりにほくそ笑んで、記者たちは逃げ去っていった。誰かが通報したようで、パトカーの音が迫ってくる。
その場に残って駆けつけた警察官に事情を話すと、注意されつつもパトロール強化をすることを約束された。
『ショート君がせめて帰ってこられるよう、すみませんが、よろしくお願いいたします』
そう頭を下げると、『わかっていますよ。ショートにはいつもお世話になっているんで。あなたのことも応援していますから』と慰められてしまう始末だった。
座り込んだまま、どちらに先に連絡をすべきか迷って、まずは兄の私用端末のほうに通話をかける。
二度目の発信音が終わるところで、応答があった。
「所長、いま話せますか?」
『いいよ。どうした?』
飯田はまず無事に轟に会えたことと、ホテルに避難していること、そして帰るのは明日になることを伝えた。
「それで、謝らないといけないことがあるんだ」
『うん』
「記者に詰められて、怒鳴りつけてしまいました」
『おお、そっか。手は出ていないな?』
「当たり前だ、兄さん。足も出ていないぞ」
怒鳴った経緯とやり取りの内容を覚えている限り伝えると、兄はうんうんと相槌を打ち、まずは『大変だったな』と労ってくれた。
『だけど、好感度や支持的にはちょっと厳しいな。大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば、五分五分だ。いまでも復興は続いている。ご遺族だけでなく、後遺症に苦しんでいる人たちや、そのご家族だっている。テレビでもこないだ特集があったばかりだろ?
天哉は間違ったことも言ってないし、暴言も吐いていない。それでも、あの『敵連合の荼毘』の身内をヒーローが庇ったことで、複雑な思いをする人たちがいるのはわかるな?』
飯田自身、在学中の轟が被害者遺族の声を直に受け止めている場面に出くわしたことがある。そのときは、教師や引率のヒーローがそれとなく穏便に引き離してくれていた。近くにいたのにうまく守れなかったことを悔しがる飯田を、これは大人の仕事だから、と諭してくれたのを忘れていたわけではない。ただ、今回は同じように守ろうとしたものの、『轟は関係ないはずだ』という思いが強すぎたのかもしれない。
「はい、わかります、兄さん」
静かに返事をすると、兄は朗らかに笑った。
『よし! なら後は仕事で取り返していこう。というか、俺たちにはそれしかないからな。実際に報道に乗るかはまだわからないけれど、対策はしておこう。復帰したらその分しっかり働けよ、インゲニウム? 市民の皆さんがおまえの頼もしい姿を待っているんだからな』
「はい。迷惑をかけてすみません。よろしくお願いします」
通話を切って、飯田はようやく立ち上がり、ダッフルコートの裾をパンパンと払った。靴を脱いで揃え、乱してしまった轟の靴たちを並べ直す。
「洗面所、借りるよ」
家主がいないのをわかっていても、つい断ってしまう。泡のハンドソープを手に取るとふわりとオレンジの香りがして、ささくれだった神経が丸くなっていく。ハンカチで手を拭きながら、飯田はどうにも泣きたくなってしまって目を瞬かせた。
だけど、いまは用事があってここにいる。
初めて入る轟の部屋は縦長の広いワンルームで、手前を事務用兼リビングのスペースにしてあり、奥は細く削り出した木材を縦に連ねて張った明るい色の和風の衝立で仕切られていた。二、三人用の応接セットにテレビとホワイトボード、壁には周辺地図まで貼ってあり、よく使われている形跡がある。
用具入れから小さなジョウロと霧吹きを持ち出し、キチネットで水を汲んでから衝立の奥へと入ると、そこには畳が敷かれていた。六畳程度の空間に文机と座椅子、小さな和箪笥が置かれ、隅には布団が丁寧に畳んである。微かに涼やかな花のような香の匂いがして、手に残るオレンジの香りと混ざった。ふたつの匂いは互いに異質なもののはずなのに、轟が揃えたものだと思うとなぜかしっくりと馴染む。
