We Are Golden③

6.We Are Golden(二十四歳、初夏)

「飯田が足りない。一緒に住みたい」
 起床してロードワークに出ようと玄関の扉を開けたところで、ちょうど帰宅した轟が小声で訴えた。煤と汗の香りとともに抱きしめられ、早朝の爽やかな空気にすっきりと冷やされた頬を顔に押しつけられる。
「何があったんだ、轟くん」
 なんの脈絡もなく吐露されたその言葉に飯田は訊ねるが、返事はむにゃむにゃと要領を得ない。なんらかの〝個性〟の影響も疑ったが、飯田はぐずる轟の様子をしばらく観察しながら何連勤だったかと指折り数え、両手で足りなくなった時点で疲労が原因だと結論付けた。
 しばらくぶりに重なった休みだった。それに向けて無理をさせてしまったのかもしれない。
 そもそも、前の晩も仕事終わりに駅まで迎えに来てもらったところで、近隣の道路で事故が発生した。初動対応を済ませたところで管轄のヒーローと救急隊に引き継ぎ、次に避難誘導の混乱に乗じて発生したひったくりを取り押さえ、そこで巻き込まれた怪我人たちの救護に当たった。そして、一段落して調書を作成しているうちに入ったのが、轟を指名した出動要請だったのだ。
 玄関先でドアも閉められずにしばらく抱き合って、というよりはしがみつかれていたが、なんとか部屋に引きずり込んだ。そして、着替えさせて寝かしつけてから、飯田は買い出しがてら走りに出た。出先の警察署で仮眠を取ってから帰ってきてもよかっただろうに、まっすぐ戻ってきてくれたことがうれしくて、足取りはいつもより軽かったのを覚えている。
 だけど、この時どうして向かいの部屋の様子を気にしなかったのか。怪しいことは本当になかったのか。轟とともに後悔したのはそれから一ヶ月後の、職場体験でやってきていた学生たちを無事学校に返した直後のことだった。

『誠に申し訳ありませんでした! 掲載写真については経緯を現在調査中でして、なにか分かり次第またご連絡いたします! 私どものほうでお手伝いできることがあれば、いつでもお申し付けください』
 顔見知りの記者からの泡を食ったようなボイスメールに残されていた内容が何を指しているのかを飯田天哉が知ったのは、事務所に出勤してすぐのことだった。気づいてすぐに折り返しても連絡がつかなかったことを不審に思いつつ、コスチュームに着替え、深夜帯シフトとの引き継ぎを終えて所長室に落ち着いたところでドア枠がコンコンと叩かれた。
「天哉、ちょっと時間あるか?」
 そこにいたのは、飯田に事務所代表の座を譲ってから、専務兼PR室長に就任していた兄・天晴だった。
「おはようございます、専務! どうかしましたか?」
 職場ではけじめをつけるために役職もしくはヒーロー名で呼ぶようにしてくれていたはずの兄が、なぜかそれを崩している。もしや実家の両親のどちらかになにかあったのか。飯田が顔を曇らせていると、兄は車椅子を所長室の外に停め、ゆっくりと立ち上がって入りざまにドアを閉めた。それは他の職員が兄弟間のセンシティブな話に不用意に入ってこないようにする、暗黙の了解のようなものだ。
 サポートアイテムを使用してデスクまで歩いてやってきた兄は、いよいよ何事かと顔を青くした飯田に、複雑そうな様子で訊ねた。
「おまえ、『熱愛発覚』してるの、知ってたか?」
 付箋の飛び出した雑誌がずいと差し出される。
「はい? なんですか、それ」
「天哉と、ショートくんのね。交際? がすっぱ抜かれてる」
 発せられた『ショートくん』がヒーロー名だと理解するのに一瞬かかり、改めて伝えられた言葉の意味を咀嚼しようと努める。
「おーい、処理落ちしないでくれー」
「は、はいっ、すみません。ねつ、あい?」
「発覚。付き合ってたの? ショートくんと。紹介しろよ、内緒にされてて兄ちゃんショックだなあ」
 へにゃ、と崩された表情は、次の瞬間引き締められた。
「あとリスク管理的にも知っておきたかったですね」
 すみません、ともう一度謝ると「あとで改めてお説教な」と釘を刺される。
「で、びっくりしたけど、おまえの兄貴としては当然応援してる。ショートくん、本当にいい子だしね。アメリカに行く前、初回だけじゃなくて去年もわざわざ挨拶に来てくれただろ? ただ、記事の内容がちょっと微妙なんだ。ショートくんにも連絡する時間がいるだろうから、まずは目を通してもらってから一時間後に会議室でいいか? ウェブ版もリンクを送ってあるから、そっちも見ておいてくれ」
 さっきから机の上でスマートフォンがひっきりなしに振動し続けている。だが優先順位は——
「まずは雑誌の記事から確認するよ」
「了解。何かあったら会議前でも呼んでくれ。じゃあ、失礼します」
 すいすいといつもより滑らかに歩く姿に、また福祉用サポートアイテムのモニター参加をしているのだと遅れて気がつく。ヒーローとしては第一線を退いているが、兄は仕事の傍ら、今でも人のためになることがあるなら少しでも手を貸そうとしていた。今回のものについても詳しく聞きたいが、それよりも喫緊の事案が目の前にある。
 兄が付箋を貼ってくれた週刊誌に手を伸ばしたところで、もう一度スマートフォンが鳴る。表示された名前に驚いて、飯田はメッセージを開いた。
〝轟が襲われた〟
 頭が一気に芯まで冷える。
〝例の記事見たクソモブが突撃してきやがった。轟は軽傷、今日は待機になった。さっき家に帰したが、荒れとるからあとで出久に様子見に行かせる。おまえは絶対に来るな〟
 大きく深呼吸をしてから、爆豪に〝連絡ありがとう。これから記事を見ます〟と返信すると、すぐに既読だけがついた。なぜ近くにいて介入までしたのかがまったく不明だが、それはあとで聞けばいい。
 気を取り直し、手渡された芸能ゴシップ誌を開く。連日連夜の出動で活躍が目覚ましい一方で、芸能活動らしいことは紙媒体の広告程度のヒーローショートと恋愛について、一般市民を怒らせるほどの何が書いてあるというのだろう。容姿の優れた芸能人やヒーローは疑似恋愛的な応援の仕方をされることもあるようだが、轟の場合もそういった好意の対象になっていると聞いたことがある。その裏返しの犯行なのだろうか。
 誌面を開くまで、飯田は呑気にもそんな勘違いをしていた。無理もない。たとえば、悲劇の血統と〝個性〟を受け継ぐ、若き美貌の貴公子。轟自身の美点をちっともわかっていないような、飯田が特に嫌いなフレーズをあえて並べればこんなところだろう。きっと今回もそのような切り口なのだろうと勝手に決めつけて、飯田はページを捲った。
『ターボヒーロー二代目インゲニウム&氷炎• •ヒーローショート、苦難乗り越えた全速力の通い愛の全貌!』
「うわあっ!?」
 思わず叫んで雑誌を閉じてしまう。予想は半分当たっていた。だが、先に取り上げられているのは飯田自身だった上に、ヒーローネームのそばには小さくTEAM IDATENとまで入っている。そして、白黒ながら印刷のいやにくっきりとした写真は、ランニングウェア姿の飯田が帰宅した轟を玄関先で支えている場面、つまりぐったりと抱擁に身体を預ける轟の後ろ姿と、飯田が少し困ったように微笑み、轟の額に唇を寄せているように見える場面が二枚連続で写っているものだった。
 インゲニウムのことをあえて二代目と呼び、ショートのほうもプロデビューに合わせて自ら選んだ二つ名ではなく、かつて巷で勝手に使われていたものを持ってくるあたりも、好意的とは言い難い。だが、それよりも真っ先に気になることがあった。
 一部の写真は、明らかに至近距離から撮られている。望遠レンズを使用しても、角度的に無理があるだろう。
 轟のマンションは各階に二戸の八階建てで、轟の部屋は五階だ。同じ階のもうひとつの部屋とはエレベーターを挟む形で玄関で向かい合わせになっているが、誰かと鉢合わせたことは今までない。
 学校経由で紹介されたその物件は、ヒーローや関連事業者向けに事務所兼住居利用が可能で、大戦の混乱期に廃業者が続出して以来、借り手がなかなかつかなかったと聞いていた。それゆえにヒーロー事務所向けの物件としては格安だったが、オーナーの身元は確かで、各種業者との接触についてもセキュリティ対策がされていたはずだ。どうやって裏をかかれたのだろう。
 だが、推理を巡らす前に記事の内容を精査する必要がある。会議まで残り四十五分。メッセージ一覧には友人たちや仕事関係者からの連絡が入っているが、轟からのものはまだない。
 もう一度、気を取り直してページを捲り、読み進める。雑誌の中程にある三段組の全四ページの記事は、ゴシップ誌にあまり馴染みのない飯田には長いのか短いのか見当がつかない。ふたりの雄英時代からのプロフィール、大戦での活躍、プロになってから現在までの功績に丸々二段ほどが費やされ、飯田が卒業後にも頻繁に静岡を訪れていること、燈矢の死後、轟をかばう発言が話題になったことが続く。
 正義を曲げてまで貫いた麗しい友情はいつから形を変えていたのか、かたや長年No.2を譲らなかったヒーローの末子、かたやヒーローを代々輩出してきたエリート家系出身というプレッシャーゆえに惹かれ合ってきたのなら不思議ではないのかもしれない、などとずいぶんと勝手なことを書かれているが、この辺りはきっとまだ問題の範囲ではない。
 三ページ目と四ページ目の半分は他の日に轟の部屋にふたりで入っていく場面や、連れ立ってあちこちへと出かける二人の写真とキャプションが中心に載っている。オフのものは二枚のみで、あとは持ち物からして海外派遣に関する打ち合わせに出た時のものや、スポンサーとの会合、合同訓練の行き帰りに撮られているものだ。仮に一般的な交際だったとしても、疾しいことなどひとつもない。
 四ページ目の中段からはエンデヴァーの話題に切り替わる。テロリストとなった長男の被害者遺族や後遺症に苦しむ市民らに旧エンデヴァー事務所が支援と補償を続けていること、それ以外で元フレイムヒーローが滅多に公の場に姿を現すことがなく、今年も追悼式典に出なかったこと、ドキュメンタリー製作に協力することもないこと、父親と距離をおいて接するショートの無関心のこと、そして。
