We Are Golden③

7.エピローグ(二十七歳、春)

 暖色系でまとめられたリビングルームのような明るいセット。ソファに隣り合わせで腰掛けたふたりの表情をカメラが大きく写す。自分の白系のスーツと轟の紺色のカジュアルなジャケットを中心としたコーディネートはそれぞれのコスチュームをイメージした色合いで、方向性も格式もまったく違うのに、並べてみると不思議と統一感があった。
 タブレットを見つめながら、懐かしいな、と飯田は目を細める。この時のふたりの衣装は、兄が選んでくれたものだ。もう二年と少し前のことになる。
 きっかけは、飯田と轟が巻き込まれた盗撮事件だった。それが無事示談と雑誌社への厳重注意で幕を引いた後、あろうことか轟はその雑誌でのインタビューに応じようとした。聞きたいことがあるならとことん聞けばいい、と。動機についても、正義感が空回ったゆえの行動だとわかっている。なら、対話の余地があるんじゃないかということだった。
 もちろん、飯田は止めた。いくら報道の自由があるとはいえ、強硬手段に出た取材者側に成功体験を与えるのはよくないし、他が追随する可能性もある。何より、飯田との関係について話すつもりがないのなら、そこを突かれて逆効果になるかもしれない。
 ならばと、ふたりは懇意にしている雑誌社と記者を頼ることにした。かれらもまた勝手に写真を使われた被害者で、にもかかわらずあの時書かれた記事の内容に『悔しいですね』と寄り添ってくれたからだ。
 あの記事の内容については、曲解こそ多かったが、事実無根ではない。だから、反論や反証の必要はない。それよりも、いまの自分たちを見てもらいたい。若輩ゆえにまだ語ることは多くはないし、ただのPRやプロパガンダと捉えられる可能性もある。だが、ヒーロー活動を中心に、これまでの軌跡、将来への抱負、自分たちの願いを伝えたい。
 企画意図を伝えると、先方はすぐにセッティングをしてくれて、関係者たちの全面協力のもとそれは実現した。一時間にも及ぶそのインタビュー動画は、ウェブで配信されると瞬く間に話題をかっさらい、その後は他の若手ヒーローたちにも声がかかってシリーズ化されることとなる。次回は満を持してヒーローデクの復帰特集が公開される予定だ。
 その記念すべき初回の動画の中でも飯田がよく見返すのは、開始から十五分ほどが過ぎたところからだった。数年にわたるリハビリ生活を経て、まさにこのインタビューの直前にインゲニウムのサイドキックとして復帰してくれた兄の話を終えたところで、インタビュアーがふたりの親交について振り返り、質問をする。
 あの• •A組といえば全員今でもとても仲が良いと有名ですが、おふたりは私がカリフォルニアの現場で初めてお見かけしたときから特別に親密そうでした。学生時代から現在に至るまでずっとそうだったのですか。
 轟が微笑んで答えはじめる。初めて交わした挨拶以外の会話はさすがに覚えていない。だが、細かいことによく気がついて、それでいて度胸のある奴だと思っていたということ。そこから語られる『非常口』のエピソード。君も見てたのかい、と驚きの声をあげる飯田に、普通に昼メシ時だったろ、と画面の中の轟が心から可笑しそうに相好を崩す。
 そう。雄英時代は大変なことがたくさんあった。褒められないようなこともしたし、命を脅かされることだって何度も経験した。だけど、それと同じくらい、穏やかな、かけがえのない日々がそこにはあった。そして、卒業してからもそれは形を変えて続いている。
『——飯田の隣にいて、いい加減な気持ちだったことはありません』
 低く落ち着いた声が告げ、飯田はほころぶ口元をそっと押さえた。
「僕も同じだよ」