安らげるように整えてある部屋から轟を追いやった者たちが憎い。いや、憎んではいけない。あのような人を人とも思わない行いが、商売として成り立っていること。社会の治安維持がヒーロー中心にふたたび立て直されてきているのに、まだ不信と不安を払拭しきれていないこと。どちらも本当のことで、今はただ、やりきれないだけだ。
最初の棕櫚竹の鉢は机の隣、窓際にあった。これは葉を霧吹きで湿らせる。見覚えのある箪笥の上の盆栽は給水機の水を補充するだけ、机の上の見知らぬ多肉植物の寄せ植えは触らなくていい。愛らしい艶やかな丸みを見遣ってから、リビングのほうへと出る。
次は応接エリアのパキラと、ポトスの鉢が三箇所。ポトスは枯れた葉をいくつか鋏で摘み取ってから、ジョウロで水を注ぎ、霧吹きで葉を湿らせる。パキラは先に埃を軽く払ってやる。
——轟くんが戻ったら、しっかりと出迎えておくれよ。
そんな願いを込めて手入れをしていると、癒しとはまた違う、責任感のようなものが芽生えてくる。忙しいはずの轟がなぜ部屋に世話の必要なものを置いているのか、勝手ながら、少しだけ理解できた気がした。
摘み取った葉はゴミ袋にまとめて玄関の棚の隅に置いておく。これも指示どおり。
これですべての用は済んだ。あとは食事を調達して、ホテルの部屋に戻るだけだ。だが、その前に、轟に連絡をしなくてはいけない。
最初の発信音の途中で轟は応答した。
『平気だったか?』
「部屋は問題なかったが、俺が平気じゃなかった。記者がしつこくて、怒鳴ってしまったんだ。君にも迷惑をかけることになるかもしれない。先に兄さ……所長には相談したのだが、連絡が遅くなってすまない」
そう白状すると、一瞬の間のあとで、くく、と珍しく喉を鳴らして笑われた。あるいは、泣きそうなようにも聞こえた。
『飯田は昔から、なんつうか、激情家だよな』
「面目ない」
『こっちこそ、俺のせいで嫌な思いさせて悪かった。笑うことじゃなかったな』
「それこそ気にしないでくれ。うまくかわせなかった俺に非がある。……これから戻るけれど、何か他に欲しいものはあるかい? ここから持ってきてほしいものとか」
すっ、と沈黙がよぎる。
『いや、おまえに早く戻ってきてほしい』
「わかった。すぐに戻るよ」
通話を切り、ふと思い立って衝立の向こう側へと戻る。そして、かすかな匂いをたどると、箪笥の上に開けっぱなしの小さな箱を見つけた。手のひらに乗るくらいの大きさのその箱には可憐な竜胆の絵があしらわれていて、中には藍色の香が半分ほど残っている。隣には燃えかすの残った香立てと、同じ箱がもう一つ封を切られて置いてあった。
飯田は両方の箱の中身を確かめてから、開けっぱなしにしてあった方の箱をジャケットの内ポケットに入れた。ホテルの室内で焚くわけにはいかないだろうが、サイドテーブルに置いておくくらいなら平気だろう。
コートを着てから、しまい忘れたものがないか確認し、部屋を後を出る。そして、今度はもう少し落ち着いた状況で遊びにきたいものだと鍵を閉めた。
尾行を撒きつつ戻った頃には、『すぐ』とは言えないくらい時間が経っていた。途中でタクシーを拾えたから遠回りして、コンビニに寄ってもらって買い物も済ませたが、部屋についたら轟は居眠りをしていた。テーブルの上は片付けられていて、コーヒーカップも新しく届けてもらったのか、トレイの上にきれいに伏せられている。きっとすることもなくなって待ちくたびれてしまったのだろう。少しは気が抜けているのならそれに越したことはないのだけれど。
「轟くん」
ソファの上で大きな身体を丸めていた轟をそっと揺すると、うう、と呻いて「おそい」と舌足らずな調子で文句を言われた。
「ごめん、後を尾けられていたんだ。食事はできそうかな」
「できる」
のそのそと起き上がった轟は、やっと頭がはっきりしてきたのか「ごめん」と謝った。
「遅かったのは事実だ。具合はどうだい?」
時間にして三十分ほどは寝ていたのだろうか。聞くまでもなく、顔色はかなり良くなっていた。
「最悪じゃなくなった」
「なら上出来だ」
それぞれ食事を済ませてから、飯田はさっきの記者と警察とのやり取りを詳しく説明した。実際の言葉を繰り返すのはいたたまれないから勘弁してもらったが、警察に注意されたくだりで轟が眉をひそめた。
