We Are Golden①

1.白熱とダイヤモンド(十七歳、初夏/十八歳、春)

 雄英のキャンパスには何もないポケットのような空白がいくつかある。度重なる破壊と増改築により生じてしまったそれらは死角めいた位置にあるものがほとんどで、学生たちにとってはさまざまな内緒の会合や相談事、あるいはもう少し心躍るらしい何かのためにうってつけの場所となっていた。もちろん、監視されているのは周知の事実だ。何かあれば潰されるのがわかっているから、そういった場所でトラブルを起こす生徒はいない。
 そんな大人たちの信頼の証でもある場所のことは、轟焦凍も例に漏れず知っている。学校の再建が終わり、街の復興も進んで、前よりも少しは学生らしい生活ができるようになった頃から呼び出されることが増えたからだ。
 そうした場所で伝えられる頼み事を断るのは気が重い。それでも毎度のことながら律儀に出向いていたのは、最初から断ると決めていても、話を聞いてからにしたかったからだ。
 対話から逃げたくない。さまざまな後悔がそうさせているのか、あるいはこの学校にやってきてはじめて親しい友人たちができた経験が自分を突き動かすのか。それは判然としないことだったが、断るにしても話すことで双方になんらかの気づきがあるといいと、轟は思っている。
 だから、友達——親友と、言ってもいいだろうか——の飯田に呼び出されたのには、少し驚いた。自分のことを含め、周りを常によく見てくれている彼が、なんの話があってわざわざそんな場所へと呼び出すのだろう。話なら寮の部屋でしてもいいはずだ。

 まさか、とは思うけれど、聞いてみないといけない。飯田天哉の話なら、なおさらきちんと聞きたかった。
 早朝のぱっきりと爽やかな空気がもう緩みはじめている。暑くなりそうだ、と首にかけたタオルで汗を拭ってから、轟は演習場と演習場の間を抜けて、二つ目の角を覗き込んだ。
「轟くん」
 溌剌とした声に迎えられる。その三畳程度の場所には、運動着のままの飯田が待っていた。
「こんな時間にすまない。あと、走り込みをしていたら熱中してしまって、着替えてくる暇がなかったんだ。汗くさくないかい?」
 夏向けのハーフパンツの膝下からは、内燃機関を内蔵した逞しい脹脛が堂々と晒されていて、燃料のオレンジジュースのわずかに焦げたような甘くて重い残り香が漂っていた。熱中していた割に、文字通りの不完全燃焼気味だったのだろうか。どのみち飯田の匂いだ。不快なはずはない。
「いや、平気だ。俺も走ってきたし、寮に戻って出直してたら二度手間だろ」
 三年生になってから後ろに撫でつけるようになっていた飯田の髪は、今朝はまだセットされていない。下ろした前髪は以前よりも長く、顔周りに落ちるのを避けるように耳にかけられている。見慣れているのに懐かしく感じるのは、数ヶ月後に控えている卒業を早くも意識しているからだろうか。だが、その下の力強い眉と瞳にはいつもの元気がない。さっきの笑顔も少しぎこちなかった。
「何かあったのか」
「いや、そういうわけじゃないんだ。……気持ちの、問題で」
 飯田が思案するように目を伏せた。ほんのりと染めた目元に反し、唇は固く引き結ばれている。
 不本意ながら踏んできた場数ゆえに、轟にはわかってしまった。どうやら目的はこれまでの呼び出しと同じらしい。
 告白。交際を求めるための、好意の宣言。
 これまでは、すべて断ってきた。相手の性別に関わらず、知らない人に好意を向けられる理由が轟にはよくわからない。そういう話題に人一倍敏感なクラスメイトたちに『モテるのならありがたく思うべきだ、むしろ女子なら紹介しろ』と眦をつりあげ諭されても、まったく理解できないままだ。
 でも、飯田ならわかる気がする。飯田なら、うれしい。飯田なら——
 そう思った瞬間、脳裏に赤く燃える巨大な影が差す。目の前には板張りの床が熱を吸って膿んだように温んでいる。後ろからは倒れ伏した母の弱々しい呻き声が意識をぐにゃりと溶かす。
 身を竦ませる恐怖と吐き気。逃げられない。全力でもまだ足りないと突き飛ばされ、立ち上がるよう強要する壁。