 飯田がそう呟く様子を、轟はリビングにつながる戸口から見つめていた。まだ見ていることには気づかれていない。風呂から出たばかりで、こっそり忍び寄ったつもりはなかったけれど、邪魔をしたくないと足音を抑えたのだ。ならば、あと数歩だけ、気づかれないまま近づけないか。
 そっと足を踏み出すと、飯田が顔をあげた。
 あ、とふたりの声が重なり、飯田の頬がほんのりと赤く染まる。
「いつからそこにいた?」
 恥ずかしいのか、やや不服そうに訊かれ、轟は答える。
「『非常口』のくだりあたりから」
「いたなら言ってくれないか」
 ソファに座る飯田の隣に収まると、腰に腕を回され抱き寄せられる。画面の中では感激した飯田がメガネを外し、まっすぐ上を向いて目頭を押さえていた。
 結局このインタビューでも、ふたりの関係を明言するには至らなかった。実際、一部の元クラスメイトたちにも結局どうなんだと詰められたこともあったが、飯田が『どんな形でもそばにいると決めている』と言ってくれたおかげで今のところは鎮静化している。
「いつ見ても泣いてるよな」
「何回見ても変わらないよ」
 そして、飯田が泣いても進行は滞ることなく、近年の活動、特に海外派遣についてのVTRが挟まれ、現地で一緒に活動していたヒーローたちからのコメントが流される。しばらく隣で見てから、轟は席を立った。
『俺にとって、生まれや血筋が関係ないとは言い切れません。父から受け継いだものは確かにあるし、環境にも恵まれていました。一方で、母ときょうだいたちが苦められたことも、俺自身が苦しんだことも、無かったことにはできない。幸い、友人たちに恵まれたので、もうずっと前から大丈夫ですし、わざわざ蒸し返すなよと思われるとは思うのですが——』
 終盤の自分自身の声を背中越しに聴きながら、冷蔵庫から麦茶を出して、二人分のコップにそろそろと注ぐ。
 このインタビューに臨むまでは、父について聞かれても当たり障りのないことを答えていた。だが、それももうやめよう。そう決意して、この時はあえて質問をしてもらうよう頼んだ。父にも事前に話し、了承を得たことだった。自分にとって必要なことだから、と。
『もし、これを見ているあなたが〝個性〟のことで悩むことがあったら——力を否定されたり、望まない使い方を強いられたり、それ以外にも困っていたり、苦しい、いやだ、と思うこと、疑問に思ったり納得できないことがあったら、ひとりで悩まず、どうか味方を見つけてください。あなたが苦しむ必要も、自分や他人を傷つける必要もありません。……相談できそうな人が思いつかなかったら、俺にメールや手紙を送ってくれてもいいです』
 予定外に視聴者へと呼びかけた轟の言葉を、飯田がそつなく引き継ぐ。
『もうすでにご存知かもしれませんが、先日ウラビティ主導の小学校向けカウンセリングプロジェクトが新たに発表されました。俺も構想段階から関わらせてもらっています。〝個性〟について話す場をもっと身近にし、より主体的な自己受容を——』
 ソファに戻り、インタビューの最後まで一緒に見て、轟はじっと溜めていた息を大きく吐き出した。
 飯田はその思いのほか大きな音に驚いて轟の横顔をまじまじと見てしまう。この時の発言について、轟は後から迂闊だった、専門家でもないのに軽率だったとこぼしていた。だが、実際に寄せられたメールや手紙から支援につなげられたケースもあったのだ。轟の言い分ももっともだが、結果を見ればそう悪くなかったのだと飯田は信じたかった。
 だが、飯田のそんな振り返りをよそに、当人は特に気にした様子もなく、冷やした麦茶をうまそうに飲んでいる。
「明日の準備か?」
 そう訊ねられ、飯田はそれ以上の余韻に浸ることもなく、すぐさま現在へと意識を切り替え、タブレットの画面を消しながら答えた。
「いや、ただ懐かしいと思って」
 明日は雄英に轟とともに出向いて、特別講師を務める予定だ。