「おまえ、悪いことしてねえだろ」
「激昂して他人を怒鳴りつけるのはそれだけで暴力になりうる。俺は体格も大きくて声もよく通るんだ。声を荒げたらそれなりに恐ろしいという自信もある。ましてや、ヒーローと民間人なら気をつけるべきは俺たちの方だ」
肩を落とす飯田を相手に、それでもまだ納得できないのか轟は食い下がる。
「飯田が何言っても……たとえば、爆豪よりひどいことになるとは思えねぇが」
「比較の問題じゃないだろう」
かつてのクラスメイトで、多種多様な暴言を繰り出していた才能豊かな男の凶悪なしかめ面が頭をよぎる。幼馴染である緑谷との確執と謝罪、大戦での勝利と絶対安静の大怪我を経て丸くなったかと思いきや、頻度が減ったぶん威力を増した罵詈雑言は必ず真っ当な正論を伴うようになり、仲間内では『殺傷力ヤベーけど、愛がないわけじゃないんだよな』『そんなところまで凝縮するなんてさすがだぜ』『痛いとこ更に抉られるけどわかる』などとも評されていた。だが、世間がそこまで理解してくれるとはまだ思えない。
「しかし、あの調子だと、彼のところにも押しかけられていそうだな。ベストジーニストのほうで対策してくれているといいのだが」
爆豪の現在の上司であるヒーローの名を出せば、轟が神妙に頷いた。
「そうだな。うまくやってくれると信じるしかねぇ」
懐かしい人の話をして互いに気持ちがほぐれたのか、心地よくまったりとした空気が部屋に満ちる。と思いきや、轟の様子に、まずい、と飯田は気を引き締めた。
「轟くん、ひどく眠そうだぞ。寝る支度をしたほうがいい」
まだそこまで遅い時間ではないが、張り詰めていたものが緩んだせいか、轟はうつらうつらと舟を漕ぎはじめていた。
「ああ」
小さく返事をして、轟はのろのろと着替えを探し出してから洗面所へと向かった。少ししてからシャワーの音が聞こえてきた。飯田も出張セットの中から明日の着替えのシャツを取り出してハンガーにかける。洗面用具も替えの下着も揃えて出す。
そこまで確認すると、手持ち無沙汰になってしまった。運よく読みかけの本を持ってきていたので、途中からページをめくると、仕事とはあまり関係がない内容がほどよく緊張を和らげてくれる。
やがて、水音が止み、しばらくしてからTシャツにハーフパンツ姿の轟が出てきた。
「髪は乾かさないのかい?」
「洗面所、占領したくなかった。おまえが使ってる間にこっちでやる」
タオルを首にかけ、ドライヤーが収納された袋を掲げる轟はやはり眠そうだ。
「わかった。終わっても、無理に起きていなくていいからな。あと、これを。勝手に持ち出してすまないが、何か落ち着くものがあればと思ったんだ」
ソファの背にかけてあった上着のポケットから香の小箱を取り出すと、轟が目を丸くした。
「よく見つけたな」
「箱が開けっぱなしになってたよ。ここだと火はつけられないだろうが、近くに置いておけば少しは香るんじゃないか?」
「……ああ、助かる。これ、気に入ってるんだ」
轟は心の底から安心したように微笑んだ。そして、小箱を手渡すと、ほんの数分の一秒ほど手を握られ、すぐに離された。
「では、おやすみ、轟くん」
「おやすみ、飯田」
ジャケットをクローゼットにかけていると、ドライヤーの風音が聞こえてくる。
少し軽くなった心と足取りで、飯田も風呂へと向かった。
洗面所から出ると、轟はすでにベッドで寝息を立てていた。飯田は轟を起こしてしまわないように洗面所に戻ってドライヤーをかけ、静かに歯を磨いた。
ホテルのパジャマでは落ち着かないかとも思ったが、生地の質はよく、轟が指定してくれたのかサイズもちょうどいい。適度な眠気を感じ、小さくあくびが出る。本当にいろいろなことがあった一日だった。
寝室の二つの大きなベッドはぴったりと隙間なく並べられていて、外側の端だけでなく真ん中の頭側にもサイドテーブルが埋め込まれている。下手にその近くに寝てしまえば頭をぶつけてしまうんじゃないかとも思ったが、轟は適度な距離を保ったまま、飯田が使うベッドのほうを向いて目を閉じていた。あの花の香の匂いも微かに漂っている。
