5.Half The World Away(二十三歳、秋)
「インゲニウム、ショート! お疲れ様です!」
久しぶりに飯田以外の声で発せられた日本語を聞いて、轟焦凍はさっと腕を出し庇うような姿勢をとる。
そんな必要のないくらい飯田が強いことは知っている。だが、予定外のことについ警戒を露わにしてしまうのは仕方がない。去年に続き二度目の派遣とはいえ、ここは日本ではないのだから。
視線の先、数メートル離れたところに、蛍光色の腕章をつけた小柄な人物がカメラを首から下げて立っていた。歳は同じか、少し上くらいだろうか。くるくるとあちこちを向いている濃灰色の髪の毛先は焦げていた。顔には大きな絆創膏が貼られ、手にも包帯が巻かれている。そのせいか、明らかに自分たちとは違うのに、どことなく緑谷や麗日を思わせる溌剌さと無鉄砲さが感じ取れる。
その人物がすたすたと近づいてくると、羽織ったカーキのボンバージャケットを彩る夥しい数のピンバッジが目に止まった。ぱっと見て判断できる範囲では、自分たちを含めた日本で活動している若手ヒーローのものが中心で、さらに胸元の目立つところには大きなピースマークのパッチに寄り添うように虹色の旗と水色とピンクと白のストライプ柄の旗のピンバッジも並んでいる。いずれも超常以前から存在する、古典的なシンボルだ。
そして、腕章にはPRESSの文字が印刷されていた。
轟と飯田を含めた国際協力組は先ほどをもって解散し、あとは帰り支度をするだけだった。日本のメディア取材については明日の夕方から会見の予定が入っていて、記者たちはくれぐれもフライングで現場に来ないようヒーロー公安委員会から釘を刺されているはずだ。だが、この人物には大手特有の『我々が何を聞いても取材対象はすべて答えなければならない』と信じて疑わないような圧力がまったく感じられない。ならば、現地メディアの記者なのだろうか。今この時間に何の用があるというのだろう。
轟がどう声をかけようか迷っているうちに、その人物は飯田に向かって勢いよく頭を下げた。飯田の前に差し渡された轟の腕は特に気にも留めていないようだ。
「昨日は助けてくださってありがとうございました。すぐにまた戻っていかれたのでお礼を言いそびれていまして」
ああ、昨日の、と飯田が感嘆の声をあげた。飯田が救助した人だと判明したところで、自己紹介とともに名刺を差し出され、轟も警戒を解いて腕を下ろす。
「記者の方だったのですか! いや、礼には及びません、当然のことをしたまでです! お怪我はもういいのですか?」
飯田がヘルメットを脇に抱えたままヒュンッと直線を描いて腕を振る。高い位置で小さく縛った髪までがひょこんと揺れる様子に、記者は少し驚いているようだ。その反応が新鮮で自然と笑みが浮かんでくる。
「おかげさまで、ピンピンしてますよ! 髪とか焦げちゃいましたけど、カメラも無事でしたし。そう、実は記者だったんです。一週間前から現場入りしてたんですが、昨日とうとうしくじって腕章もなくしちゃって、面目ない……で、今日が現場最後の日だと聞いて、助けてもらったし、せっかくだからお会いできないかなあと戻ってきた次第です」
にこやかでざっくばらんな喋り方は親しみやすく、記者がみんなこうならいいのに、とつい思ってしまう。二言目には父・エンデヴァーの名前を出され、力も功績も父の影響下にあるのだとストレートに言われる確率は体感で三割、褒めるにしても貶すにしても持って回った言い方で言及されるのは五割ほどだ。関心を持ってもらえるのは悪いことではないけれど、続けば消耗することもある。だが、今日は救助に当たった飯田が中心で、轟についてはまだほとんど触れられていない。いつ話を振られてもいいようにしっかりと聞いているが、あまり構えなくてもよさそうだ。