 遠くから轟を呼ぶ声が聞こえたけれど、地獄の業火はその場に轟を縫い止めた。
 ——そいつはもう、乗り越えた。受け入れて、前に進んだだろ。
 目の前の影を睨みつけながらそう否定するが、厳しい威圧感を放つ顎はゆらりと溶け、母譲りの丸みを帯びた頬がそこに重なる。凪いだ翡翠色の瞳は、自分の片側の瞳とまったく同じ色だ。重なるふたつの影にただ冷たく見下ろされ、轟は炎の壁がすべてを食らい尽くすのを止められずにいる。
 ——親父だって、変わった。償おうとしているのに。俺だって。
 そんなことはわかっている。
 だけど、ダメだ。飯田だから、ダメだ。おまえ、だけは。
「なんの話か、たぶんわかった。けど、ちゃんと聞かせてくれ」
 弱々しく震える言葉を取り繕うこともできなかった。
「何を言っているんだ! 俺の話などいいから、寮に」
 驚嘆の声とともに差し出された手を跳ね除け、轟は唸った。
「よくねえ。早く話せよ」
「だが」
「話してくれたらすぐに帰る。だから、頼む」
 地を這うように絞り出した轟の声と突然の気迫に飯田が息を呑んだ。胸が軋む。だけど、聞かないといけなかった。
「そう、なら……まず前置きをさせてほしい。君に何かを望んでいるわけじゃない。ただ、気づいてしまったからには、近しい君には伝えないと不誠実というか、俺としては隠しておくのもきっと難しく……いや、伝えるからには多少は何かしらの結果を期待しているのかもしれない。だが、これまで君の交友関係について詳しく聞いたことがなかったし、判断材料がない。だから、思い悩むよりは聞いてほしいと思ったんだ」
 言うな、と言いたくなる。だが、促してしまったからには、もう後戻りはかなわない。言葉を探しながらも急いで話し続ける飯田を、轟は息を止めて見つめていた。
 そして、視線がぶつかる。レンズの奥で張り詰めたような飯田の深紅の瞳が、心配そうに瞬いた。話を切り上げてケアを優先すべきだとわかっていても、轟の望みに反することをしたくないという迷い。そんな戸惑いを、轟は大切な親友に押し付けている。
 飯田は苦しそうな表情のまま、ゆっくりと告げた。
「俺は、君のことが好きだ。友人としてだけでなく、特別に、恋愛対象として、好きなんだ。……返事は、いらない。ただ知っていてほしかっただけだ。あと、その、迷惑に思うならそう言ってくれると……気をつけてはいるんだが、たとえば距離感が適切でないようなことなどがあれば——」
 飯田の声が遠のく。ふ、ぅ、と小さく息をつく音が立て続けに聞こえ、その荒い呼吸が自分のものだと遅れて気づく。視線の先には青々とした芝生と、こちらに向く白いスニーカーのつま先がいやに近い。知らないうちに俯き、膝を折っていたらしい。
「轟くん、大丈夫か!?」
「わりぃ、飯田。……俺も、応えられるなら、応えたかった。それは、本当だ」
 視界がぐらぐらと揺れ、ねばつく汗が首筋にぶわりと滲む。
 ふたたび伸ばされた手を、今度はなるべく乱暴にならないように遮る。見えていなくても、飯田なら手を貸そうとするとわかっていた。二度、告白への返事も含めれば三度も拒絶されてどんな顔をしているのかは、想像すらしたくない。
 轟は目を閉じて、自分で自分を抱きしめるように支え、ふらつきが治るのを待ってから口を開いた。
「最近、親父がちゃんと人間に見える」
 説明したい。わかってほしい。そんな思いがまとまらないまま口からこぼれた。空気がスッと引き締まる。
 顔は相変わらず見られない。だけど、知っている。さっきの告白と、轟の家庭環境の話——一年と少し前、ヒーロー社会崩壊の要因の一端となった、当時No.1だったヒーローの家庭の闇。そのこととの繋がりもわからないだろうに、飯田は聞いてくれている。
「……親父なりに家族を、お母さんを愛したかったのかもしれない。結構前からそうなんじゃねえかと思ってた。兄の、燈矢のことだって、後悔は本物だ」
 破壊の限りを尽くしたヴィラン集団の一員だった兄の名前を、友達の前で出すのは久しぶりのことだった。は、と息を呑む音が小さく耳に届く。