卒業してからの一年足らずで精悍さが増した顔も、今はどこかあどけない。子供の頃に負わされたという左目を囲う火傷の痕も痛々しいはずなのに、穏やかな表情がそれを感じさせない。
こみあげる愛おしさを無理に押さえつけたりはしなかった。その感情自体は、悪いものではない。それに行動を縛られることはなく、自身の存在意義にしたりもしない。ただ、胸からあふれそうになる前に深呼吸で少し逃し、甘やかな痛みをしばしあやす。そうやって、共存してきた。轟と、友人でいるために。
メガネを外し、外側のサイドテーブルにおいてから、飯田はもうひとつのベッドに潜り込んだ。
「……おかあ、さん?」
ベッドが軋んだせいか、轟が小さく囁く。顔を向ければ、うっすらと目が開いていた。ぼんやりと夢と現の狭間にいる子供の瞳で見つめられる。
「俺だよ、残念だけど」
そう伝えると、轟は何度か瞬きをし、バツが悪そうに眉を歪め、ふたたび目を閉じた。
「……べつに、ざんねんじゃ、ねえ」
轟はそう呟いたけれど、その後はまた寝入ってしまったようで、飯田もその寝顔を眺めながらいつしか眠りに落ちていた。
なにかが動く気配がして、目が覚める。見慣れない部屋のカーテンの裾から淡い光が差し込んでいた。枕元の時計は午前六時半を表示していて、夜勤以外の日ならとっくにパトロールも兼ねたロードワークに出ている時間帯だから、完全に朝寝坊だ。
ふ、と笑いを堪えるような声が隣から聞こえ、飯田はここがどこなのかを思い出した。
隣を見遣れば、轟は飯田に背を向けている。チラチラと光が見えるのは、なにかの画面だろうか。
「轟くん、起きているのか?」
声をかけると、引き締まった背中がもぞもぞと寝返りを打ち、飯田は轟と顔を合わせた。
「起こしちまったか」
イヤホンを耳から引き抜きながら、轟が訊ねる。
「いや、俺はいつもこれくらいには起きているよ。君は? よく眠れた?」
「ああ、ここにきてから初めてちゃんと寝られた気がする」
んー、と唸って、轟は目を細めた。布団の中で軽く伸びをしているようだ。猫のようだな、と観察していたら「おまえ、ニュースに出てたぞ」と突然言われ、飯田は「はぁっ?」と素っ頓狂な声をあげた。
「ほら、これ」
差し出されたスマートフォンの画面で再生が中断されているのは、確かに飯田自身の姿だった。轟が再生を押すと『……放っておいてやってくれないか!』と外されたイヤホンを割る勢いで自分の声が流れてくる。思わず勢いよく飛び起きてしまうと、轟も身を起こし、ベッドの上に胡座をかいた。
「これ、ノーカットって言ってるが、そうなのか?」
「もう一回見せてくれ」
スピーカーに切り替えて、動画の最初から再生する。顔が熱いのに冷や汗が流れる。轟の〝個性〟がなんらかの理由で伝播したのではないかと錯覚するほどだ。
「確かにカットはされていない、と思う」
「そうか。……ウェブ系でもさらに下世話な奴らに捕まっちまったみてえだな。それを大手がわざわざ拾って拡散してやがる」
心の底から呆れたような声で言われ、さらにいたたまれない。飯田は思わず顔を覆ってしまった。
「誠に申し訳ない」
か細い声で絞り出すと、轟が即座に否定する。
「よせよ。本当は俺狙いだったんだ。そんなつもりはなかったが、おまえを身代わりにしちまった……でも、怒ってくれて、結構スカッとしたのは本当だよ」
ぽふ、と頭に心地よい重量のなにかが乗った。髪をくしゃりと乱されて、はじめて撫でられていることに気づく。思いがけない接触に、とくん、と胸が高鳴り、頬が一気に熱くなる。飯田が驚いて顔を覆った手をずらすと、気遣うように見つめる轟と目が合った。
「……わり。あんまりしょぼくれてるから、つい。勝手に触って嫌だったか?」
「嫌なものか」
「じゃあ、もう少しだけ労わせてくれ」
目を細め、轟は飯田の頭を撫で続けた。楽しそうでもあり、眩しそうでもあり、轟自身が撫でられているかのように気持ちよさそうにも見えた。
だけど、ずっと見ているわけにもいかず、視線を彷徨わせてしまうのが恥ずかしい。目を瞑るともう片方の手も加わって、ぐしゃぐしゃぐりぐりと遠慮が完全に失われる。