 東京に出てきて、飯田と一緒に住み始めてからもほぼ二つ返事で講師の依頼を引き受けてきた轟と違って、飯田が雄英に赴くのは数年ぶりになる。都合のいい日程で組むので飯田もぜひ一緒に、と請われて参加するのは二年生の実技演習だ。仮免を無事取得し、インターン活動の受け入れ先を探している生徒たちに向けて、プロの立ち回り方を見せてほしいと、緑谷からは説明されていた。すでに双方のところにも希望者の経歴書が数名分送られてきていて、明日はついでに面談もすることになっている。
 こちらこそ辞退されないように頑張らねば、と持ってきてもらった麦茶で喉を潤しつつ気を引き締めていると、轟が不思議そうな笑みを浮かべているのに気づく。だが、どういうことかを尋ねる前に手が伸びてきた。
「難しい顔してるぞ」
 眉間をつつかれ、つい笑ってしまう。それは飯田も轟によくやることだった。皮膚の厚くなった指先で皺を伸ばすように揉まれると、ゆるゆると気が抜けてくる。
「ドライヤーはまだかけないのかい?」
 そう訊ねて、飯田は自分がさっき持ち出したきり洗面所に戻していなかったことを思い出した。だが、自分の自堕落な行いを恥じつつドライヤーを差し出すと、轟は、いらないよ、と断った。
「そのうち乾く」
「明日は学生たちの前に出るんだから、横着してはいけないよ」
 飯田がそう言うと、轟はローテーブルをラグごと前に押しやってから、ソファを降りて床に腰を下ろした。髪を乾かさないよりはマシな方の横着に切り替えることにしたらしい。
「頼んでいいか」
「そういうことは下りる前に聞きたまえ」
「わりぃ」
 それでも断ることはしないし、轟も断られると思っていないのか、そのまま飯田の膝の間に身を縮めて収まって、おとなしく待っている。
 プラグを延長コードに挿し直してスイッチを入れれば、ドライヤーはゆるやかに唸り出した。ほとんど乾いている左側を手早く整えてから右側の髪に根元から温風を当て、手櫛でうねりを伸ばしていく。甘えるように頭を押しつけられるのをいなしながら乾かし、最後に冷風を当ててからドライヤーを止めると、轟の頭が飯田の膝にぽすんと乗せられた。
「そこで寝るんじゃないよ」
「大丈夫」
 それはどういう意味の大丈夫なのか。轟の背をそっと前に倒し、自分の脚を揃えてからソファを降りて隣に座る。
「明日はヴィラン役がんばろうな」
 轟が眠たげな笑いを含んだ声と共に、裏拳を差し出した。同じく拳を作り、手の甲同士をとん、と当てる。
「しかし、ヴィラン役としては勝っていいのか迷ってしまうな」
 むむむ、と考え込む飯田に、轟が愉快そうに尋ねる。
「勝つつもりなのか、ひとクラス全員相手に。あの頃の俺たちより強ぇらしいぞ」
「君だって負けるつもりはないんだろ?」
「まァな。手加減するなら行く意味がねぇ」
「なら、そろそろ寝よう」
 そう促され、轟はのそのそと立ち上がり、空のコップをキッチンへと運んでいった。
 なんとも平穏で、なんてことのない時間。それがどれほど得難いものなのか、時々わけもなく振り返っていることを飯田はきっと知らない。ふたりで住むこの部屋にたどり着くまで、どんなことがあったのか。何を感じてきたのか。もちろん、飯田とも分かち合うことのできることだけれど、轟はその幸福の手触りをひとりで確かめる時間が好きだった。
 たとえば、自分でもできるのにドライヤーをかけてもらったり、こうして夜の締めくくりにコップを洗っているときに。
 ソファへと戻ると、飯田がまだぼんやりと床に座っていた。今日は待機番で、うっかり溜めてしまった書類仕事を片付けたのだと聞いている。身体よりも頭が疲れていそうな顔をしているのはそのせいだろう。
 轟を見上げ、飯田は目を細めて微笑んだ。