「なるほどな」
 弊誌では、過去の惨劇をものともせず健気に育まれてきたこの純愛の行方をこれからも見守っていきたい。そんな言葉で記事は締めくくられていた。
 確かに微妙だった。恋愛ゴシップの体裁を取ってはいるが、四ページ目の後半と最後の一文が本題なのだろう。嫌味を隠そうともしていない。飯田はメガネを外し、まだ酷使しているわけでもないのに痛みはじめていた目頭を揉んだ。
 荼毘の所業について、エンデヴァーはともかく、末の息子も責任を取るべきだと表立って主張する意見はもう滅多に見かけない。ゆえに、ショート自身がそれを進んで風化させようとしているのだとこじつけられるのは、完全に予想外のことだった。
 ウェブ版の記事も見てみると、そこには昨年アメリカで撮ってもらった、ふたりが肩を組んで穏やかに笑いあっている写真が掲載されている。
 深夜のボイスメッセージはこれか、とようやく合点がいった。しかし、法的には引用の要件を満たしているのかもしれないが、それなりに大手のメディアがこんなことをするなんて、なりふり構わなすぎるのではないか。
 コメント欄を見ると、そこは荒れに荒れていた。あからさまに投稿ガイドラインに反するものは消されているのか、一見すると好意的なコメントの方が多い。だが、賛同順に表示すれば、被害を過去のことにするな、浮かれていて恥ずかしくはないのか、などと罵倒するようなものが上位を占める。中にはモデレーションをすり抜けてしまったのか、『強い〝個性〟の血筋が途絶えてしまうのは多大な損失だ。ヒーローの安易な同性交際は禁止すべきでは』という、前時代的で差別的なコメントもあり、反論が寄せられてはいるものの賛同する者も多くいる。
 飯田はうっすらと吐き気を覚え、轟が見ていないといい、と願いつつ、メッセージを送った。
〝遅くなってすまない。記事の内容をようやく把握しました。今朝の事件のことも知りたいので、通話できそうならこのまま掛けてほしい〟
 既読がつき、すぐに通話が繋がる。
「轟くん、怪我をしたと聞いたが具合はどうだい?」
『大したことねぇ。相手がカバンを振り回してて、金具が掠っただけだ』
 ヘッドセットではなく端末に向かって直接話しているのか、音が少し割れ気味だ。声もさすがに沈んでいる。
「爆豪くんが介入したって聞いたけれど、そんなに強い〝個性〟の相手だったのか。君がすぐに制圧できないなんて」
『いや……俺が、動けなかっただけだ。氷壁で周りはガードしたけど、それ以上のことができなかった。爆豪にはちゃんと反応しろってめちゃくちゃ怒られたよ』
 なぜ、と聞く前に、轟が付け加えた。
『身内が敵連合に感化されて、家に火をつけて出ていった、ヴィラン登録されたせいで失踪宣告も申請できない、今でも生きてるか死んでるかわかんねえって言ってた。ヒーローが、親父がちゃんとしてなかった、おまえもまた過ちを犯すのかって。記事のこともまだ知らなかったから、呼び止められて普通に聞いちまったんだ』
「八つ当たりじゃないか」
 飯田がそう言うと、大きな呼吸音がイヤピースを震わせた。
『現場に向かう途中だったし、目の近くに当たったから公務執行妨害と傷害になっちまうって言われた。俺がうまく捌けなかったせいだ。あの人の言い分を聞いていたら、たかがカバンくらい、ぶたれても平気だって躊躇しちまったんだ』
 そうは言うけれど、通常時の轟ならきっと冷静に対応できていたはずだ。飯田は指摘する。
「振り回しているのが凶器ではないからと言って、その時点で〝個性〟が無関係とは言えないだろう」
『……わかってる』
「ならいいんだ。いや、全然よくはないが」
『爆豪にも同じこと言われたな』
 ふ、と一瞬笑ってから轟は、『おまえは、大丈夫なのか』と尋ねた。
「これからPR室との会議だよ。あと、ウェブ版に別の無関係の雑誌の写真が無断で使用されているんだが、先方から経緯を調べると連絡があった」
『ああ、俺のところにも連絡来てた』
「それでね、轟くん」
 今度は飯田が大きく息をつくほうだった。
「おそらくなんだが、これから君との関係について説明を求められる」
『だよな』
「話してほしくないことなどがあれば、教えてくれないか」
 ん、と返事のような音と数秒の間に続いて轟は『俺も参加してもいいか。リモートで』と言い出した。
「大丈夫だとは思うが、念のため専務に聞いてみる。けれど、いいのかい?」
 話しながら兄にチャットで尋ねれば、すぐに承諾された。
『警察沙汰になっちまってるからな、記事のほうも。俺のほうの担当にはあとで共有する……うん、共有することになった』
 轟も話しながら連絡を取っていたようで、端末の画面をトトトと叩く指の音がかすかに聞こえる。
「写真の件はただ俺たちが迂闊だったという話じゃないのか」
『それが、そうじゃねえんだ。おまえも薄々気づいてるとは思うが』
 そして、軽い咳払いに続き、轟は先ほど飯田が考えていたのと同じことを告げた。
『警察にも話したんだが、あの距離であの角度だ。外からは見えないようになってるし、何かが新しく設置されてたり見慣れない人がいたりしたら、俺らならある程度はわかるはずだ。俺は、何らかの〝個性〟の悪用があったんじゃねえかって踏んでる。オーナーからは諸々の返事待ちだが、俺たち自身に何か仕掛けられてる可能性だってある』
「やはりそうか。だが、向かいの部屋は空き部屋だったんだろう?」
『そのはずだ。改めて大家さんにも確認を取ってるが』
 予定されている会議まであと十分。
「なぜここまでするんだろうな」
 飯田が思わず苦々しくこぼしてしまった言葉に、轟は即答した。
『それだけ恨みが深いんだろ。どうしても風化させたくなくて、忘れられることに傷ついてる誰かがどこかにいる』
「君を貶めようとする人たちをそこまで慮らなくてもいいんじゃないか? 単なる悪意や、面白半分でしているのかもしれないぞ」
 論外、と飯田を断罪する声が頭の奥で囁く。そのとおりだ、と飯田は遠き日の亡霊に囁き返す。だが、ただ耐えるだけでは、轟は苦しいままなのだ。
『らしくねえな』
 その轟にたしなめられ、飯田は背を正す。
『それでも救うのがヒーローだろ。ただの愉快犯だとしても他の人がターゲットになる前に、悪意だとしても連鎖しちまう前に止めさせる。そもそも、俺がまだまだ未熟で、ヒーローとして人を安心させられてねえからこうなったんだ。俺なりに落とし前をつけねえと』
「轟くん」
 だが、自身の傷を抉るような物言いに、声を荒げる一歩手前で飯田は堪えた。
『巻き込んじまって悪いな。でも、おまえがそうやって怒ってくれて、ホッとした。ありがとう』
 轟の和らいだ声音に、急に恥ずかしくなる。
「巻き込まれたなんて思わない。だが、俺はたかが悪趣味でセンセーショナルな恋愛ゴシップと侮っていたよ」
『たかがゴシップならそれでいい。そのほうが、ずっと平和だ』
 残り、七分。轟の悲しげな笑みが、声を通して見えるようだ。
「……それで、兄さんたちに俺たちのことはなんと説明したらいいだろうか」
 沈黙が、二秒、三秒。
『「愛しあってる」って説明する』
 轟の声で初めて聞くその言葉の響きを、こんなふうに知りたくなかった。
『俺が話すよ。誠実じゃねえことしてるのは俺のほうだから』
「それは違う」
『飯田のことを大事にしてる人たちに嘘をつきたくねえんだ。頼む』
 五分前。所長室のドアがノックされる。
「そろそろ会議室に行かないと。カメラはどうしよう?」
『……ああ。ちょっと見苦しいかもしれねえが、オンのほうがいいなら顔洗ってくる』
 顔? と聞く前に、轟は通話を切った。
 飯田もノートパソコンを開いたまま、急いで会議室に駆け込んだ。意外なことに、こちら側のメンバーは兄のみだった。
 時間ぴったりに轟のアカウントを呼び出すと、ワイシャツにジャケットを羽織った轟と画面越しに対面する。
 頬に貼られた真新しい絆創膏と真っ赤に腫れた目元が痛々しい。思わず息を呑んでしまう。
「泣いていたのか」
『聞くなよ』
 あんなことがあれば泣きたくもなるだろうと思い直し「軽率だった、申し訳ない」と謝れば、コホン、とわざとらしい咳払いが隣から聞こえてきた。
「ショートくん、お久しぶりです。参加してくれてありがとうございます。専務の飯田天晴です。進行役を務めますので、本日はよろしくお願いします」
 兄が挨拶をすると、画面の中の轟もぺこりと頭を下げた。
『……いえ、こちらこそ。その、ご迷惑をおかけしてます』
「その怪我は?」
 話を振られ、轟が説明を繰り返す。
『なるほど。大変だったね』
 兄の労いに礼を述べてから、轟は続けて、雑誌とウェブに掲載された写真の一部について〝個性〟の悪用が疑われるという推測と建物のオーナーへの状況確認の進捗を共有する。ふむふむと頷きながら、兄はメモを取っている。飯田もメモを取りつつ開いた誌面に目を落とした。撮られた場所も時間もまちまちだ。これらすべての予定に張り付いて、かつ自分たちに気取られてもいないのは相当のことだろう。
「それなら、被害届を出すのは早い方がいいな」
『管轄の刑事さんにも言われました。一応、書式は埋めて渡してあるんで、連絡すれば受理ということになります。そちらにも話が行くと思うので、ご協力お願いいたします』
「もちろんです。うちも無関係ではありませんので。念のため、何かしらの〝個性〟の影響が出てないか、所長だけでなく所員たち全員……あとは職場体験に来てた学生たちにも念の為に検査を受けさせるように手配しましょう。インゲニウムもそれでいいか?」
 検査のために提携している病院に提出する書式を別窓で開いて全所員向けの通知を作成していると、急に名前を呼ばれた。
「はっ、はい、それでお願いします」
「じゃあ、ここから本題に入ります。弊社PR室としては①メディア向けにコメントを出す、②会見をする、③ノーコメントで通す、の三つのオプションがあると考えています。ただ、〝個性〟犯罪が絡んでくる可能性を考えると、③はナシ。ヒーローとしてはスルーできないところだからな」