嫌ではないのは本心だ。それでも、飯田が自ら課した線引きがぐらついてしまいそうになるような、近すぎる接触だ。
こんな時でなければ、なんとかして逃げていた。
こんな時でなければ、こういうことはされなかった。
「くすぐったいよ」
「我慢できねえか」
「君がそうしてほしいなら、いくらでもするけれど」
は、と息を呑む音が、なぜか苦しそうに聞こえた。だが、閉じていた目を開けようとした瞬間、二人のスマートフォンが同時に振動した。
メッセージアプリを開くと、久しぶりに三人だけのトークルームに通知が出ている。緑谷だった。
〝轟くん、飯田くん、大丈夫? ネットですごいことになってるよ〟
眩いほどに強い意志を持ち、多彩な力を後天的に受け継いでいたが、闘いの中で〝個性〟を失い別の道を歩むことを決めたもうひとりの親友。その緑谷は、飯田が撮られてしまった映像を見てわざわざ連絡をくれたようだ。
〝今は特に何もないよ。心配をかけたな〟
先に返事をすると、轟が続けた。
〝飯田は悪くない〟
〝当たり前だろ〟
すぐに返ってきた言葉に、二人でほっと息をつく。
それから何往復かし、元A組のトークルームの方を見たかと聞かれたので開いてみると、飯田と轟のことと、他にも何人か接触されたという話題がすでに投稿されていた。
〝うちのことで悪い〟
轟が投稿すると、まだ早い時間なのにポツポツとリアクションが飛んでくる。泣いている絵文字やハートを飛ばしている絵文字、大変だったなという言葉など、いたわるようなものが多い。飯田も〝例の動画だが、すべて本心とはいえ俺の不徳の致すところだ〟と投稿する。
〝私もきっと同じように言ったわ〟
〝久々にガーッて言ってる委員長見て元気出た!〟
〝アレで怒らねえ奴は漢じゃねえよな!〟
とてもありがたく心強いが、肯定されすぎて不安になってくる。みんなの気持ちを無碍にはしたくないけれど、クローズドな場とはいえ、こういう態度が市民感情を逆撫でするのではないか。厳しい意見をすべて内面に留めおく必要はないが、理解できる部分もあるのだ。
飯田は端末を持つ手に力を込めた。
そんな中、ある一言が飛び込んでくる。
〝取り乱してんなよ〟
目を見開き確認すると、投稿者は爆豪だった。誰かが返信をする前に、飯田は素早く動いた。
〝みんなありがとう。でも爆豪君の言う通りだ。轟君にも要らぬ負担をかけた。許されるのなら、これからの活動で信頼を取り戻していけたらと思う。見守っていてほしい〟
〝見せつけ殺したれ〟
即答での追撃を見たのか、轟がふっと鼻を鳴らした。
「よかったな、飯田」
「ああ。身が引き締まる思いだ」
乱された髪を轟の手がするすると整えていく。これからどうせセットするのに、とも思ったが、止めるのも惜しくなってしまって飯田はされるがままでいた。助けに来たつもりなのに情けないけれど、もう少しだけ慰めてもらえたら、と。
それに、向けてくれる親愛を素直に浴びるのは悪いことではない、はずだ。
やがて満足したのか、轟は頷いた。
「朝ご飯、なんか頼むか? ここのオレンジジュース、結構うまかった」
ならばと二人でサイドテーブルの引き出しに入っていたメニューを顔を寄せ合って眺めていると、合宿みたいだ、とまだ眠そうな轟がほわりと呟いた。昨日この部屋に着いた時よりもずいぶんと気が緩んだ様子でホッとする。
「君がオレンジジュースなんて珍しいな」
〝個性〟を駆使するための燃料として朝昼晩と摂取している飯田とは違って、轟が特に好んで飲んでいた記憶はあまりない。
「食欲なかったから。……あと、懐かしくて」
じっと見つめながら微笑まれ、轟の言葉を反芻する。もしかして。
「……俺が飲んでいたから?」
「まあ、な」
轟が頬をわずかに染めているように見える。だが、部屋の中はまだ明るくなりきっていない。だから、きっとそれは見間違いだ。
「少しでも慰めになったなら何よりだ」
「結局呼びつけちまった」
「頼ってくれてうれしかったぞ」
「おまえに言われたから、卒業式のときに。圧がすごかったもんな」
「念を押しておいてよかったよ」