「コップを洗ってくれたんだな。ありがとう」
 立ち上がった飯田に断ってから頬にキスをすると、俺もしたい、と口の端にキスが返ってきた。そして、手を引かれ、寝室に移動する途中で玄関を盗み見る。
 そこにはコスチュームの入ったケースが大小ふたり分、明日の出発をわくわくと待ち望むように並んでいた。
 ふたりは精一杯の悪い笑顔を互いに向け合ってから、廊下の照明を消した。


「……はい、というわけで、みんなは無事敗北してしまったわけですが」
 淡々と事実を告げる緑谷の言葉に、ううう、えええ、うわあ、と二十人分の多彩な呻き声があがる。
「ごめんね、僕が入ってもカバーできなかった! ただ、それまで持ち堪えてくれたのはとてもよかったと思います」
 そして、続くのはブーイングの嵐。
「じゃあ、ショートとインゲニウムに総括してもらいましょう」
 緑谷がそう告げても、不貞腐れた空気はあまり変わらない。轟は、はい、と挙手して口を開いた。
「改めて、こんにちは。ショートです。さっきまでヴィランをやらせてもらっていました」
「同じく、先ほどまで君たちを大いに苦しめていたインゲニウムだ。よろしくお願いします」
 ここでようやく、くすくすと小さな笑いが起こる。これで機嫌良く話を聞いてくれそうだ。轟はグラウンドβに集合したボロボロの高校生たち二十人を見回した。その向こうでは破壊された建物をセメントスとエクトプラズムが点検し、次の授業に向けて修復を進めてくれていた。
 先の実習におけるショートとインゲニウムのふたりは人質を取って立てこもっている敵グループという設定で、学生たちの課題は『二十人で協力して、救助とヴィランの捕縛を時間内に行うこと。ただし一定の時間が経過するとヒーローデクが応援に駆けつける』というものだった。午前中の連続する二コマを使うという、大掛かりな演習授業だ。なお、もう一クラスについては午後に同じ内容の授業をすることになっている。
「ええと、まずは厳しいことから言います。チームワークがクソです」
 ショートってクソとか言うんだ、と色めき立つ面々に、轟は、にやり、と笑ってみせた。
 さすがはヒーロー科、動じる者はいないようだ。轟自身、最近ようやくわかってきたことなのだが、やはり自分が笑うと体調に異変を訴える人が一定数いるらしい。一方で、慣れれば大丈夫なのだという声も聞いている。なので、無理にムスッとしているよりは笑顔のほうが安心につながると信じて、轟はあえてそれを封じることはしていない。
 序盤の動きからデク投入までの配置のまずさ、〝個性〟や格闘スタイルの面で相性の悪い者同士が固まっていたためもたついたオペレーション、序盤から人質を増やされ、救出しても再度取られてしまったこと、デクが参戦することの意味を履き違え、見せ場を取られまいと焦ってしまったこと。学生たちの反省すべき点を挙げてから、飯田へと向き直る。
「飯田も言いたいことあるよな」
 インゲニウムをヒーロー名ではなく本名で呼ぶショートに、あちこちから短い悲鳴があがった。あの動画が公開されて以来、こういうことはよくある。飯田ももうとっくに慣れているので、ヘルメットとマスクを外し、メガネをかけ直してから軽く咳払いをする。
「二十対二なら君たちに数の有利があると思っただろう? しかも狭い建物の中だから俺の高速移動も封じられるはずだし、ショートくんの遠距離からの攻防も不利になるはず。一見すると楽勝だ。だが、実際はどうだった?」
 ハイ、と手を挙げる学生を飯田は一人ずつ指名していった。
「一斉に突入したらすぐにショートの氷にやられました」「様子を見てたら、インゲニウムに捕まって人質にされました」「ってか、あの蹴りなんなんですか、あんなの知らない」「よく避けられたよね」「俺はやられた」「火の幕で囲まれたかと思ったら、うしろからインゲニウムが来ててチビるかと思った」「エンジン音が聞こえてから反応しても遅いとか反則じゃね!?」