飯田が聞き出したところによると、その記者は一昨年立ち上げられたばかりの出版社の、プロデビュー十年目までの若手から中堅どころのヒーローを専門に取り扱う雑誌の発起人のひとりで、この現場には留学時代の知人を頼って乗り込んできたということだった。雄英ではないが、別のヒーロー科のある高校の経営科を出ているのも親しみを感じさせる。
「うちはいわゆるリトルプレスってやつなんですよ。超少人数で回してるし、出してる雑誌もZINEに毛が生えた程度なんですけどね。これから頑張って大きくしていきたいんです」
そう謙遜するけれど、恩義を盾に他を出し抜いてやってくる度胸としたたかさはなかなかのものだと轟は評した。その場で二、三言葉を交わし、コメントと写真の使用許可まで取り付ける手腕も見事で、人の懐に入るにはこうするのか、と感心する。同時に、自分にはとても真似できないと轟は内心で唸った。
質問には飯田が主に応対し、飯田から振られたものにだけ轟も答えていく。その流れで活動中の写真もいくつか見せてもらったが、大きな誌面で見てみたいものばかりがスクロールするたびに現れる。特に数日前に撮ったという飯田の写真がカッコいい。移動中の加速に入る瞬間なんてよく撮れたな、と心打たれていたら、動体視力が非常にいいという〝個性〟を持っているのだと説明された。だが、それだけではこの『飯田らしい』としか言いようがない構図では撮れないだろう。轟自身は写真への造詣はさほど深くはないけれど、緑谷にあれこれ聞かされてきたので多少はわかる気がしていた。
「これ、緑谷が見たら喜びそうだな」
何気なくそうこぼすと、その記者はとても喜んでくれた。あの大戦のリアルタイム配信とその後のヒーロー社会の在り方を見て雑誌を立ち上げたいと志したのだと明かされ、緑谷への感謝と、彼が現在ヒーローとして活動していないことが残念だとも伝えられる。
数年後にはきっと驚くことがあると思う、とは当然言わない。「俺も残念に思います」とだけ返す。
最後に飯田と肩を組んだところを数枚撮ってもらい、データを送ってもらう約束を取り付けてから記者とは別れた。そして、交換した名刺を腰のケースにしまって、轟は大きく伸びをした。
六週間にもわたる山火事対応を終え、来週ふたりは帰国する。そろそろ時期的にも現地のヒーローと消防だけで対処できる規模になってきているからだ。
消したと思ったらまたすぐに別のところから火が上がる、まさにイタチごっこの日々だった。〝個性〟犯罪率も格段に高い地域で、民間人もヴィランも等しく守りながら動くのは骨が折れた。だが、前年からの知見をフルに活かすことでより早期の対応が叶い、出動要請の頻度の割には被害を少なく抑えられたと聞いている。
休日も当然挟んでいたが、今年からは派遣期間を拡大したこともあり、待機番の日にはヒーローが手薄になった市街地のパトロールにも両国の許可を得て無理のない範囲で協力していた。なので、今夜からは久しぶりに少しだけ気が抜ける。明日の記者会見が終われば、なんと移動日を除いても二週間もの休暇まで与えられているのだ。
この休暇のおよそ半分を、ふたりはここ南カリフォルニアで過ごすことに決めていた。リフレッシュ目的もあるが、訪ねたい知人もいるからちょうどいい。
「帰ろうか、轟くん」
まだ装備を脱いでいないのに日本語で名前を囁かれ、心がふわりと熱を纏う。
「ああ。帰ろう」
さっと手を取り、すぐに離す。ここは日本ではないが、それでもあまり長く触れていると、公私混同はよくないと飯田に叱られてしまう。叱られてもまったく嫌ではないから困ったものだ。
「なあ、飯田。あとでするだろ、セックス」
たまらなくなって耳打ちすると、ガコン、と誤作動を起こした機械のように飯田が止まる。
「外でそういうことを言うんじゃないよ! まったくもう!」