飯田の言葉に、轟は薄く笑って頷いた。
朝食とともに運ばれてきたオレンジジュースは確かに美味しかった。国内の契約農場で栽培されたオレンジを使っている搾りたてで、色味も風味も強く、瑞々しさが眠気の最後の名残をすっきりと拭い去っていく。普段は必要だから摂取しているものだが、たまにはこだわってみるのもいいのかもしれない。
向かいのソファに座る轟は湯豆腐と卵かけご飯の定食というタンパク質を意識した食事をゆっくりと咀嚼し味わって食べているようだ。飯田の頼んだトーストとスクランブルエッグも素材からしていいものを使っているようで、シンプルながら満足度は高い。
「仕事、何時からだ? もうそろそろ出なきゃいけねえんだろ?」
轟が何気ない様子で尋ねた。
「ああ、朝食が終わったら失礼するよ。午後イチまでには事務所に戻らないと。PR室の事情聴取もあるだろうから」
「事情聴取?」
PRとはそぐわない物々しい言葉に、轟がややギョッとした顔をする。
大戦後、一度崩壊したヒーロー社会の立て直しの一環として、ある程度の規模のチームや事務所には独立したPR部署を置くことが義務付けられていた。TEAM IDATENも例に漏れず、わざわざ広報業務を担うための人材を内外から募集し作り上げたのがその部署なのだ。飯田は説明しながら、ため息をついた。
「かなり容赦がなくてな。インタビューの受け答えも全部分析されて、コンプライアンス的により良い言い換えをすべきところだけでなく、表情の拙さなども細かく指導される。ありがたいことだし、確かにどれも改善の必要なところでもあるんだが、打算的に感じてしまうこともあって……こう、空回って、ドツボに嵌る」
手を揃えぎゅっと狭めて表現してみると、ドツボ、と可笑しそうに復唱され、飯田も苦笑を浮かべた。
「親父のとこは、そういうのは今でも最低限なんじゃねえかな。バーニンもあんまり気にしたりしねぇし、被害者への補償については公安が間に入ってくれてるから」
さらりと言うが、苦しそうではない。あえて拾わず、飯田は頷いた。
「なるほど。スタイルの違いかもしれない。うちは救助が中心だからね。武闘派も兼ねているのは俺ともう二人ほどしかいないから、派手な働きが期待されるヒーローと違って、地道に信頼を積み重ねていかないといけない」
「だな」
かたん、と箸が置かれる。飯田もちょうど食べ終わったところで、ふう、と二人のため息の音が重なった。
「ずいぶんと顔色がよくなった」
「ああ、もう大丈夫。おまえが来てくれたから、あとは自分で頑張れる」
そこまで言ってから、恩師のひとりの決め台詞を意図せずもじってしまったことに気づいたのか、轟が頬を赤くした。
「俺も担当さんに連絡しねぇと」
「うむ、すり合わせが必要なことがあれば教えてくれ。俺のほうも何かあったら連絡しよう」
会話を切り上げ、轟が食器の片付けをしている間に飯田は手早く身支度を済ませ、これから戻ると兄に連絡を入れた。今から新幹線に乗れば、午後にはじゅうぶん間に合う。
最後に忘れ物がないか確認していると、轟が声をかけてきた。
「飯田。これ、やる」
差し出されたのは、飯田が轟の部屋から持ち出したお香の箱だった。
「いいのかい?」
「ああ。自分用にちょっと取り出したから残りは少ねえけど」
「あまり使う習慣はないけれど……でもいい機会だ。試してみよう。ありがとう」
ジャケットの内ポケットにしまい込むと、今度は袖を引かれた。
「あ、あと……すげえ恥ずかしいこと、最後にひとつだけ聞いてくれるか」
珍しく口ごもる轟に「もちろん」と頷く。
「……もう一回、背中撫でてほしい」
「わかったよ」
向かい合っているから抱きしめるような形になってしまうが、轟は気にしていないようだった。背中に手を回してさすると、かなり人間らしい体温に戻っている。
「よし、しっかり温かくなっているな! 昨日は背中がひどく冷たくて心配したんだから」
「そうだったのか。……だとしたら、おまえが火を入れてくれたんだな」
肩に預けられた額から鎖骨に声が伝わる。じんわりと心臓が温められていくようだ。