 どんどん雑談めいてきたところを緑谷が「その辺でいいかな」と区切る。ありがとう、と断ってから、飯田は解説を続けた。
「〝個性〟は見た目だけでは仕組みや使い方が直感的には判別できないこともあるんだ。俺たちの場合、ショートくんは大技が特に有名だが、細かく翻弄することも実は得意だし、俺に関しては、最近はあまり近接格闘に持ち込むこともないから、必殺技を見たことがなくても無理はないだろう」
 だが、飯田のフォローに緑谷は頭を振る。
「僕に蹴りを教えてくれたのはインゲニウムなんだよ。先々週のヒーロー史、『必殺技の役割と発展』の単元で話したと思うんだけど、みんな雑談だと思って聞き流してたね? 覚えていなかったとしても、二人に来てもらうと発表した時点で予習はしておくべきでした」
 ええー、と抗議の声に混じって「覚えてたけど無理でした!」と元気のいい自己申告が飛んでくる。
「それなら対処が可能そうな誰かに伝えるなり、複数人で当たるなりできたらよかったね。情報の共有もチームワークのうちです。それに、本物のヴィラン相手だと出たとこ勝負が基本なので、落ち着いて、かつ素早く分析をすることが重要です。あとは、らしくない動きをしている人が何人かいました。見せ場の奪い合いをするなとは言わないけれど、影響を考えながら動いてください。個別講評を後で渡すから、実際の現場に出る前にしっかり反省と対策をするように」
 そこからは具体的に大人数を活かす方法のブレインストーミングに入り、飯田も自身のチームでの対応の実例を挙げ、最後には人質役を務めていたオールマイトから『それを初対面の相手とでもできるのがプロなんだぜ!』と言われて学生たちも気を引き締めた。
 だが、緑谷がまとめに入ろうとしたところで一人の生徒が質問がてらぼやいた。
「先生たちって、ちょうど今の俺らの歳の頃に、あの大戦だったんですよね。俺、あんなことがあっても戦える気がしないッス」
 ざわめく学生たちを前に轟が真っ先に口を開く。
「それだけ今が平和ってことだろ。それにあの時は学生を前線に出すこと自体が異例中の異例だった。だから、仮にいま何か大規模な事件があっても、それは俺たち大人が対処することだ」
 さっきよりもずっと荒っぽい口調の割に、声音はやわらかい。飯田も思わずどきりとする。学生たちはしんと静まり返り、轟の次の言葉をそわそわと待っていた。
「だけど、犯罪も災害もまだなくなったわけじゃねえ。俺たちが派手に活躍するというのは、それだけ困ってる人や救けを求める人がたくさんいるってことなんだ。どんなヒーローになりたいかもう決まってる奴も、まだわからねえ奴も、実力に自信がある奴もねェ奴も、それを忘れずにいてほしい」
 ちら、と目配せされ、飯田はそこから話を引き継いだ。
「実は昨晩ショートくんとも話していたんだが、今日は『手加減するなら俺たちが来る意味がない』と、全力でぶつかるつもりで来た。だけど、蓋を開けてみれば、手加減する余裕なんてまったくなかった。本当はデク先生が入る前に圧勝するつもりだったんだが、君たちはとても手強かった!」
 視線を寄越され、轟は先を促すために頷いた。
「確かに課題はまだ残るが、個々の実力には目を瞠るものがある。君たちがプロとして現場に立ってくれる日が、今からとても楽しみだ」
 温かな自信を与えるその声を、轟は微笑みを浮かべて聞いていた。昔ほど激しくはないが、話すのに合わせてよく動く腕。顔を輝かせて聞き入る生徒たち一人一人としっかりと目を合わせるまなざし。そんな飯田に自分もたくさん励まされてきた。
「だが、まずは仲間を信頼し、信頼されることが大切だ。そして、おせっかいや綺麗事、助け合いを躊躇しないこと!」