 飯田も轟も揃って同意する。
「あとは、掲載誌にどこまで抗議を入れるかって問題だけど、捜査の邪魔になる可能性もあるので、そこはショートくんから担当の刑事さんに聞いてもらえますか」
『わかりました』
 轟が視線を落とす。紙にペンを走らせる音をマイクがかすかに拾った。轟がふたたび目線を上げたところで、兄が口を開く。
「じゃあ、そちらは引き続きよろしくお願いします。それで、先のオプション①②なんだけど……それを決める前に、ふたりが実際にどんな関係なのか聞いてもいいかな? PR室長としてもだけど、天哉の兄としても純粋に興味があるし、知っておきたい」
 轟の表情に緊張が浮かぶ。兄もきっとそれに気づいているが、質問を取り消したりはしなかった。
「兄さん、それはどうしても聞かないといけないことなのか」
『飯田、大丈夫だ。さっき話すって決めただろ』
 低く、落ち着いた声がスピーカーから流れる。
『それとも、全部なかったことにするか?』
「いやだ!」
 反射的に叫んでしまい、慌てて口を押さえる。
『よかった。というわけで、専務。俺と飯田……天哉くんは、愛しあっています』
 そうやって轟に名を呼ばれるのも、もしかしたら初めてかもしれない。痛いほどに愛おしいのに、ひどく悔しい。心の柔らかいところに爪を立てられ、ゆっくりと積み重ねてきたものを容赦なく剥がされているようだ。そんな気持ちが存在するなんて知らなかった。
「天哉、なんて顔をしてるんだ」
 たしなめる兄の顔が見られない。大人として、ヒーローとして、あまりにもみっともない。
 だが、俯いてしまった飯田の背に、兄の大きな手が乗った。
「ここで困っているのはおまえだけじゃないだろう?」
 そうだ。自分だけの問題じゃない。轟だけに任せるわけにもいかない。飯田が勢いよく顔を上げると、画面の中で轟が微笑んでいた。
『……昔、スカウトのお話をいただいた時にも思ったんですけど、い……天哉くんがあなたに憧れてヒーローを目指した理由が、改めてよくわかりました』
 轟の訥々とした言葉に、兄が、はは、と笑いをこぼす。
「今をときめくヒーローショートにそう言われると、なかなか照れるものがあるな。あと、普段どおりの呼び方で構わないよ。そんなことで何かを疑ったりはしねえから」
『じゃあ、そうさせてもらいます』
 砕けた物言いに画面の中の轟は肩の力を抜き、むぐむぐと口元をもごつかせてから、『ありがとうございます』と付け加えた。
「天哉からは何か言うことはないか? どうして話してくれなかったのか、とか」
 さっきは冗談めかして言われたけれど、兄もまた少なからず動揺しているのが飯田にもようやくわかってきていた。こんなことで悲しませてしまったという事実に表情が曇りかける。それを振り払って、飯田は兄をまっすぐ見つめ、説明した。
「兄さんに教えていなかったのは、俺たちの在り方を『恋人』と呼ぶことに抵抗があって、一般的な交際という形を取っていないからなんだ。俺には轟くん、轟くんには俺しかいないから、側から見れば実情はそうなのかもしれない。けれど、俺たちにとっては意味があることだと思ってる」
『おい、飯田。俺が話すって言ったろ』
 荒げた声にスピーカーの音が少し割れる。飯田はカメラに向かってわざとしかめ面を作ってみせた。
「君は自分のせいにしがちだし、本当は開示したくないことまで進んで話してしまうだろう? だから俺のほうで説明させてもらった。兄さんだって俺に話を振ったんだ。騙し討ちのようなことをしたのは悪かったよ」
 はあ、と轟のため息がスピーカー越しに聞こえる。
『……変なこだわりがあるのは俺のほうです。ちゃんと大切にしてやれなくて、すみません』
「君たちで決めたことなんだろ? 謝ることじゃないよ」
 兄はやさしく諭すが、飯田は渋面を崩さなかった。
「轟くん。僕たちの関係をなんと呼ぼうと、君のそばにいたいと思っているのは他ならぬ僕なんだ。君も気が変わっていないのなら、それを軽んじないでくれないか」
『……そうだな。ごめん』
 視線を落とした轟の姿に、うん、と隣で兄が頷く。
「よくわかった。本来なら説明を求めることでもないし、俺の許可だって必要のないことだ。それでも、話してくれてありがとう」
 トントン、とペン先でノートを叩きながら兄は続けた。
「このことを元から知っている人は他にいるのかな?」
『同級生に四人います』
「彼らから話が漏れることは?」
 否定するのは轟のほうが早かった。
『ありえないです。仲もいいし、信頼してるから話したので』
「俺も同感だよ。だが、捜査のことは教えたほうがいいだろう。協力を頼むことになるし、疑っているわけではないということは知っておいてもらいたい」
 飯田がそう話すと、サラサラとペンを走らせ、ザッザッと線を引く音が隣から聞こえてきた。
『緑谷は後で来てくれることになってるから、その時に伝えるよ。爆豪にもライン送っとく。麗日たちは飯田のほうで頼めるか?』
「わかった」
 そう返事をすると、轟は表情を和らげた。かと思えば、視線を落として眉を深く顰めてしまった。
「どうかしたのかい?」
『……親父だ。あとでかけ直す。すみません、会議中に』
「いいよ、そちらも色々と連絡取る必要あるだろうし。で、コメントか会見かってところだけど、会見もナシだね。嫌な誘導や切り取り方をされる場を、わざわざ作らなくてもいい。ちなみに、スポンサーからは二人が交際しているのならイメージ的にはすごくプラスだし、ぜひCMに起用したいって喜ばれてるけれど」
『そうなんですか』
 轟の表情がやや強張っているように見えて、兄さん、と呼びかけると、大丈夫、と腕を軽く叩かれた。
「君たちが『違う』というなら絶対に何かを無理強いしたりはしないし、今回の件を勝手に利用したりもしないよ。ただ、交際を認めないとなると、しつこく追い回されるかもしれない。だけど、マスコミも当然一枚岩ではないから警戒しすぎないほうがいいな。ショートくんもインゲニウムも本業以外のタレント性で売ってるわけじゃないから、うちからは『市民の皆さまの安全のためにもご協力ください』と釘を刺す方向で、極力誠実に、嘘をつかなくて済む範囲で声明を出そうと思う」
「轟くんとの連名にしたほうがいいだろうか」
 飯田が聞くと、轟は『そのほうがいいならそうしてください』と同意し、PR担当者の連絡先を共有してくれた。
『任せちまって悪いな。ついでだが、名前のほうも訂正頼めるか?』
「もちろんだよ。轟くんは事件捜査のほうに労力を割くことになる。これくらい、こっちでやるよ。主に兄さんに投げてしまうけれど」
 ぶっちゃけすぎだろ、と兄に脇腹をつつかれ、飯田は表情を崩してしまった。
 ふう、とひと息ついたところで、兄がぱん、と手を叩いた。
「よし。ざっとこんなところだろうか。ウチも当然無関係じゃないから、役割分担については気にしないでほしい。ショートくんとはチームアップの実績もあるし、何より天哉の大事な人だからね。というか、これを機にウチに入る気はない?」
「ちょっと、兄さん! なし崩しの勧誘は轟くんも困ってしまうだろう!」
 突然の話題転換に慌てて止めに入るが、どうどう、と宥められる。
「まあ、そう言わずにさ。社保完備、福利厚生も充実、家賃補助も当然ある。チーム対応が基本だし、サイドキックじゃなくて所属ヒーロー扱いにして、ショートくんの班を作ってもいいんじゃないか? 独立予定の子もいるんだし、おまえも遠距離・広域担当がいればって言ってただろ」
「あれは仮定の話で! 轟くんを想定していなかったといえば嘘になるけれど!」
 あわあわと否定しきれずにいると、ふ、くふっ、とスピーカーから笑い声があがった。
 あまりにもやわらかなその音に、飯田はしばし聞き入ってしまう。
「……すまない、騒いでしまって」
『い、いや、気にすんな……本当に仲がいいんですね。ちょっと羨ましいです』
 目尻を指で拭ってから、轟が大きく深呼吸をした。
『今のでかなり気が晴れました。ありがとうございます。でも、当面はまだフリーでやりたいんで、お心遣いだけ受け取っておきます』
「そっか、残念だ! 気が変わったらいつでも言ってくれよ。俺にでも、天哉にでもな」

 三人での会議が終わり、そのまま会議室で職員向けの通知を出し、雄英の根津校長へのメールを入れ終わったところで、別の作業をしていた兄が軽く伸びをして、ぽつりと呟いた。
「羨ましい、か」
 わずかに悔恨を乗せたようなしんみりとした声音に、飯田は目を瞬かせた。
「轟くんが言ってたことか?」
「うん」
「轟くんもお姉さんとは仲がいいはずなのだが」
「それでも違うんじゃないか? ヒーロー業の経験と理解のある身内ってところが」
 記事の最後を思い出し、苦々しい気持ちがじわりと蘇った。ふと聞いてみたくなり、飯田は尋ねてみた。
「兄さんはエンデヴァーとは面識があるんだよな?」
 兄は、むむ、と考え込んだ。そして、数秒おいてから聞かされたのは意外なことだった。
「面識どころか、現役の頃はチームアップをしたこともあるし、ここ何年かはリハビリ先の病院で会うこともあるよ。多いときで月イチ、だいたい隔月程度かな」
「そうなのか」
「元ヒーロー向けの生活期リハビリなんて、やってる病院も限られるだろ? 損傷部位も似てるせいか、たまに被るんだよ。そこまで親しくしてるわけじゃないけど、待ち時間が発生すれば多少の世間話くらいはするし、モニターの紹介をしたこともあるんだ」
 そう言って、兄は腰から脚にかけて装着された外骨格のようなサポートアイテムをとんとんと叩いた。
「初めて聞いたぞ」
「話してなかった。焦凍くんのこともあるからね」
 ヒーロー名ではなく、兄にとっては弟の友人で知人の息子である彼のことを指しているのだと飯田は理解し、同時にこの話がどこに進むのだろうと眉を寄せてしまう。
「でも、エンデヴァーは轟くんのことを」
「うん、知ってる。轟さん・・・がご家族に何をしてきたのか、この国で知らない大人はほとんどいないだろ」