大きな声で叫ばれ、周りのヒーローたちが軽くざわついた。
「飯田、日本語で騒ぐと周りがわかんねえぞ」
「わかられたくないだろ、こんなこと! 君ってやつは! 君ってやつは!!」
飯田の真っ赤でゆるゆるの表情からして特に問題はなさそうだと流してもらえたのか、視線は散っていく。ベテランたちからは、どことなく若手同士のじゃれあいが微笑ましいと思われているような空気も伝わってくるのがくすぐったい。
——知らない人には、俺たちはどんな関係に見えているのだろう。
特別なふたりに見えていたらいい。怖気づいて、わかりやすいラベルを拒否したくせに、自分たちを知る人たちのいるところを離れたら、そんな欲がふつふつと沸いてくる。
だから、あんなことをしてしまったのだろうか。さっきよりも抑えた声で連ねられる飯田の小言をしっかりと聞きながら、轟はこの数週間を思い返していた。
色々な国からヒーローが集まれば、性的なニュアンスを含んだ国際交流の誘いが発生することもある。緊張感はあれど、昨年と比べてかなりの長丁場の現場だったから多少の覚悟はしていた。それでも初っ端から飯田がカナダの新顔の男性ヒーローに口説かれているところにうっかり居合わせて、頭に血が上った轟は、He’s with me、と最大限にぼかしつつもハッキリと牽制してしまったのだ。
その甲斐あってか、轟と飯田に関しては一対一のお誘いがなくなり、交流は集団でのごく健全なもののみとなった。それはチームワークの向上にも繋がり、結果は上々。だが、実質はパートナー同士であると宣言したに等しいことを、飯田には説明できないまま最終日を迎えてしまったのだ。
正直に伝えるべきなのはわかっているが、どんな反応をされるかわからない。飯田も英会話はまったく問題なくできるけれど、向けられた興味関心がどんな類のものなのかは理解していなかったかもしれない。
……もし、その言葉を喜ばれてしまったら。
友達のままどんな関係でいたいかを探っていくと決めた夜から二年が過ぎても、轟はまだそんな覚悟ができていなかった。
大切な親友であることに変わりはない、社会的承認など瑣末なことだという飯田の弁に、ずっと甘えてしまっている。それが飯田の本心であるとも知っている。
だが、その本心が変わってしまうのが、変わったことを知った自分がどうなってしまうのか、大仕事を終えた達成感を味わうべきこの瞬間でもまだ怖かった。
理想のヒーローであり続けることとは、きっと関係のないことだ。それでも捨ておけず燻らせてしまうのは、相手が飯田だからなのだろう。
どうしたんだい、と呼びかけられ、小走りで追いつきながらも、轟はまだ迷いを抱えたままだった。
六週間を共に過ごしたヒーローたちとの打ち上げも終えて部屋に戻り、Do Not Disturbの札を外のドアノブにかけて施錠する。そして、ほ、と息をついた瞬間、轟は飯田に抱きすくめられていた。
「お、どうした?」
さほど身長の変わらない轟を包み込む、分厚く鍛え抜かれたあたたかな肉体。あまりの幸福感に、そのまま飯田の身体に溶け込んでしまいたくなる。一方で、何かあったのだろうか、とも心配になる。
だが、轟が何事かとふたたび訊ねようとした瞬間、「キスがしたい」と頬を撫でられた。見つめる瞳は潤んで、飢えていた。そういうことか、と、轟は唇を軽く舐める。
「ああ、好きなだけしてくれ」
その返答は、これからセックスをしますというふたりの合図だ。普段は布団の上で正座して『将棋みたいだな』などと思いながら伝え合うのだが、飯田も日本を離れ、任務も無事終えて、多少開放的になっているのかもしれない。遠慮なくむしゃぶりつかれ、轟はドアに押し付けられた。