 飯田が緑谷に視線を移すと、緑谷が照れたように微笑んだ。
「あとは、何事も真剣に取り組むことだな。得られる結果は必ずしも最初に望んだ形にはならないかもしれないが、真摯な姿勢はきっと君たちの財産となる。そうだろう、ショートくん?」
 だが、轟が答える前に誰かが「『いい加減な気持ちだったことはない』っすかぁ?」と発言し、また別の誰かが、コラッ、とその声をたしなめた。
「しょうがねえ、流行語にまでなっちまったもんな」
 轟が表情を思い切り崩して笑うと、飯田の愛おしげな視線が一瞬だけ投げかけられる。きゃあ、と今度こそ何人かが遠慮なく叫んだ。その反応に飯田は驚いているが、轟としては学生たちの気持ちが痛いほどわかる。
 飯田天哉のその目で見つめられるたびに、轟焦凍は世界一強くなれる気がするのだ。
「飯田の言うとおりだ。たくさん迷ったり間違えたりしても、ずっと真剣だったのは変わらない。そうやって生き延びて、俺たちはここにいる」
 そして、ふたたび表情を引き締めたクラス一同に向けて、轟は最後の言葉を伝える。
「だけど、いくら真剣でも、ひとりじゃ無理だった。だから、みんなもできれば互いに心からの信頼を築いて、これからも互いの味方でいてほしいと思います」
 緑谷に視線をやると、緑谷は時計を見て「ちょうど五分前だ。さすがだよ」と破顔した。


 空の茜色が藍色に変わりはじめるマジックアワー。道の傍、山の切れ目から見える海面の最後の煌めきを眺めながら、雄英から伸びる坂道を下っていく。インターン希望者たちとの面談が思いのほか長引いたおかげで、ふたりはこの景色を楽しむことができていた。互いに考えることは同じなのか、歩みはごくゆっくりだ。
「インターン、全員採るのか。三人だったか」
 多くないか、と轟は思うが、自分も初めてのインターンは緑谷と爆豪と一緒だったと思い直す。
 それももはや遠い昔のことになっていた。
「あぁ、よほどのことがなければこれで決まりだ。結構トリッキーな〝個性〟で伸び悩んでるようなんだが、それならチームで活かせるんじゃないかって緑谷くんがウチを薦めてくれたと言っていたよ」
「惜しかったよな、A組のアイツら。B組はA組の仇を取るっつって、力入りすぎてたし」
 相槌がわりの飯田の軽やかな笑い声が耳に心地よい。
「しかし、『チームワークがクソです』か。インパクトはじゅうぶんだったな。語調こそ荒くても、普段そこまで言わない君だからこそ注意を引けた」
「実際クソだったろ。もったいねえから、絶対に伝わる言い方にしたんだ」
 轟も笑みとともに説明する。飯田なら、もうきっとわかっていたはずだけど。
「やさしいな、君は」
「いま言うことか?」
「いつだって言うさ。そうだ、君のほうのインターン希望者はどうだったんだい?」
 轟は歩みを止めた。面談については本当は後で話そうと思っていた——もう少し落ち着いてから。だけど、飯田に尋ねられたいま、ふたりの母校からの帰り道のほうが伝える場としては相応しく思えた。
「採ることにしたよ、二人とも。……前に、俺にメールをくれた子たちだったんだ。友達が誰かに悪いことをさせられてるかもしれないって。一人が加担させられてた子で、もう一人が連絡をくれた子だった」
 思いがけない事実に、飯田もその場に立ち止まって轟の言葉に耳を傾ける。
「で、すぐに調査を開始して、その子たちの通う中学に行けるようにホークスに講演をセッティングしてもらって、生活安全課を巻き込んで解決したんだが、その一件で二人はヒーローを志してくれたらしい。言ってくれたらよかったのにな」
 喜びを噛み締めるような淡い笑みが、消えゆく夕焼けの中でやわらかな影になる。
「全然知らなかった。その頃はもう一緒に住んでたよな」