 ならば、なぜ、と問おうとするが、兄があえてかの人を本名で呼んでいることに気づき、飯田は口を噤んだ。
「でもね、焦凍くんのこともおまえのことも、ほとんど話さないんだ。何かのはずみで話題が出ても、すぐに変えるようにしてるようでね。一度聞いてみたんだけど、焦凍くんがきっと望まないだろうからと言っていたよ」
 そんなことを聞かされても、どう反応していいかわからない。戸惑いを感じたのか、相槌を待たずに兄は話を続ける。
「だから、おまえにも言わなかった。俺が特に親しくもないリハビリ仲間の元同業者を突き放せないぶん、天哉にはあの子……って言うのは失礼だよな。大事な友達で、貴重な同世代のヒーロー仲間の絶対的な味方でいてほしいって、俺の判断や行動に左右されないでほしいって、勝手に願ってた」
 迷子の手を引くインゲニウム。そんな兄が、迷子を迷子にさせた張本人と親交があった。もちろん、飯田もかつてクラス代表として、轟の事情を知りながらエンデヴァーに力を貸してくれるよう頼んだことがある。そのときの恩義だって忘れてはいないし、何よりも轟自身が前に進むと決めているのだから、飯田がこだわり続けるべきではないのはわかっているけれど。
「正直、とてもこんがらがった気持ちだ」
「そうだよなぁ。そして、天哉たちの件でさらに複雑になったわけなんだけど。まあ、内緒にしてた件はおあいこってことで」
 ぐるぐると考えていたぶん、にひひと笑う兄の顔に飯田は一気に脱力してしまった。
「軽いぞ、兄さん!」
「あんまり重く考えても仕方ないだろ」
 キュル、と手動で車椅子を旋回させ、兄は飯田と向き合った。
「冗談はさておき、俺も程度や種類こそ違うけれど、あの人と似たようなことをおまえにしたからな」
「そんな覚えはまったくないんだが」
 本気でなんの話かわからなくて首を傾げると、兄は「俺が、襲われた後のこと」と笑みをそっと収めた。
「おまえは頭もよくてしっかりしてたし、カタすぎるところもあったけれど、きっと俺よりもずっとすごいヒーローになるんだって確信してた。でも、十五歳だって、ぜんぜん子供だったんだよな」
 話の行き着く先が見えない。いや、見たくない。
 む、と口を曲げた飯田の手を、兄は握った。
「カッコいい大人になった天哉を見て、余計にそう思うよ。あんな状況で名前を継げと押しつけるなんて、俺自身がしんどいからって憧れてくれているおまえに寄りかかって、ひどいことを言った。あの後すぐにおまえも同じように襲われて、後遺症まで負うような怪我をしたのもさ、俺のせいだったんじゃないかって考えちまった。そうやって追い詰めたんじゃないかって……悪かったよ、天哉」
 飯田はうつむく兄のつむじを見つめた。声が震えているような気がする。
 ——ヒーロー殺し確保の真相を、兄さんは知っている。
 焦りにも似た確信に突き動かされ、飯田は声をあげてしまった。
「もう! 今頃何を言っているんだ、兄さんは! インゲニウムの名を、かっ、返せと言われても、返さないぞ!」
 動揺のあまりに手を振りほどいて飛び上がり、ひどく子供じみたことを叫んでしまう。兄はポカンと飯田を見上げ、たっぷり十秒は見つめてから、声をあげて笑い出した。
「そんなこと言わねえって。もうとっくにおまえの名前なんだから」
 座れよ、と促されて、顔を熱くしたままふたたび椅子に身を縮める。目尻を拭う兄の姿は、先ほどの悲痛な後悔などなかったかのように、いつもの軽やかさを取り戻していた。
「もう、笑いすぎだぞ」
「ごめんって」
 そして、呼吸を整えた兄に、飯田は尋ねた。
「……兄さんは、どこまで知ってるんだ? いつから」
「イレイザーヘッドが教えてくれたよ。おまえが寮に入るちょっと前に、見舞いに来てくれたんだ。家庭訪問の一環だって、わざわざ。同級生を助けるのに、神野に勝手に行ってたこともその時知った。おまえの弟は素直で真面目な分、なかなか無鉄砲だぞ、って頭抱えてたよ。おまえも気にするだろうし、本来は機密だから、絶対に知らないフリしとけって釘刺されたけど、まあ時効だろ」
 ステインとの交戦については、さまざまな捜査の都合上、両親に知らされたのも大戦後だったはずだ。その時も、兄にはまだ言わない方がいいということになって、その後も特に触れられることもなかった。なのに、兄はそんなにも長いこと知っていて黙っていたのか、と飯田は愕然とした。というか、かつての担任と兄はそれなりに気安い仲だったのだろうか。どちらもひとつも顔に出さないから、ぜんぜんわからなかった。返答できないのを察してくれたのか、兄は話を続けた。
「でも、その件だってな、心配はしたけど、ちょっとうれしかったんだ。ウチはヒーロー一家なのに俺はもう再起不能だから、天哉に託した。おまえも受け止めて、応えてくれた。したことは間違っていたんだろうけど、誇らしくも思っていたんだ」
 空調と、自分の呼吸音がやけにうるさい。兄は飯田の緊張ぶりを見て、やさしく微笑んだ。
「でも、おまえが代表になる少し前、職場体験の指名やインターン受け入れを開始した頃からかな。どれだけ優秀でも、高校生なんてまだぜんぜん子供だったんだってやっと気づいて、今頃怖くなっちまった。……歳なんだろうかね、やっぱり」
 飯田の背後、窓の外の遠い空を見つめながら、兄は考えを促すように首の後ろを揉んでいる。
「だからなんだろうか。あの人を見かけると、ずっとどこか引っかかるものがあった。あの人がご家族に対してしてきたこと——ヴィランの言葉とはいえ家族から告発された内容、本人が認めて語ったこと、どこを見ても同情の余地なんてない。……でも、ヒーローというものに対する考え方の根っこでは、俺もそう変わらないのかも、なんてな」
 飯田はかぶりを振って、静かに伝える。
「全然違うよ。俺はひどいことをされたなんて思ってないし、何かを強要された覚えもない。そもそも、俺は兄さんみたいなヒーローになりたかったんだ。ずっと兄さんを指針にしてきて、もらった名前に相応しくありたかったからこそ今ここにいる」
 そう言いつつも、実際、名前を継いだことも、兄への憧れも、状況も相まって当時の己の未熟さゆえによくない方向に作用してしまった自覚がある。だから、部分的には、兄の語ることもまた真実なのだろう。飯田自身がどう思っていようとも。それでも、見守られ励まされてきたという事実の方がずっとずっと大切で、重い。
 ああ、そうか、と飯田はここで気づいた。使いどころの難しい〝個性〟を強みに変えて、適材適所を重んじるIDATENの採用方針。それを曲げるようなショートへの勧誘も、そういうことだったのかもしれない。
「大丈夫だよ。もうとっくに迷子じゃないんだ、俺も、轟くんだって。ちゃんと自分の足で、望んだところへと走っていける」
 幼き日の弟との会話を思い出したのか、兄は一度目を瞠ってから、眦をゆるめた。笑い皺が最近深くなってきたように思う。苦労も心配もたくさんかけてきたけれど、一緒に笑っていられてよかった。かつて思い描いていた未来は奪われてしまったけれど、それでも尊敬する兄とともにヒーローになった。名前を継いだのは、そういうことでもある。
「うん、ありがとう。なんか俺だけ一方的に懺悔して、挙句に色々言わせちまったみたいで恥ずかしいな」
 当惑したように口元を抑える兄の言葉に、飯田は畳み掛けるように立ち上がり、手刀で空を切った。
「何を言ってるんだ、兄さん! とてもためになる話だったし、俺だってまだぜんぜん言い足りないぞ!」
「いや、今日はもうこのくらいにしてくれ。兄ちゃん、キャパオーバーだよ」
 兄はパッと両手を挙げてから、名残惜しそうにゆっくりと表情を整えた。
「しかし、今日はひとついいニュースがあったんだけど……うん、また落ち着いたらにしよう。所長のおまえの許可がほしいことだし、ゆっくり話したいんだ」
「今じゃだめなのか?」
 どことなく緊張を纏っている様子が気がかりだが、兄はニッと笑顔を見せる。
「ちょっと、な。ついでで話すようなことじゃねえからさ。そうだ、今度の俺の通院日、予定空けられるか?」
「もちろん」
 カレンダーを見ずに答える。所長として要請されているのなら、優先すべきことだと判断した。
「じゃあ、その時に話すよ」
 いいニュースと言ってはいるが、通院日に何があるのだろうと表情が曇りかける。飯田はその不安を気合いで追い払い、ドアのほうへと踏み出した。
「では、俺は麗日君たちに捜査の件で連絡を入れてからパトロールに出てくるよ」
「はい、気をつけて行ってらっしゃい、インゲニウム」
「行ってきます!」
 笑顔で送り出され、飯田は事務所フロアに踏み出した。そして、手を振る同シフトのメンバーたちに「十分後に出るぞ」と手を振りかえし、所長室へと戻った。
 だが、椅子に座り背を預けると、身体が急に重くなった。
 思ってもみなかった、兄の迷いと後悔。悔いる必要などはないのだと言い切ったし、飯田自身も心の底からそう信じている。
 だけど、少しだけ。
 本当に少しだけでいいから、飯田は轟と話がしたくなった。さっき画面越しに顔を合わせたばかりなのに、ふたりきりで、手を触れられる距離にいたい。抱きしめて肩に顔を埋め、おまえが甘えてくるなんて珍しいな、と笑われてもいい。確かめたかった。守りたいものの所在と実存を、導いてくれた灯火を、やさしく寄り添うぬくもりを、感じたかった。
 それぞれ離れた場所でヒーローとして活動している以上、会いたい時に会えるわけではない。ましてや、この状況だ。それでも、いままでになく、飯田は轟に会いたくてたまらなかった。

 ◇

 夜の七時を回る頃、エントランスのインターホンが鳴った。セキュリティを通ってもらって部屋に到着するまでに五分はかかる。今日は警察も張っているから、もっと時間がかかるかもしれない。
 轟がプライベートで部屋に飯田と姉以外を招くのは珍しいことだった。自ら招いたというよりは、朝の事件後に爆豪が強引に約束を取り付けたというほうが正しい。だが、急に言われても迷惑だろうと、昼に連絡した時には来なくても平気だと話したのに、『僕が君の顔を見ないと平気じゃない』などとカッコいいことを言われてしまっては折れざるを得なかった。