「アイツに文字通り叩き込まれた技術が俺を生かし、人を救けてきた。ヒーローとして、受け取ったモンだって山ほどある。もうぜんぶ糧にできてる。恨んでねえわけじゃねえし、やるせねえことは今でもある、けど」
 大きく息を吸って、吐く。ああ、と情けない声が漏れる。飯田はただ静かに続きを待っているようだった。
「ただ、アイツが、親父が本当は人間だったんなら、愛情を持てる心があったんなら、俺も自分のモンだと思った相手に対して怪物になる可能性があるんじゃねえかって……告白とか、結構されてきたけど。正直わからないまま断るばっかりで、ろくに考えてこなかった。でも、おまえとなら。好きになって、その先がもしあったら、って思った瞬間、怖気づいちまった」
 理屈なんてまるでない。口にすると心底くだらなく、情けない。それに、償おうと足掻いている只中の父親を見てきているのに、ひとりの人間としてそんなことを思いたくない。それでも、これを無視して飯田に寄り掛かってしまったら。そんな自分を許せるだろうか。
 轟くん、と囁く声が芝生に吸い込まれていく。静かなその声を、轟はよく知っている。
 これ以上は、俯いていられなかった。歯を食いしばって顔を上げれば、真剣な表情の飯田が轟を見つめていた。しゃがみ込んでしまった轟に合わせて屈んでいるのか、思ったよりも近い位置の瞳の光がまた和らぐ。今度は、大丈夫、と背を押すように。
 膝を、背を、ゆっくりと伸ばし、飯田の前にまっすぐ立つ。
「みんながいるから、俺はそうならねえように踏ん張れる。でも、恋愛って一対一だろ? おまえは強いし、俺がバカなことをしそうになったら絶対に叱って止めてくれるとも信じてる。それでも、何かあったら耐えられない」
「君は誰かにひどいことをする人じゃない。君自身もわかっているだろう?」
 だけど、もう自分の中で決めている。
「わかってる。けど、おまえが、みんなのことが、大事すぎて無理だ。少なくとも、今はまだ」
 そして、最後は笑顔で言い切る。引き攣ってしまっているけれど、これが本心だからちゃんと伝えたい。
「急に重い話して悪かったな。おまえに特別に思ってもらえてるのは、うれしい。俺がおまえにとってそんな奴になれてたんだって思うと、すげえ心強い。それは本当だ」
 だから、ごめん、と締めくくると、飯田がゆっくりと頷いた。
「そうか。俺こそ、身勝手な話をして困らせてしまってごめん。そして、大切なことを教えてくれて、僕の——いや、みんなのことを大事だと言ってくれてありがとう」
 僕、と飯田の言葉が幼く崩れた。動揺していないはずがなかった。
 それでもただ穏やかに受け止める飯田は、熱い激励も否定も気休めも言わない。共感の怒りも、悔し涙も見せない。恋心を、もっと特別に親密になりたいという意思を拒絶されたばかりなのに、ただそっと微笑んで、轟の気持ちに寄り添ってくれた。いつもと違うのにまったく変わらない様子に、さっきからずっと身体の輪郭がなくなりそうなほど揺さぶられている。
 ——本当に、応えられたらよかったのに。
「その……これからも友達でいてくれると、すげえ助かる」
「当たり前だろ! 力になれることがあれば、なんでも言ってくれよ」
 ビシッと空気を切り、右手が差し出された。ためらわずに力強く握る。大きくて、温かくて、頼もしい手だ。たくさん支え導いてもらったその手に、ただ何かを約束するために触れるのは初めてだった。
 握手ではなく、飯田が望むように手を取れたなら。
 だけど、それは轟自身がしないと決めた。
「顔色がだいぶ戻ったな」
 飯田が握手を解いて、強張った笑みを浮かべた。気遣いたいのに距離を測りかねているような、らしくない笑顔だった。
「ああ、心配かけて悪かった。ここでもう少し休んでから寮に帰るから、先に行っててくれ」
「本当にいいのかい?」
「何かあったら緑谷か誰かに連絡するから」
 四度目の拒絶に、飯田はひどく苦いものを飲み込んだような顔をした。
「わかったよ。くれぐれも朝食に遅れないようにな!」
 そして、返答を聞く前に飯田は轟の側を抜けて駆け出し、美しいフォームを崩すことなく猛スピードで去っていった。