こういうの、映画で見たことがあるな、とぼんやりと思う。呼気にはわずかな酒精とオレンジの香りに別の重たい甘さが混ざっていた。さっきまでここのラウンジで飲んでいたテキーラサンライズの後味だろう。自分もさっき飲んでいた苺の何か(他の人が飲んでいるのを見て『同じものを』と頼んだので、名前を聞きそびれてしまった)の味がするのだろうかと可笑しくなってくる。
そんなことを思いながらシャツの上から身体をまさぐり舌を絡め合わせているせいか、早くも股間が反応しはじめる。勃ちあがった陰茎を逞しい太ももにゆるゆるとすりつけると、飯田が喉を鳴らして唇を離した。
「君があんなところであんなことを言うから、抱いてほしくてたまらなくなってしまったじゃないか」
轟は目を見開いて、赤くなっている飯田を凝視した。
「おまえ、マジか」
あの後、他国のヒーローたちとずっとにこにこと喋っていたのに!? そんなおまえがカッコいいと思って俺は眺めていたのに!? と轟は内心でひっくり返りそうになる。だが、驚きすぎて表情にうまく出せないから、その驚愕は半分も伝わっていないのだろう。
素直ゆえにたまに、いや、かなり頻繁にこういうとんでもない破壊力を発揮する飯田のことを、轟は困ったやつだと思っていた。もちろん、悪くない意味でだが。
だけど、この言葉のせいで轟の限界はいとも容易く破られてしまった。
すとんと両膝をつき、轟は飯田の腰に抱きついて股間に顔を埋める。ひぁっ、と上がった声には甘い期待が乗っていた。
「シャワーがまだ」
「消防署で借りてただろ」
「後ろがまだ」
「今はしゃぶらせてくれるだけでいい」
ハーフパンツの中でみるみる育っていく勃起を鼻でぐりぐりとさすりながら上目遣いで「だめか?」と押せば、飯田は自らベルトとボタンを外し、ファスナーを下ろした。
「ごめんよ。もったいぶるつもりはなかったんだ」
「ありがとう。『うれしい』」
まずは下着の上からかぶりつく。車移動の上に、もう十月に入ったのにどこへ行っても空調が効きすぎているせいか、酒を飲んできたのに汗の匂いがあまりしない。唾液を布地に含ませ、滲みはじめていた先走りと絡めて舌でこすりあげると、飯田が甘く啼いた。
「痛くねえか」
「いい、気持ちいぃ……俺も、うれし、い、よ」
早くも悶えはじめている様子に、胸がいっぱいになる。
「動きたくなったら動いて、出したくなったら出せよ? おまえも溜まってんだろ?」
こくん、と頷いた飯田の下着を下ろすと、どっしりと太くて惚れ惚れするほどにくっきりと血管を浮かせてそり返ったモノが、勢いをつけてぶるんと飛び出した。
陰嚢を口に含んで軽く転がしてから根本から舐めあげると、ひくひくと震えるのが可愛い。どんな顔をしているのかと様子を窺えば、身じろぎもせず、固唾を飲んで見守っているのもたまらない。
幹を甘噛みし、きゃん、と啼かせたところで全体をばっくりと咥えると、独特の苦味をもった雫が唾液と混ざって舌の奥にとろりと落ちる。鼻の先をくすぐる陰毛にこもる愛おしい匂いを思いっきり吸い込めば、そんなところを嗅ぐんじゃない、とあわあわと慌てる声が降ってくる。
だけど、本当にダメなら互いに教えると最初に決めてある。
顔を見上げながら舌や喉奥で責め立て、時に歯を当ててみれば、少しずつ飯田の腰が揺れはじめた。やがて、飯田が、ごめん、轟くん、と呟いた。大きな両手で頭がそっと押さえ込まれ、ストロークが短く、激しくなっていく。ここで轟は自ら動くのを止め、唇も舌も弛緩させ、飯田の太ももにしがみついて咥内の奥を突いてくる抽送を受け入れた。暴力的に掻き回したりすることは絶対にないくせに申し訳なさそうに腰を振る飯田の、自分と同じように精を放つ身体を持つ生き物としての本能が愛おしい。
「と、とろ、ろき、ぅん」