 もう一度、今度は部屋のインターホンが鳴る。思ったよりもずっと早かった。
「ごめんね、轟くん。職員会議が長引いちゃって。困ったことはなかった?」
「警察が来たり、大家さんとやり取りしたけど、あとは何も」
 よかった、と開かれたドアの向こうで緑谷が笑顔を見せ、差し入れだと言って袋を掲げた。招き入れつつ手渡されたそれの中身を見ると、雄英高校の近くにある蕎麦屋の生蕎麦と薬味のセットが入っている。一緒に食べるつもりなのか、四人前ほどあるようだ。もうひとつ渡された袋にはゼリー飲料やスナック菓子、プロテインバーなどが詰められていた。聞けば、職員会議後に轟の様子を見に行くと話したら、方々からおやつや非常食の買い置きが集まってきて持たされたということだった。恩師たちにはまだ子供扱いされているのかもしれないが、心遣いが温かい。礼を言うと、「今度また講師に呼ぶから、一部前払いだって」と緑谷は笑った。
「それにしても、かっちゃんが素直に頼み事してくるなんて、雪でも降るんじゃないかってびっくりしたよ」
 それはどことなく身に覚えのある感覚だった。
「俺もそれ思ったことあるぞ。頼み事じゃなかったけど」
「え、いつ?」
「飯田とのことがバレたとき、カリフォルニアで。めちゃくちゃ気ぃ遣われて、おまえにはちゃんと話しとけってすげぇ言われた」
 革靴を脱ぐために屈んだ緑色の頭に埋もれたつむじを見下ろすと、今日も元気に髪が飛び跳ねている。これも平和の象徴だな、と轟は目を細めた。緑谷がいるだけで、飯田とはまた違った意味で気持ちが奮い立ってくる。
「飯田くんと話はできた?」
「いや、会議後はまだ。捜査の進捗と声明文を見たことだけは伝えたけど」
 顔をあげた緑谷は、今度はまた違う笑みを浮かべていた。それは救ける相手に心配を抱かせないように、かつてヒーローを目指していた少年が身につけたものだった。それをいま必要としてしまうのがなんとも気恥ずかしいと思うが、弱っているのは事実なのでありがたく受け取ることにする。
 緑谷を洗面所に案内しながら、二人は話を続けた。
「職場見学の件でもメール来てたし、忙しいみたいだよ。全職員に検査をするんだって。轟くんは、もうしたの?」
「ああ、担当の刑事が鑑識も連れてきてたから、それで。結果は明日出るそうだ」
 会話に混ざってくる水音とハンドソープのオレンジの香りが、飯田の不在を際立たせる。想いを伝える前から、ここでよく肩をぶつけ合いながら手を洗っていたのを思い出す。少しでも触れていたくて、狭いだろうとたしなめられてもやめることはなかった。こすっからい真似だったと今では呆れてしまうが、あの頃は他にどうすればいいのか本当にわからなかったのだ。
「そういや、飯田のところに行ってたのって、おまえのクラスだったんだな」
「一人はそう。もう一人はプレゼント・マイクのとこの子だね。でもマスコミ対応あるからって、連絡係はどっちも任されちゃった」
「会見はするのか」
「検査の結果と警察次第。どっちかっていうと、生徒たちにやたらと声をかけるなってレベルの話で、通達出す程度で済むんじゃないかな」
「相変わらずか」
 轟が顔を顰めると、緑谷は手を拭きながら眉尻を下げて「そうでもないかな」と否定した。
「生徒に突撃しようとした記者を他の記者が止めたりしてる。勝手に入ってくる人もいないし、僕らの頃よりはぜんぜん平和だ」
「あったな、そんなこと。食堂で、飯田が非常口になってた」
「うん。あのときの飯田くん、カッコよかったよね」
 思い出話に花を咲かせつつ緑谷を応接スペースのソファに案内し、冷たい麦茶を出す。
「蕎麦、おまえも食うだろ」
「いいの? 手間じゃない?」
「茹でて締めるだけだし、四人前はさすがに一人じゃ無理だ」
「え、そんなにある?」
 驚く緑谷に両手で持って見せてやると「やっちゃった」と緑谷は両手を合わせた。
「ごめん、僕も焦ってたみたいだ。じゃあ、せっかくだからお相伴に与ることにするね。手伝えることはあるかな」
「いい、座っててくれ。こっち、狭いから。食えねえもんはあるか?」
「特にないよ、ありがとう」
 湯切りざるをセットし、鍋で湯を沸かしつつ、冷蔵庫を開ける。買い置きの惣菜がまだあるので、それをいくつか小分けになったパックから出して小鉢に盛り、テーブルへと運ぶ。一人暮らしをはじめた頃はパックのまま出していたが、飯田が初めて遊びに来た後に『これではだめだ』と反省し、数は少ないながらも食器を揃えたのだ。
「飯田くんのメガネまで置いてあるんだ?」
 することがなくて部屋の中を見回していたのか、緑谷が声をあげた。緑谷が手にしているそれは数時間前、完全にひとりになったときに心細くて引っ張り出したものだった。
「古いのだし予備だから、普段はしまってあるけどな」
「本当によく来てるんだね、飯田くん」
 なぜ出してあるのかは聞かれない。答えるための言葉を探しつつ、ボコボコと沸騰する鍋に蕎麦を入れ、タイマーをセットする。まずは二人前。
「……写真、撮られた日。一緒に住みたいって伝えたんだ。勢いで言っちまったし、こっちと東京じゃ難しいのはわかってるんだけどな、つい」
「確かに、中間地点でもちょっと微妙だよね」
「飯田のところはシフト組んでやってるし、いざとなれば走れるから通うことになってもいいって言ってくれたんだけどな。ただでさえ負担掛けてんのに、そこまでしてもらうのか、って思うと頷けなかった」
 湯切りざるを引き上げ、火を止める。茹でた蕎麦を流水にさらし、ぬめりを取りながら右手で冷やす。そういえば、そのやり方を初めて見た飯田に『極めているな』と感心されたことがあった、と鳩尾がきゅうと縮こまる。空腹だと誤魔化そうと思ったが、それだけではないのは明白だ。自覚がある以上に参っているのかもしれないと、轟は小さく嘆息した。
「飯田くんに負担かけてるの?」
 思ったよりも近くから声がして顔を上げると、緑谷がキチネットの近くまで移動していた。そんなことは信じていない、と顔に書いてある。
「残りも一気に茹でちまうから、もうちょっと待っててくれ」
 鍋をもう一度火にかけ、もうひとつのボウルに蕎麦を移動させて氷水を張っている間も、轟はずっとジリジリとした視線を感じていた。
「うん。それで?」
「うっかりそういうことを言うと、最近は怒られるんだ。すげぇ静かに、きっちり真四角に詰められる」
 声が大きく、出会った頃はうるさいとすら思ったこともあるが、あのすさまじく整った顔で淡々と追い詰められると迫力がありすぎる。飯田の小言は物理的にやかましいくらいがちょうどいいと、轟はひそかに思っていた。
 そんな話をしたせいか、今度は胸がしくしくと疼く。こんな夜に、緑谷と飯田と三人で過ごせていたらどれだけよかっただろう。緑谷に不満があるわけではないし、来てくれたのも当然ありがたい。なのに、そう思ってしまって少し気まずくなる。
「そうだろうね。一緒に住むのに、轟くんが東京に移転するのは難しいの?」
「それが妥当だよな。実家のことがあったからここに落ち着いただけで、盗撮の件が解決したらすぐにでも動きたいくらいには思ってるんだが」
 飯田が望んでくれるなら、と轟は心の中で付け加えた。
 タイマーをセットし、残りの蕎麦を茹ではじめる。氷水で締めていたほうも引き揚げて、水をしっかり切ってから盛り付け用の大きなざるに移した。
「さみしくなるね。仕事の行き帰りによく見かけてるから」
「声かけろよ。それこそさみしいじゃねえか」
「一般市民のヒーローオタクとしては、仕事の邪魔をしちゃいけないので」
「オタクの前に友達だろ」
「でも、ほら、生徒たちにも示しがつかないから」
 ひとつひとつの作業に集中しつつ、緑谷との会話も続ける。
「まァ、移転しても実技指導ならいつでもやるから呼んでくれ。結構好きなんだ、ヴィラン役も」
「ぜんぜん役に入り込めてないけどね」
 ぼそりとツッコまれ、思わず反論してしまう。
「そうやって油断させてるんだよ」
「うそだあ」
 声をあげて笑われた。演技が下手なのは本当だから仕方ないけれど、笑いすぎなんじゃないか。轟が少しだけムッとしたところでタイマーが鳴った。

 持ってきてもらった蕎麦はいつもと変わらない美味さで、二人前ずつ食べたはずなのにまだ腹にも気持ちにも余裕があった。昔から多少のことでは動じない食欲で助かると内心で苦笑いを浮かべながら、差し入れの駄菓子を適当な皿に盛り付けてテーブルに出す。
 そして、聞きたいことがある、と食後の茶を淹れつつ改めて切り出すと、緑谷が姿勢を正した。
「記事は全部読んだのか」
「うん。雑誌の実物は確保できなかったから、ウェブ版だけど」
 手を温めるように湯呑みを持つ緑谷の右手は、傷だらけで歪んでいる。轟と初めて対戦した体育祭で負傷したのがきっかけではあるが、それ以降もさまざまな局面で傷は刻まれ続けていった。だから、自分との闘いだけが原因ではないと今ではわかっているが、緑谷も飯田も自分と関わるせいで手がおかしくなるのだと衝撃を受けたあの瞬間のことはやはり忘れられない。あのときは、二人に笑い飛ばしてもらってようやく変なことを言っているのだと自覚できたけれど、似たような感覚に陥ることはいまだにある。
「親父が話をしたいって、連絡よこしてきたんだ」
「なんて言ってたの?」
「いや、まだ折り返してねぇ。飯田んとこと話し合いの途中だったから。タイミングがいいんだか、悪いんだか」
 豆菓子の小袋をひとつ取り、封を開ける。この渋い趣味は誰のだろうと思ったら、最近オールマイトがハマっていて、少しずつしか食べられないからよくお裾分けをもらっているのだと教えられた。ひとつ齧ると思ったよりも甘くて、やさしい味わいだ。轟が幼い頃に憧れ、今でも目標としているヒーローは、こんなところでも安心をくれるらしい。
「親父は関係ねえんだ」
 うん、と相槌を打って、緑谷はただ聞いている。