 だけど、轟は見逃さなかった。友達の目尻に宿った、強い光の粒を。思いやりにあふれた熱い心根を隠すことのない彼が、轟の前では泣くのを堪えていたことを。そして、その涙は拒絶されたから流しているものではなかった。
 姿が見えなくなるまで待ってから、轟は寮への長い帰路をひとりゆっくりと踏みしめながら進んだ。
 これでよかったのだ。そう納得しているはずなのに、肌をくすぐるぬるい風がやけにさみしい。振り切るように走り出せば、それは轟自身の存在を少しずつ削り取っていくように吹きつけはじめた。
 飯田も同じように心細いのだろうか。そう思いを馳せても、轟にできることはもうなかった。

 両腕が前に突き出されると同時に、飯田の後ろの壁が大爆音を響かせ崩れる。爆豪と爆豪の〝個性〟を複製したB組の物間が卒業式の慣例を無事遂行し、周りに歓声が沸いた。
 壇上で壁の破片を頭から振り落とす飯田も満面の笑みを浮かべていた。眼鏡も無事なようでよかった。もう荷造りも済ませていたから、スペアが足りなくなったら大変だろう。準備のいい飯田のことだからいくつか持ってはいるだろうけれど、それでも不便な思いをしてほしくなかった。
 プレゼント・マイクが卒業生退場を勢よくアナウンスする中、飯田がクラスの立ち位置まで早歩きで戻ってきた。おつかれ、おつかれ、答辞よかったよ、感動しちゃった、と飛び跳ねるクラスメイトたちに口々に称えられているのを後ろから眺める。出席番号が離れているから、轟はまだそこの輪に入れない。だが、視線を感じたのか、飯田は振り向いて、うっすらと目を細め、頷いた。轟も頷き返す。
 退場はクラス単位では逆順、クラス内では出席番号順に進み、今年は在校生たちが見送れるように、ちょっとしたパレードのように練り歩かされることになっている。B組集団に続き、芦戸と蛙吹、そして飯田が角張った動きで足取り確かに退場ルートへと進んでいった。
 出会った頃よりもさらに広く逞しくなった背中を目で追ってしまう。これで最後だから、遠慮などしない。轟は心ゆくまでその姿を目に焼き付けていた。
 気づかれてしまっただろうか。あの告白の日から、側にいないときは目で追ってしまっていることに。
 いや、本当はきっとずっとそうしてきた。順番を待ちながら思い返す。
 最初は声も動きも大きくてうるさくて、真面目で親切で正しいのだろうが、融通も効かない奴なのだろうと思っていた。その実力と胆力に注目しはじめたのはもう少し後のこと。そして、体育祭での共闘と対決で見せつけられたその度胸と機転は頼もしくも脅威で、緑谷に揺さぶられこじ開けられた視界にも飯田の姿はよく映るようになった。
 だから、らしくない昏い目をしはじめていたことに気がつけたのだろう。
 路地裏に満ちる血の臭い。倒され慟哭する、少し前の自分と同じ眼をしたヒーロー未満の男。
 それでも、どうか立ち上がってくれと轟は初めて他人のために祈った。
 自分自身を燻らせていたものをかき集め、投げつけた言葉。それが通じて、飯田はその脚の内燃機関を激しく噴かせ、轟の目の前に躍り出たのだ。
 どうやら自分も受け取ったものを誰かに渡すことができたらしい。後から振り返って、轟は静かに驚いた。そんな救われかたがあるなんて、知らなかった。知ることができたのは、飯田のおかげだった。
 その後も、轟たちは数多の死線をくぐり続け、そこには必ず飯田もいた。
 そして、恩師の言葉と轟自身の熱と氷を翼に変え、ふたりの力で生み出した遷音速。
 無我夢中で駆けつけ、背に激励を受けながら、周囲五キロにも及ぶと予想された被害を辛くも防ぎきることができた。思いがけず兄を含め家族全員の命を救うという、おまけにしては重すぎる結果つきで。
 あんな速度を、身体をぼろぼろにするような力を、二度と出す必要がないならそれでいい。でも、その時が来たら、飯田はきっとまたやってのけるだろう。そして、その時にはまた隣にいられたら。そう強く思っていた。
 それほどまでに信頼し、尊敬していた。友愛と共通の経験が幾重にも降り積り、それら自身の重みで凝縮され澄んでいく。そんな強固な感情を、轟は飯田に対して抱いていたはずだ。