飯田の言葉が不明瞭に崩れ、じゅぽじゅぽという卑猥な音と混ざり合って耳の中でぐしゃりと砕ける。んぅ、と喉を鳴らせば、陰茎がびくりと跳ねて濃厚なえぐみが口の中を満たした。あー、あー、といつもより高い声に脳の気持ちいいところをさわさわと撫でられるようで、自分で触っていないのに達してしまいそうになる。
だめだ。
今日こそは、しっかりと飯田の中で果てたい。
仕事中で仕方がなかったとはいえ、もう三週間も深く繋がっていないのだ。
忙しい日々の中、同じ部屋に帰ってくるのは気安く楽しくて、心の知らない隅々まで満たされるようだった。だけど、そこにいるのに抱けないのは、一度それを知ってしまうと、なかなかつらいものがある。特に、アメリカに来る直前の二ヶ月は忙しくしつつも打ち合わせにかこつけては互いの部屋に泊まり、無理のない範囲で身体を重ねてきた。そのせいか、ずっと一緒の部屋で過ごすのが時にかえってもどかしかった。そして、飯田もそれは同じだったようで、ここ一週間はシフト終わりに部屋に戻って抱きしめるたびに、深くせつないため息をついていた。
もっともっと、触れたくてたまらない。
飯田が自分よりもさらに強靭な男の身体をしていてよかった。どこもかしこも大きくて頑丈なのにやわらかいのがひどく好ましく、どこか救われるような気持ちにもなる。動じることなく急所を差し出してくれるのも、全身で惜しみなく愛情を伝えてくれるのも、過ぎた快感に震えが止まらなくても目が合えば笑みを返してくれるのも、ひとつひとつの動きが大きくて、温かくてうれしい。轟が獰猛な衝動を抑えようとすれば、すぐに見抜いて『いいんだよ』の一言で寄り添って、受け入れてしまう。かと思えば、轟の言葉にはとことん弱く、何気なく伝えたことに真っ赤になって、ひどく動揺されることだってある。さっきの解散時に、『あとでセックスするだろ』と確認したときのように。
昔から変わらない根っこの部分と、大人になって磨かれていった魅力。どれを取っても、目が離せない。今のように時々バカになって身体の方への興味の比率が著しく傾いてしまうこともあるけれど、互いにそうなのだから仕方ない。
口に放たれた飯田の精液を味わい、達したばかりの性器にぬるぬると絡めながら飲み下していると、飯田がようやく正気に戻ったようで「き、きみはまた、そんなことをっ」と騒ぎ出した。だが、『おまえもさっきまで俺の喉を奥の奥まで犯そうとしてただろ』などと言ってしまえば、しばらく口淫をさせてもらえなくなるだろうから黙っておくことにする。
轟は抗議を受け流し、ぐったりとしてきた陰茎を咥えたまま、飯田のみちみちと肉厚な尻を揉んだ。そして、心ゆくまで揉み続けて、手のひらへの吸いつきを存分に楽しんでから見上げると、紅い瞳がさっきよりもさらに深く飢えた情欲を湛えて轟を見つめていた。青みがかった黒髪が一房縛めを逃れて、額にはらりと落ちる。今すぐすべて解いて、ぐしゃぐしゃに掻き乱してしまいたい。
「準備をしてくるよ」
心を読んだかのように、頭を撫でられながら告げられ、轟はまた硬くなりはじめていた陰茎をしぶしぶ吐き出した。
「慣らすのは俺がやってもいいか」
「ならお願いしよう」
まず、一緒に手洗いとうがいを済ませる。そして、飯田がバスルームに入ってから、連日の手の酷使で荒れている爪にやすりをかけてからもう一度洗い、必要なものをカバンから出しておく。
いつも通りならまだ少しかかるので、緑谷に今日会った記者と雑誌を知っているか聞くためにメッセージを送れば、すぐに返事があった。
緑谷の話によると、その雑誌は全国の若手の活動を満遍なくカバーしている、新進気鋭のヒーロー誌だということだった。刊行当初は四半期ごとに発売されていたが、今年度から隔月刊に切り替えるほど人気が上昇しているそうで、この間はサンイーターと烈怒頼雄斗が揃って表紙を飾っていた、と記者本人に見せてもらったものとは別の巻頭記事の紹介リンクが送られてくる。ウェブコンテンツも充実、インタビュー動画などもあるとのことだ。そして、掲載を楽しみにしているという言葉で返信は締めくくられた。