——その火は、そもそも君が点けてくれたものじゃないか。
今更そんなことはもう言わない。かつての過ちも、闇を照らし導いてくれた炎のことも、絶対に忘れないけれど。
どちらからともなくそっと離れ、頷きあう。
「落ち着いたら、うちに普通に遊びにきてくれるか? なんにもねえ部屋だけど」
「素敵な部屋だったよ。お招きいただけるのを楽しみにしている」
轟の肩を、パシッ、と音が出るほど叩いてから飯田はコートを着込んだ。
「じゃあ、また連絡するよ。暖かくしておくんだぞ。食事も食べられそうなものをちゃんと食べて、あとは、なるべくひとりにならないで」
「うん。来てくれて、本当に助かった。ありがとな、飯田」
やわらかい笑みで見送られ、飯田は部屋を後にした。
外に出ると、夜中に降ったらしい雪がまだ粉砂糖をかけたように一面に残っていて、反射した朝日が行き交う人々の顔を明るく照らしていた。
〝少し雪が降ったようだよ。とても綺麗だ〟
通行人が写らないように写真を撮って、別れたばかりの轟にメッセージを送る。君みたいだ、というのは心の中だけで書き添える。そして、既読がついたのを確認してから、飯田は駅に向かって歩き出した。
大切な親友にとって、これからのすべての朝がきらきらと澄んでいてほしい。
飯田天哉は、冬晴れの空にひっそりとそう願った。
元フレイムヒーロー・エンデヴァー電撃離婚の文字が新幹線の車内電光板に流れたのは東京駅到着十分前、そろそろ荷物を持ってデッキに出ようとしていたときのことだった。
そんな話は聞いていない。轟にメッセージを送ったが、既読がつくだけで返事はなかった。〝何かあれば連絡をください〟と追伸を送ると、それも見てくれているようだ。なら問題はないだろう、と飯田は職場である事務所へと向かった。
PR室との会議では、飯田が記者と衝突した件が午前中のうちには民放のほぼ全局に流れていたということを聞かされた。否定的な反応は予想どおり。ただ、応援してくれる人たちの意見の中に、暴力の行使を強固に肯定するものが散見されるのが今後の注意点だろう。
ネットの各所で見つかった特に過激な具体例をいくつか挙げられたが、それらはすべてヒーロー公安委員会に報告済みとのことだった。そして、今回の件はエンデヴァーの離婚報道により有耶無耶になる可能性が高いが、それに慢心せず誠実な対応を心がけることが当面の課題となった。状況の共有後は、市民に声をかけられた際の受け答えの練習を二十分ほどしてから会議は終了した。
兄にも報告を済ませ、解放された頃には外はすっかり暗くなっていた。本来なら夜勤当番の日だ。だが、『せっかくだから三日くらい謹慎しとくか。応援も批判も落ち着いて受け取れるようになるまで休んどけ。所長命令だ。ハイ、お疲れ様』と、夜間のパトロールに出るつもりだったのに帰らされてしまったのだ。
そうやって甘やかされるのは未熟ゆえだ。悔しい、不甲斐ない。それでも、立ち回りの反省はあれど、後悔は驚くほどなかった。
建物から踏み出し、冷たい空気を肺に吸い込んだ瞬間、ブゥン、とやわらかい音がポケットを振るわせる。邪魔にならないよう場所を移してからメッセージを開く。
〝俺は平気だ。おまえも仕事がんばれよ。俺も来週から復帰する〟
報告の合間に激励の言葉が挟まれている。それ以上のことも、それ以下のこともない。報道のことは聞いたほうがいいだろうか。そう逡巡してから、頭を振る。
〝俺に聞いてほしいことがあったら、いつでも言ってくれよ〟
そう送ると、すぐに立て続けに返事があった。
〝なにもなくても連絡はする。近いうちにちゃんと家に呼びたいしな〟
〝明日からあっちの事務所で寝泊まりすることになったから、まだ先だけど〟
ひとりになるなと言ったからだろうか。複雑そうな表情が目に浮かぶ。なら、かける言葉はひとつしかない。
〝早く帰れるといいな〟
会話が終わったと判断したのか、既読だけがついて返事は来なかった。飯田も端末をポケットにしまって、両親の待つ家へと帰路を急いだ。
反省をし、明日に活かし、離れていても友と並び立つために。これから先も、ずっとそうあるために。