 飯田のくれるものなら、受け取りたかった。
 望まれるなら、差し出したかった。
 それなのに、轟は深く踏み込むことを諦めて、飯田を拒絶したのだ。足が竦んで、気持ちがついていかなかった。あんなにも過酷な闘いを共に乗り越えたのに、どんなことにも立ち向かえる、無敵なのだとは、どうしても思えなかった。
 拒絶したくせに、轟は飯田をまだ目で追ってしまう。どういうことなのかわからない。わからないまま、この日を迎えてしまった。
 明日からはもう、視線の先に飯田はいない。
 退場の番が回ってきて通路を進むと、ひときわ大きな歓声に見送られる。ショート先輩、轟先輩、ありがとうございました、とあちこちから呼ばれる。視線を向ければ泣いている者たちまでいる。
 こんなにも慕われているのに、大切な友人たちと揃って会えるのも今日が最後なのに、いまこの瞬間に考えているのはただひとりのことだ。頬を思わず緩めると、ギャアアと凄まじい悲鳴が重なり、空気を震わせる。いつだったか、轟が笑うと死人が出ると言われたのを思い出してしまう。その意味もその後説明されて理解したような、できなかったような。
 たくさんの人たちにたくさん助けてもらった三年間だった。
 その中でも、特に。
「轟くん!」
 退場後、待機場所につくと、飯田が駆け寄ってきた。
「すごい歓声だったな! 地響きのようで驚いたぞ! だが、君の人気なら当然のことだ」
 自分のことのように誇らしげな調子に心が浮き立つ。
「ありがてぇな、本当に。……おまえにも、たくさん世話になった」
「それはこちらの台詞だ」
 言葉が続かず、しばし見つめ合う。胸の奥が軋む。さみしい。そう認めると、息が少し楽になる。
「忙しくなるだろうが、連絡はくれよ?」
「ああ、当然。また訓練にも付き合ってくれるか?」
「もちろん! うちの設備だと耐火性能がやや不安だから、君がセッティングしてくれると助かる」
 ビュンビュンと独特の手の動きを見せながら、飯田がカクカクと揺れた。
「確かにな。最悪、親父んとこで貸してもらえるように手配するよ」
 だが、父親のことを話題にしたせいか、一転、沈黙が降りる。
「結局、エンデヴァー事務所には入らないことにしたんだな」
「ああ、もう代替わりもしてるしな。俺はフリーでやっていくよ」
 進路についてはギリギリまで決めかねていたが、最後の一押しはマスコミと世論だった。父親の側近的なサイドキックだったバーニンたちのチームが主体となって活動している現事務所に入っても、せっかく平和な日常を取り戻そうとしている世間に嫌な記憶を喚び起こしてしまうだろう。三年次からのインターン活動再開というだけで、ひどく騒がれたのだ。当然、悪いことをしているわけではない。だが、世話になってきた先輩たちには関係のないことだったし、父親にもそんなことで余計な借りを作りたくなかった。
 同様に、どこか別のところに所属したりチームを結成したとしても、メンバーに迷惑をかけることになるだろう。ならば、しばらくはひとりで活動する方がいい。
 プロ免許はすでに取得しているし、卒業までに実績も積めるだけ積んだ。すぐに独立してもなんの問題もない。かつて担任の相澤ことイレイザーヘッドもそうしたのだと聞かされてもいる。事務や経理、PR業務を委託できる業者を学校の伝手で探してもらった際に、『ちゃんと周りを頼れ』と改めて釘を刺されてしまったのは、経験がそう言わせていたのだろう。
 飯田にも詳しくは話していないことだった。
「うちで手伝えることがあったら言ってくれよ? これでも次期代表なんだ。まだ数年は継ぐわけにはいかないけれどね。兄さんも君のことを気にかけていたから、遠慮はなしだ」
 ヒーロー殺しに襲撃された飯田の兄は、ヒーローとしての復帰こそ叶わなかったものの、所属サイドキックたちのチームを指揮して活動を行うスタイルにシフトしていた。そのサイドキックたちも先代の引退と大戦の混乱期を経て全盛期よりも大幅に数を減らしていたが、未曾有の破壊を経て復興が進む中でわざわざ解散する必要もないだろうと、いずれは飯田を中心とした活動に対応できるよう準備を進めていると聞いている。最初は自力で下積みから頑張るつもりだった飯田も、二年の終わり頃には、兄だけでなく昔から見守ってくれていた先輩たちの思いにも応えたいと頷いたそうだ。