「俺が迂闊だったから撮られて、飯田を巻き込んだ。だけど、今話したらいまさら言いたくねぇことまで言っちまいそうで」
「そっか」
 言葉が途切れ、もうひとつ豆菓子を口に放り込む。ぽりぽりと咀嚼しながら考えていると、緑谷が口を開いた。
「エンデヴァーとは、最近会ってるの?」
「月命日にはなるべく実家に顔出すようにはしてる。相変わらず来なくていいって言われるけど」
「それは」
 緑谷が心配そうに目を瞬かせる。
「大丈夫だよ。もうずっと、大丈夫なんだ」
 轟が苦笑を返しても、緑谷はあまり納得はしていないようだ。だけど、息子である轟自身は父と馬が合うとは言い難いが、緑谷にとっては世話になった師の一人だ。気にかけていることまで無碍にしたくなかったから、ちゃんと近況を伝える。
「先月会ったときは新しい義手のモニターをやってたぞ。リハビリも頑張ってて、歩ける距離も少しずつ伸ばしてきてるし、調子もよさそうだった」
「それならよかった。よろしく伝えて、……ってそんな気にはならないか」
「構わねぇよ。このままだとまた勝手なことするかもしれねえし、明日にも話はするつもりだから」
 眉間が寄って強張るのを感じて指先で揉みほぐしていると、緑谷が「勝手なことって?」と訊ねた。
「……たとえば、だいぶ前のことになるが、母との離婚だな。本当は燈矢の四十九日までは待つ予定だったし、公表もするつもりもなかったんだって、姉さんが言ってた」
 頭の中で話がつながらないのか、緑谷が怪訝そうな表情を浮かべた。
「ほら、何年か前に、飯田がマスコミに捕まったとき。ここの下で。たぶん、そのおかげで飯田のことはほとんど話題にもならなかったんだ。今回蒸し返されちまったけど」
「あ、ああ! えっ!? あれってそうなの!?」
「母も思い切って前倒しにしたとしか言ってなかったんだけどな。飯田には言うなよ」
 驚く緑谷に轟が念押しすると、「そういうことだったんだ」と緑谷が唸った。
「……あの時は確かに俺にはできないやり方で親父に助けてもらった。でも、あんなふうに身を削ってほしいわけじゃねえんだ。母だけじゃなくて、親父にも。だから姉さんも話してくれたんだと思う」
 ぬるくなりはじめた茶を啜り、唇を湿らせる。
「借りができるのが癪だってわけでもねえ……ただ、そうやって、誰かから何かを奪って生きていくのは嫌なんだ。たとえそれが親父でも」
「お父さんとのそれと、飯田くんのことは違うと思うよ」
 うまく言葉にできなかったわだかまりを、先回りして言い当てられてしまった。なのに、轟の口をついて出たのは純然たる不安だった。
「なあ、緑谷。俺は飯田と一緒にいていいんだろうか」
「もう無理だとか言われたの?」
 飯田がそんなことを言うはずがないとわかっているから、緑谷も深刻そうではない。
「言われてねえな。むしろ、なかったことにするかって聞いたらすごい勢いで嫌だって言われた」
 だが、轟が説明すると、緑谷は真顔で首を振った。
「それは謝ったほうがいいやつだ。落ち着いたら、改めて」
「わかってる」
 豆菓子の小袋が空になり、もうひとつ手に取ろうか迷っていると、はい、と押しつけられる。
「轟くんも、終わりにする気はないんだよね」
「ああ。仮にそうしたほうがいいってなっても無理だろうな。ただ、やっぱり恋人、ってのは……役割が、怖いのかもしれねぇ」
 これは飯田にもまだうまく伝えられていないことだった。後ろめたさを感じつつ、言葉を探す。
「俺と飯田は、というか主に俺なんだが、良くも悪くも注目されて、血筋を継いだものとしてどうしても見られるだろ。血を途絶えさせるのか、才能を受け継がせないのは社会の損失だとか、くだらねぇ書き込みも見た。だけど、その代わりの何かを社会に差し出すべきなのか、とか、せめて理解してもらって安心してもらわねえと、とか、でも俺と飯田を何かの型に押し込めて、そうなった時に、俺は変わらず飯田を大切にしてやれるのか、とか。そんなことを、どうしても考えちまう」
 緑谷は静かに聞きながら、アルファベットの刻まれたチョコレートを摘んで、ぽりぽりと齧っている。
「代わりの何かって、まさかヒーローとしての活動じゃ足りないと思ってる? そんなことは絶対にないってわかってるよね」
 諭され、なんとか笑顔を返す。
「わかってる。でも、いつかまた思い詰めてイカレちまうんじゃねぇかって、たまに心配になるんだ。飯田と一緒に生きていきてえだけなのに」
「なかなか参ってるね」
「そうみてぇだな」
 ああ、と轟は呻いた。
「飯田のとこの兄貴に聞かれてさ。『愛しあってる』って、確信持って言えたのにな」
 緑谷がぽっと顔を赤くする。
「あからさますぎたか、わりぃ」
「ごめん、君のその顔で言われると勝手に照れちゃうだけなんだ」
「いつもの顔だぞ。それに、飯田と俺のことだろ」
「それでもさ」
 もじもじと言われて話題を変えることにする。
「なあ、緑谷は、爆豪のことどうやって許したんだ?」
「へっ?」
 緑谷が、塀の上で足を踏み外した猫のような声をあげた。
「詳しくは聞いてねえけど、刑事事件になっても仕方ないようなことをしてたって、爆豪が言ってたことがあるんだ」
「……マジでか。いつ?」
 気まずげに視線を泳がせる緑谷に、遠い記憶をたぐりよせながら答える。
「おまえが一人で雄英を出ていって、迎えに行く相談をしてた時。爆豪のサポートをするつもりで飯田が作戦を考えてたら、教えてくれたんだ。実際に緑谷をとっ捕まえるのは、自分よりも飯田がやるべきだって」
「他に誰が知ってるの」
「切島はもっと前から知ってたっぽかったけど、俺の知る限りはそのくらいだ。爆豪も、たぶん全員には教えてねえし、俺らも別に言いふらしてはいねぇよ」
 あの漢らしさを何よりも重んじる切島がなんとか呑み込んでいるようだからと、轟は爆豪を問い詰めることはしなかった。理解しろとも許せとも言われていないし、何より緑谷と爆豪の関係が目に見えて改善していたから踏み込む必要も感じなかった。それでも、一度聞いてみたかったのだ。
 轟は父親のことを許せるようになる準備をしているように見える。そう言っていた緑谷自身はどれほどの思いで爆豪を許したのか。
 だが、轟の質問に肝心の緑谷は眉を寄せたまま、「許した、のかなあ」などと呟いている。轟が驚いて目を瞬かせると、緑谷は表情をゆるめ、説明した。
「……かっちゃんにされたことは、本当にひどいことだったよ。大怪我をしてもおかしくなかったし、言われたことも……そうだね、もし真に受けてたら、きっと大変なことになってた」
 チョコレートの包みを細く畳んで結びながら、緑谷は言葉を探り探り話す。
「だけど、ひどい奴だ嫌な奴だって思ってただけで、恨んでたわけじゃないんだよな、たぶん。幼馴染だしね」
「そうなのか」
「うん。それで、一年の頃いろいろあっただろ? 喧嘩して、そろって謹慎になったりさ」
 えいっと拳を振るう緑谷に、轟は思わず笑ってしまった。
「とにかく、僕の方はもう謝ってもらう以前に吹っ切れてるところもあったし、謝ってもらった時はもう許す許さないの話よりも大事なことがありすぎて、だけど二人とも生き延びられたからもういいやって有耶無耶になったのかも。少なくとも、僕の中ではそう」
 有耶無耶。轟と父親とは対極にあるような言葉だった。
「かっちゃんはたまにつらそうな顔してるけど、やめろと言ってやめられるものじゃないだろうからね。でも、縁を切りたいわけじゃないから、これでいいんだ」
 そう言い切って、緑谷は笑った。
「ごめんね、なんの参考にもならなくて」
「いや、色々あるんだなってわかった」
「……うん。水に流したつもりも忘れたつもりもないけど、乗り越えたというか、もしかしたらそれですらなくて……ただ、傷ついてたのは確かだけど、傷つき続けてるわけじゃないってことなのかも」
 それは理解できる感覚だった。そして、轟自身はまだ完全にその境地に至ってはいない。
「俺も、夏兄みたいに親父と縁切りたいほど憎んでるわけじゃねえんだ。フラッシュバックもほとんど起こさなくなった。ただ、俺もあの頃の気持ちが急にぶり返すこともあるし、今回みたいに冷静に向き合えないこともまだある。……おまえは、すげぇよ」
 自分の両手を見つめ、冷めた湯呑みをゆるく握る。
「ただの幼馴染と保護者だとまた違うよ。同列とは言えないんじゃないかな」
「そうなのか」
「……僕も、とても無責任なことを言った。昔、轟くんのおうちに初めてお邪魔したとき」
 緑谷は表情を硬くするが、轟はただ頷く。
「よく覚えてるな」
「うん。実は、気にしてたんだ。君と飯田くんのことを聞いてから。子供たちと毎日接するようになってからは、余計に。いまさらだけど、あの時はごめん。……お兄さんと戦ってた時に、エンデヴァーについて言ったことも。本心だったけれど、君にとってはフェアじゃなかった」
 緑谷はそう言って目を伏せた。
「謝るなって。それで気づけたこと、変われたこともたくさんあるんだ」
 やさしいと言われて、そうありたいと、緑谷や飯田、クラスのみんなのように強くなりたいと思えた。そう意識することで、自分の傷も癒えていくのを感じられた。緑谷の言葉だったから、戦いの最中でも傷つき続けないことを選び取れた。
 なのに、その傷がまだ痛むことが不甲斐なく、飯田との関係に今でも影を落としているのは腹立たしい。
 だけど、原因がなんであれ、これはもうとっくに自分の問題だ。その痛みと、そこから生じた現状と向き合うことまで取り上げられたくない。それはあやふやな償いなどというものをはるかに超えている。降りかかる火の粉は、自分で払いたい。
「轟くん、ちょっとスッキリした顔してるね」
「ああ。話してたら掴めたみたいだ。ありがとな」
 そして、淹れなおした茶を飲んで、近況を互いにあれこれと話し、最後に捜査協力を頼むことになる旨を改めて伝え、明日も早いと言う緑谷を轟はマンションの下まで見送った。
 部屋に戻ると、時刻はもうすぐ九時半になろうとしているところだった。二人分の洗い物はまだする気にはなれない。轟はソファに座り込み、飯田の置いていったメガネを手にとってぼんやりとしていた。