 不満げな声が出てしまって、飯田は慌てて「もちろん、明かせないこともあっただろうが」とフォローする。
「未成年がらみだったからな。でも、すげえびっくりしたよ。直接顔を合わせたのも二回ほどだったし、今日も授業中はコスで顔隠してたからわからなかったんだ。ギリギリで進路変更したから大変だったって笑ってたよ」
「そうか、それはよかったな。で、配置としてはどうなんだい?」
 だが、そう訊ねると、轟は「まだ考えてねえ」と答えた。 
「今の段階では細かい異変に気づけることと、人のために動けることのほうが大事だからな。〝個性〟を伸ばす指導ももちろんするけど、今日面談した感じだと、あの二人の強みは別にあるように感じたんだ」
「なるほどな。いや、ついウチの基準で考えてしまっていたよ」
 思慮深い返答に恥じ入った飯田の背中に轟の手が触れた。
「おまえのとこはそれで問題なく回ってるんだろ? 俺はまだインターン生を採るようになってから二年目だし、手探りなんだ。あの子たちも、他に合う事務所があるかもしれねえし、早くに独立するのを目指すかもしれねえ。いろんなやり方があっていいはずだ」
 ——君のそういうところは、本当に変わらないな。
 キャリーケースを片手で押さえたまま、飯田は轟を抱き寄せた。背中に回された轟の腕にも力が込められる。
「すまない。君が好きで好きで、たまらなくなった」
「急に来たな。俺もだよ」
 囁きあってから、そっと離れる。そして、抱きしめる代わりに手に手を取り、歩みを再開する。夕焼けが山に隠れて見えなくなったところで、ジジ、と音を立てて街灯が一斉に点灯した。温かな光の溜まる円から円を渡りながら、飯田は轟の穏やかな横顔をちらりちらりと盗み見る。
 すると、轟が、ふ、と笑みをこぼした。
「惜しいことしたな、俺も」
「何か悔やむことでもあったのかい?」
 まだ前を見ている表情は、なんともいえない複雑さを載せている。照れているのか、きまりが悪いのか、どこか自嘲するようでもあった。
「おまえに初めて告白されたとき、ちゃんと応えてやれてたらさ。こうやって手を繋いで下校したりしてたんだろうかって、ちょっと悔しくなった」
 手を引かれ、肩同士が軽くぶつかる。
「俺も君も最後まで寮に残ってたろ。それに、あの頃の俺は頭が固かった。自分から告白しておきながら、学生の身で外で手を繋ぐなど言語道断、くらいのことは言っていたかもしれない」
「それでも、可能性はあったんじゃねえか?」
「なくはないな。俺は君に甘いところがあるから」
 あはは、と轟が声をあげて笑った。今ではもう、そう珍しくもないことだ。
「自覚あったのか」
「あるに決まってる。今だって、君があの頃のことをそんなふうに思ってくれているだけで、とてつもなくうれしくて、全力で走り出したいくらいなんだ」
「それは困るな。置いていくなよ」
「置いていかないさ。俺だって、君と手をつないで一緒に帰りたいもの」
 もうそろそろ坂道が終わり、住宅街に差し掛かる。それでも手を離したくない。
 赤信号の横断歩道で止まり、隣の轟に視線を送ると、微笑みとともに指が絡め直された。
「俺も、このままがいい」
 ふたりの間を夜風が無邪気に吹き抜けていく。肩と肩がぶつかり、たったいま奪われたわずかな熱を取り戻すように、唇同士がさっと触れあった。あ、と重なった声がすぐさま忍び笑いに変わる。
「帰ったら『好きなだけ』しよう」
「そうだな」
 青信号。手をつないだままふたりは横断歩道を渡りきり、住宅街を抜けて駅へと向かう道を進んでいく。
 晩メシどうしよう、食いてえもんあるか、駅前に新しい店ができていたよ、行ってみるかい——
 そう話す間も、ふたりの手は握られたままだった。
 当たり前のように、しっかりと。

 おわり