 轟自身も遠距離対応の腕と飯田とのチームワークの良さを買われて所長直々にスカウトされていたが、家の事情を改めて説明し、なるべく家族の近くにいたいからと断った。
 気が変わったらいつでもおいで、と朗らかに笑う姿は飯田が憧れるだけあって、現場に出ない活動をしているとは思えないほど力強く快活だったのを覚えている。修羅場を潜り抜けてきたせいか、人当たりはやわらかいのにどこか凄みすら感じさせる落ち着きも兼ね備えていた。飯田もいずれそうなるのだろうか。少しさみしい気もするが、きっととても魅力的でもあるだろう。
 そんな未来の片鱗を見せる飯田を前に、轟は頷いた。
「わかった。なんかあったら頼らせてもらう」
「仕事以外でも、なんでもだぞ。絶対にだからな」
「心配性だな、委員長。そこは、お互い様だろ」
 笑って右手を差し出せば、しっかりと握られた。二度目の握手は、どうしても最初のものを思い出してしまう。だけど、今度は自分からできたのがうれしい。眩しい笑顔が今は自分だけに向けられているのが、誇らしく、せつない。
「では、また後でな」
 握手をサッとほどき、飯田は集団の前に小走りで出ていった。担任と副担任、副委員長の八百万と並び、集合写真の撮影場所への誘導が始まる。背の順だし、どうせ後列になるとぼんやり眺めていたら「轟くんも早くしたまえ」と指導されてしまった。
 こんな小言も、もう最後だ。じっくり噛み締めたくなるが、困らせたいわけではないので大人しくついていく。業者の要望通りにクラスメイトたちをきびきびと配置する飯田の指示に従って立ったのは、後列の中央あたり。飯田も近くに立つのだろうかとそわそわと見守っていたら、当たり前のように隣に収まってくれた。互いに背はかなり伸びたけれど、身長差は埋まっていない。
 わずかに見上げる角度。早くも縁を少し赤くしている、直線ばかりで構成されているのに誰よりも表情豊かな目の形。理知的で規律を重んじるものの、昔ほどには険しく引き結ばれなくなった口元。迷いなくまっすぐ通った精悍な鼻筋。隣で見る機会は、しばらくないだろうけれど。
 ——俺は、飯田のことが好きだ。
 最後だからと言葉で認めてみると、胸にあたたかい灯が宿る。これまでの自分の炎とも、父親のとも燈矢のとも違う。まだ頼りないけれど守りたい、生まれたばかりの遠く輝く白い星のような、地中深くに潜むダイヤモンドの原石のような、咲いたばかりの花に降りた朝露のような、小さな明かり。
「はい、みなさん笑ってー」
 ——飯田の隣なら、もっと笑っていられる。
「はい、もっともっと、思いっきり笑ってー」
 ——だけど、その時間はもう終わる。
 二度目のシャッター音が響く中、轟は笑った。このクラスで過ごしてきた証の、そして飯田の隣にこれまで立っていられた証の、今の轟にできる最大限の満面の笑み。それを記録に残したいと、強く思った。
 ありったけの感謝と決意を込めた。近くにいられなくても、ずっと友達でい続ける。隣にいなくても並んでいられるようにと。
 おわりでーす、ありがとうございましたー、と解散を伝えられ、前二列に続き後列の段からも一人また一人と降りていった。轟も飯田の後に続く。
「飯田、三年間ありがとうな。さっき言い忘れてた」
「こちらこそ。雄英で、君に出会えてよかったよ。ありがとう。これからもよろしく」
「ああ、そうだな。これからも、よろしく頼む」
 後ろから不意打ちのように話しかけたのに、待っていたかのように答えてくれた。顔は見えない。見えないほうがいい。飯田も振り向かなかった。
 これから謝恩会がある。夜には寮で打ち上げもあり、ここを去るのは明日の予定だ。
 だけど、轟焦凍の高校時代は、いま、この時に幕を下ろした。
 淡くけぶる春の中、クラスメイトたちが来場している家族の元へと散らばっていく。轟も手を振る姉と母の姿を見つけ、歩調を速めた。
 飯田の背中は、もう探さなかった。