 気持ちは確かに晴れている。だけど、あまりにも長い一日だった。
 少しうとうとしかけ、眠気を振り切るためにスマホを手に取ると、飯田からメッセージが入っているのに気づく。届いたのは数分前。慌てて開けば、思いがけない言葉が現れる。
〝いまとても君に会いたい〟
〝ごめん、こんな時に言うべきじゃなかった。忘れてくれ〟
 轟はすぐに部屋を飛び出した。財布とスマホとキーケースだけを掴んで、とっさの判断でキャップをかぶってきたが、ほかには何も持たずに駅まで走る。今からだったら、東京への終電に間に合う。東京に着いたら、あとはどうにでもなる。
 早く会いたい、次に会えるのを楽しみにしている、今度君と行きたいところがあるんだ。そんな言葉はこれまでもよく聞いてきた。だけど、『いま』会いたいと言われたことは記憶にない。
 飯田なら大丈夫。それはわかっている。だけど、大丈夫だからといって痛みを感じないわけではない。
 駅に着いて、指をもつれさせながら券売機で新幹線の切符を買い、売店でマスクと飲み物を調達してから、最終の一本前になんとか滑り込んでから気づく。
〝悪い、返信が遅れた。十二時前には着く。できれば起きて待っていてくれ〟
 すぐに着信が入り、轟は足早にデッキまで出てから応答する。
『着くってどういうことだい!?』
 少しひっくり返った大声に、涙腺がじくりと疼く。
「いま新幹線に乗った。もしかして実家のほうか?」
『いや、家にいるが。でも、なぜ』
「俺も会いたくなったんだ」
 す、と大きな呼吸音がイヤホン越しに届く。
『……わかった。お風呂を入れなおして待っているから、気をつけて来るんだよ』
 飯田の都合はあえて聞かない。それもわかっているかのように、わずかに詰まって揺れる声がやさしく告げた。
 席に戻り、窓にもたれかかってマスクを下げ、水のボトルを開けてゆっくりと飲む。外にはもやもやとした暗闇が流れている。形を捉えようとしても、見えるのは反射する自分の顔だけだった。
 できれば家にいてほしいと管轄の刑事に言われたことをいまさら思い出すが、もう遅い。念の為メールを入れて、急用で出たが明日の午後には戻ると伝えると、すぐに〝連絡が取れるならそれでいい〟と返事があった。
 そして、もうひとつ連絡を入れる。忘れていたわけじゃない。ただ、いろいろと、手も気持ちも追いつかなかっただけだ。
〝記事、見たか?〟
 すぐに返信がある。
〝二人で見たよ。お父さんがリンクを送ってきたの。お母さん、焦凍のこと心配してる。私もね〟
 いつもの姉の話し方と変わらない文面に、ふっと肩の力が抜ける。
〝色々対応に追われてて連絡遅くなった。心配かけてごめん。飯田のことは今度話す。俺の大切な人なんだ〟
 指先がごく自然にその言葉をトーク画面に載せていた。いいのだろうか、飯田に相談もなく。
 それに、姉が、母がどう思うか。相手が轟と同じようにヒーロー一家の出身であること。自分たち家族の恩人であること。同性同士であること。これまで顔を合わせるたびに、友人でしかないのだと関係を偽ってきたこと——それだって、轟の中ではなにも嘘ではないということ。
 祈る気持ちで画面を見つめる。
〝前からもしかして、って思ってた。落ち着いたらまた二人で遊びに来てほしいねってお母さんも言ってたよ〟
 ほ、と思ったよりも大きなため息が出て、つい笑ってしまう。
 母と姉、友人たちに恩師たち。信じてもいい人たち、安心できる場所。確かめるまでもなく、たくさんの手が差し伸べられた。
 ——俺も飯田にとって、そんな存在になれているだろうか。
 知りたくて、会いたくて逸る胸の痛みは、甘く、鋭い。飯田はどうしているだろう。風呂を入れなおしてくれると言っていたが、もったいないから今からでも断っておいたほうがいいだろうか。着いたら、なにも持たずに出てきたことをたしなめられるだろうか。
 頭の回転が鈍っている。夜も遅く、乗客は少ない。自分の鼓動すらうるさく感じるほどに、車内はしんと静かだった。
 轟はタイマーをセットし、腕を組んで目を閉じた。眠れなくても、頭は休まるはずだ。
 だが、目を閉じたと思ったら、すぐにアラームが鳴った。どうやら一瞬で寝入ってしまって、あっという間に一時間経っていたらしい。
 新幹線を降りて、人目を避けるためにタクシーで飯田の家の近くのコンビニまで移動する。流れゆく街の姿がよく知っているものに変わるにつれ、呼吸が少しずつ浅くなっていく。
 会って、どうしようというのだろう。捜査に特に進展はなく、騒ぎになった原因を考えると会わない方がいいはずだ。だから飯田もあの言葉を撤回した。
 本当に会ってもいいのだろうか。
 だが、もうここまで来たのだ。もし会わないほうがよさそうだったら、帰って日を改めればいい。
 轟が腹を決めたところで車が停まった。のろのろと精算を済ませる。そして、運転手に礼を言ってから外に出ると、そこには見慣れた景色があった。
 いつもは駅で落ち合って、ふたりで他愛のない話をしながら飯田の部屋への帰路を並んで歩く。あるいは、夕暮れのチャイムが鳴る中で子供が遊び仲間とボールを蹴り合うように、名残惜しさをふたりの間でころりころりと転がしながら、次はいつ会えるかなどと相談をしながら駅に向かう。
 ひとりでここに立つのは、初めてのことだった。
 ここからの道を覚えているだろうか、と心細さに現実的な不安が重なる。だが、それくらいスマホで調べればいいと遅れて思いついたところで、轟の目の前に影がさした。
「道を忘れてしまったのかい?」
 顔をあげると、いつものスポーツウェア姿の飯田がいた。
「よくわかった、」
 な、と声を発し終わる前に、轟は飯田の腕の中に閉じ込められていた。
「飯田?」
「……どうしても、いますぐ君を抱きしめたくなった」
 飯田の身体に腕を回して抱擁を返すと、はあ、と重たい吐息が耳をくすぐる。
「すまない、これでは見られてしまうな」
 だが、そう言って離れようとする飯田を轟は引き留めた。
「もう隠れていたくねぇんだ。飯田は……飯田はどうしたい?」
 自分がそんなことを思っていたなんて、知らなかった。
 言葉はいつも、いちばん最後にやってくる。
 抱擁がさらに深くなり、マスク越しに飯田の頬がぴったりとくっつけられる。
「まずは部屋に戻ろうか」
 轟は頷いた。同時に、あることに気づく。
「そういや、おまえはなんで出てきてたんだ? ここに来るって伝えてなかったのに」
「入浴剤を使い切ってしまったのを思い出したんだ。だから、偶然だ。君こそ、ずいぶんと早かったな」
 腰のあたりでビニール袋がくしゃりと音を立てた。
「それに、なかなかの軽装だ。そんなに急いで出てきたのかい?」
 ふふ、と笑う声が少し引きつれたように聞こえる。飯田が深呼吸をし、身体同士がふたたびぎゅっと押しつけられた。
「新幹線の時間がギリギリだったんだ。入れ違いにならなくてよかったよ」
 腕がゆるめられ、轟はのろのろと抜け出した。人目はほとんどないが、ここは外なのだ。いつまでもその居心地のいい囲いの中にいるわけにはいかない。
「下着と靴下買ってくる」
「君が前回置いていったのがあるぞ」
「ならいいか」
 その返事に満足したのか、飯田は轟の手を取りそのまま歩き出した。当たり前に、どこまでも自然に、これまで幾度となくそうしてきたかのように。
 いいのか。どうして。そう聞きたくても胸がいっぱいで声にならない。
「そういえば、爆豪くんはなぜ今朝の現場にいたんだ?」
 しばらく無言で歩いてからごく普通の調子で聞かれて、話していなかった、と思い出す。
「雄英に用事があって来てたらしい。それで通りすがりに騒ぎを聞きつけてやってきたら俺がいたというわけだ。……緑谷も知らなかったから、オールマイトにでも話があったんじゃねえか?」
 ゆっくりと、少しつかえながら説明すると、そうだったのか、とやわらかな相槌がふたりの間の空気に消えた。
「本人は気にするなって言ってたけど、悪いことしたよな」
 肩を落とす轟に、「また改めてお礼をしよう」と飯田は繋いだ手に力を込め、前を向いたままそう答えた。
 人気の無い夜の深みを、すいすいと手を引かれて進む。裏通りを抜けていくせいか、迷路の中に踏み入れてしまったような心地になってくる。
 繋がれた手を握りなおすと、飯田が歩きながら後ろに首を傾けて、澄んだ視線を寄越した。
「会いに来てくれてありがとう。本当はね、少し心細かったんだ。呼びつけてしまって申し訳ないが」
「俺も、なんでこんな時に近くにいられないんだろうって思ってた。だから勝手に来たんだ」
 歩幅を大きく取って、飯田の隣に並ぶ。狭い路地はいつのまにかひらけた大通りに変わっていた。
 駐車場に下っていく傾斜路と緊急出動用の出口を通り過ぎて立ち止まれば、そこはもう飯田の住むマンションのエントランスだった。
 明かりに飯田の表情がくっきりと照らされる。暗いところでは分かりにくかった翳りが見て取れて、轟は眉を寄せる。
 勘を頼りにやってこなくても、飯田はきっと平気だった。眠りにつき、朝には目を覚まし、また人の役に立つために動き出すことができる。
 だけど、大切な人にひとりでこんな顔をさせたくはない。巻き込んでしまって何ができるともわからないけれど、せめて側にいたい。
 言葉をなくしたまま立ちすくんでいると、飯田が、轟くん、と呼んだ。
「キスをしてもいいかい? いま、ここで」
 詰まる声とともに、飯田の目の縁がうっすらと光る。
「急にどうした? まだ外だぞ」
「……俺は、悔しいんだ。顔も見せない何者かが、君を悲しませ、傷つけた」
 震える唇はどうにか笑みのようなものを保とうとしているが、うまくできていない。
「どんな理由があるのかは知らないが、何を暴いて踏みにじろうとしたのかを、見せつけてやりたくなった」
 轟自身も隠れていたくないと言った。これはその言葉への、飯田なりの答えなのだろう。だが、轟はかぶりを振った。
「わかるよ。でも、おまえがそうやって自分を切り売りするのは嫌だ」
 静かになだめると、目がハッと見開かれ、すぐにしょげしょげと伏せられた。
「……確かに軽率だった。君のことだって、好奇の目に晒したくないのに。悪かったよ」
 飯田は謝ってから、入館用のカードキーを読取機にかざした。手をつないだまま無人の管理人室の前を通り、エレベーターに乗り込んでから改めて確認する。
「明日も仕事だよな」
「実は午前中だけオフにしたんだ。サイドキックたちに立て続けに顔色が悪いと言われてしまってね」
「あの後なにかあったのか」
 轟の問いに飯田は少し考え込んでから口を開いた。
「兄さんと昔の話をした。……もう少し、自分の中で整理がついたら君にも話そう」
 エレベーターは五階で止まった。飯田に続いて降りて、黙ったまま外廊下を角の部屋まで進んでいく。玄関ポーチの扉を開ければ、下の表通りにつながる緊急出動用のスライドがあって、その奥の間口の広いドアは、もう何度も訪れている飯田の部屋に続いている。
 部屋の中に入り、今度は轟のほうから飯田を抱きしめた。
「キス、するんだろ?」
 そう伝えるとマスクがむしり取られ、あたたかい唇が重ねられる。かぶっていたキャップがずり上がり、入浴剤の入ったコンビニの袋がかすかな音を立てて床に落ちた。唇が離れ、今度はより深い角度で噛みつき合う。
「お風呂、入ってる」
 息継ぎとともに伝えられ、小さく啄みながら誘う。
「おまえも来いよ」
「俺はもう済ませたんだが」
「離れたくねえ」
「仕方ないな」
 笑いながら短く囁きあって、絡まりあったまま、ふらつくことなく靴を脱ぎ捨てて部屋に上がる。
「お邪魔します」
 轟が忘れずに告げると、落とした袋を拾ってから飯田が微笑んだ。
「あぁ、いらっしゃい、轟くん」

 無機質な電子音が鳴り、すぐに止んだ。
 広いベッドの中、するりと離れていこうとする裸体のぬくもりに腕を絡ませて引き留める。
「行くなよ。さみぃ」
「室温も君の体温も平常だぞ」
 寝起きの掠れた声が、やさしくたしなめる。轟は回らない頭で訂正の言葉をなんとか捻り出した。
「……心がさみぃ」
「そうか、それは大変だ」
 くすくすと笑う声とともに、飯田は轟の腕の中に大きな背中を縮めてふたたび収まった。
 心が寒いだなんて、嘘だった。それはきっと見抜かれている。
 昨晩は互いの存在を確かめるように抱き合った。渇きを癒すように口づけ、古い傷、新しい傷、見えないものも含めすべてを埋めるように肌に指や舌を這わせ、何度も求め求められ、愛していると伝えあった。だから、この上なく満たされている。なのに、まだ飯田をここに閉じ込めておきたくなってしまう。
 大切な、最愛の人。親友で、戦友で、誰がなんと言おうと側にいると決めた、唯一無二。
 その飯田は轟の首にぴったりと額を寄せ、ちょうど収まりのいいところを見つけたのか、満足そうに喉を鳴らした。いつもは自分が甘えてばかりなのに、と轟は反省する。今のこの状況も、轟が甘えた結果ではあるのだけれど。
「あと少ししたら走りに出る。君もよかったら一緒においで」
 さっきよりも明瞭な声で誘われて、昨晩の情事の激しさを思い出す。互いにきっと必要なことだったのだろう。だけど、終わった頃には寝巻きを着直す気力もないほどだったのに。
「元気だな」
「おかげさまで」
 機嫌よく弾む声に、轟は昨日から考えていたことを伝えることにした。
「なあ、飯田。やっぱり一緒に住まねえか?」
 割れる声を咳払いで整えてから、続ける。
「こっちも手薄なところ、まだ結構あるだろ。今回の件が解決したらだけど、東京に移る手続きを始めようと思う」
「今の管轄はどうするんだい?」
 そっと促され、説明する。
「実は担当区域自体は前からかなり落ち着いてるんだ。雄英のお膝元でもあるしな。忙しかったのは、よその応援に行ったり指名が入ったりしてたからで、それなら東京からのほうが都合がいい」
「俺が君のところから通ってもいいのだが」
 前と同じ問答がなめらかに始まった。
「大所帯の所長なんだからだめだろ」
「君の異動だって認められるとは限らない」
「……そうだな。でも、実際、俺のほうが身軽だし、申請はしておくよ」
 今度こそ。そう言い切ると、しばし沈黙が訪れる。
 やっぱりまだ早いのか。それとも、いくら互いに大切でも、関係が曖昧なうちに一緒に暮らすのは難しいのか。
 轟は話を撤回しようと口を開いた。だが、思いがけず先を越されてしまう。
「わかった。落ち着いたら、ふたりで物件を見に行こう」
「……だめなのかと思った」
「まさか。ただ……この部屋に君が来てくれるのを、僕は結構気に入っていたんだ。君のところにお邪魔するのもね。だから、それがなくなるのは、少しさみしい」
 想像だにしなかった可愛らしい理由にたまらなくなって、足の先をついばたつかせてしまう。もう、と掛け布団の中で脚ごと絡め取られ、エンジンの排気筒が軽く脹脛に食い込んだ。
「思い出もたくさんあるからな。特に、君の部屋では」
「ここにだってあるだろ」
「そうだな。君は来るたびに、緊急出動用の出口をいつもそわそわと見ていた」
 からかう声音は温かく、しっとりと落ち着いていた。
「気になるだろ、あんなのがあったら。使ったことはあるのか?」
「何度か。使い勝手はあまりよくないんだ。俺は装備がかさばるから」
「そっか、残念だ」
 轟がそう言うと、よし、と飯田が腕の中から抜け出して、ベッドを降りた。
「カーテンを開けるよ」
 掛け布団を頭から被る猶予を数歩分与えられるが、轟はそのまま窓のほうへと移動する飯田を見つめていた。
 シャッ、と勢いのついた音とともに、レースカーテンに和らげられた淡い金色の光が寝室を満たした。眩しさに涙が滲む。
 その光の中で、生まれたままの姿の飯田が振り返った。
「おはよう、轟くん。素敵な朝だよ」
 眠気がかすかに残る声で、飯田が呼ぶ。珍しく寝乱れた髪と、メガネをしていないせいでいつもより少しだけ定まらない視線が、無駄なく研ぎ上げられた肉体美の均衡を好ましく崩していた。
 まだ軋む身体を叱咤して、轟はベッドを降りて飯田の隣に並んだ。横を向き、わずかに視線を上げると、外を見つめ眩しそうに細められた目の虹彩が光に透けて金色に見える。
「愛してるよ、飯田」
「どうしたんだい、急に」
 金色の瞳がゆっくりと轟のほうを向いて、瞬きとともに琥珀色を経て赤に戻る。
「頭煮えてねえときにも、ちゃんと言っておきたかった」
「ふふ、そうだな。俺も、愛してる」
 これまでは意識が落ちる寸前にただ聞かされるだけだった言葉。それは昨晩初めてふたりのものになり、夜が明けてもそこに輝いている。きっかけこそ苦々しいものではあったが、それでも言葉にできた喜びがある。噛み締めていると、腰を引き寄せられ、唇がサッと触れ合った。
「するとは言わなかったな、すまない」
「昨日の延長ってことでいいだろ」
 キスをする時は互いに許可を取る。元は轟が飯田を傷つけたくなくて決めたことだった。だけど、飯田がそれを時々わざと飛び越えてみせるのを、轟はひそかにうれしく思っていた。
 いつか、その制約も互いに要らなくなる日がくる。そんな予感がするからだ。
 たった一夜が明けたばかりだ。事態は特に動いていないはずだし、棚上げしていることだってたくさんある。父親のことや、ほかの友人たちへの連絡と説明、取材申し込みの数々。仕事にも今日の夜勤から復帰したかったが、許可の連絡を待たねばならない。他にも数え出したらキリがないだろう。
 それでも、ふたりで歩む未来がまたひとつ新しい形を得たことで、思いがけず勇気が湧いてくる。
 だから、まずはひとつ片付けることにした。
「後で親父に連絡するとき、一緒にいてくれるか? 昨日は結局折り返せなかったから」
「もちろん。俺からも何か挨拶をしたほうがいいかい?」
 すぐには答えられなかった。父親に何をどれだけ伝えるか、まだ何も決めていない。……いや、今日はただ用件を聞くだけでいい。説明を求められたら話してもいいと思える範囲で話し、自分たちで対処していると伝える。
 感情を乱す必要はない。
 落ち着いて、切り分けて考えれば難しいことではなかった。
「流れ次第だな。必要になったら頼む。あと、それとは別件で、今度お母さんと姉さんがまた遊びに来てほしいって言ってた」
「それは楽しみだ。落ち着いたらセッティングを頼むよ」
 飯田が笑って轟の腰をそっと離した。
「そろそろ着替えて出ようか」
「予備のウェア借りてもいいか?」
「もちろん。用意するから、先に顔を洗ってくるといい」
 昨夜脱ぎ捨てた下着を床から拾って洗面所に向かいながら、轟は揃いのウェアで走る飯田と自分の姿を思い浮かべた。
 目立つことをすれば、また撮られてしまうかもしれない。昨日の今日で不真面目だ、市民感情への配慮が足りない、あるいは喧嘩を売っているのかとまで言われるかもしれない。
 だけど、そのどれもが少しずつ本当のことだったとしても、ふたりの間にある大事なものを無遠慮に踏み荒らされ、傷つけられるいわれだってないのだ。悲しみを風化させたくなかったがための義憤でも、悪意を金銭に変えるための扇動でも、どんな理由があってもそれは変わらない。
 だから、まずは外に出て、いつものように並んで走る。自分たちはヒーローで、普通の人間で、ふたりならきっと大丈夫なのだから。
 きっちりと整頓された洗面所に踏み込み、轟は鏡を見据えた。
「お」
 さっきの飯田とまったく同じ角度で、髪が大きく跳ねている。
 これは見せたほうがいい。絶対に見てほしい。
「飯田、ちょっと来てくれ」
 少しだけ声を張りあげると、さささ、とやわらかく抑えた足音が近づいてくる。
 くだらないことで呼んでしまった。だけど、ふたりの間には苦しくて心が挫けそうなことや、力を合わせて乗り越えなくてはならない困難以外にも、他愛のない愉快なことだってたくさんある。それを、轟も飯田もとっくに知っているのだ。
 この小さな空間が笑い声で満たされるまで、あと数秒。
 轟は息をひそめて、ただその時を待った。