礼を伝えてから教えてもらったサイトを見ていると、バスルームのドアが開き、メガネを外した飯田が顔を突き出して微笑んだ。
「こっちでするかい?」
「おう、いま行く」
服を脱ぎ捨て下着だけになってから、シリコンベースのリューブのボトルと念の為コンドームもふたつ持って風呂場に入ると、広いシャワーブースの中で飯田が立って待っていた。結び直した髪は湯気に当たってしんなりと艶やかで、彫刻のような体躯の張りのある筋肉の上を水滴がよろめくように転がっていく。ゴツゴツと角張った脹脛に行儀良く整列した排気筒の先端も、いまは水に濡れてやわらかな光沢を帯びていた。これからさっきよりもさらに卑猥な行為に耽ろうというのに、その姿はあまりにも神々しく、ふたたび足元に跪いて、今度は慈悲を請いたくなってしまう。
俺が本当にあなたを愛してもいいのですかと、泣きながら問いたいような衝動に揺さぶられる。
そんなことを聞いてしまったが最後、穏やかに心配され、心配が終われば轟のいいところを最低でも百個、微に入り細に入り並べ立てられ、理解するまで寝かせてもらえないような溺愛が待っているだろう。だから、聞くつもりなど最初から当然ない。
飯田の隣にいる自信が、あるのかないのか。はずみで勝手にパートナー宣言をしてしまったことを釈明できていないから、後ろめたくなっているのかもしれない。
「どうしたんだい?」
「綺麗だ、飯田」
ありとあらゆる思いをその一言に凝縮して伝えると、飯田が口の端を上げて無邪気に笑う。
「君こそ、とても綺麗だ。おいで、轟くん。下着は脱ぐんだよ」
誰が誰を抱くのだったか、と一瞬思考が錯綜するが、いまのところこの役割を譲る気はない。特にいまは絶対に無理だ。
ミスト状のシャワーを出しっぱなしにしたまま、飯田は壁の手すりに手をついて尻をわずかに突き出した。そこに手を伸ばす前に轟は飯田にキスをし、あることを頼んでみる。
「後ろ、舐めて解したらダメか?」
「それはダメだ」
これは、本気で嫌がっているのだとわかる。
「意地悪じゃない。ここはアメリカなんだ。必要以上に危険なことをして何かあった時、医療費が大変なことになる。君も保険に加入しているだろうが、リスクはなるべく回避するべきだ」
煽情的な格好でまじめに告げられた理由にも納得できるから、轟も引き下がる。
「じゃあ、帰国したらやる」
「あれ、結構恥ずかしいんだぞ」
そう文句を言いつつも、飯田が妥協案を却下することはなかった。セックスにおいても変わらず知識に貪欲で、慎重でありながらも積極的で物怖じしない飯田が、持ちかけるたびに必ず一度は渋ってみせるその行為。それに執着したくないのに、たまに必要以上に押したくなるのが少し嫌になる。
それが表情に出てしまっていたのか、飯田に手を取られ、むっちりとした尻の間に誘導される。
「そんなに残念がらなくても」
そう笑う飯田にそれ以上は説明せず、リューブのキャップを開け、窄まりにあてがわれた指に纏わせて撫ではじめる。舐めたい。一度そう火がついてしまったせいで、舌の動きを真似るように中指でとんとんと叩くようにつつき、ちゅぷちゅぷと指先をめり込ませ拡げていく。しばらく間が空いたが、まだかなりやわらかい。まさか、やわらかく保っていたのだろうか。ん、と心地よさそうに飯田が声を漏らす。舐めたい。執着を散らすために、背中の筋肉の線に舌を這わせ、唇で軽く啄む。
痕はつけないよう、慎重に。
「よっぽどだな?」
「譲る気はねえんだろ」
見抜かれて、轟は思いがけず拗ねた声を出してしまった。
「ん……悪いけど、ないよ」
苦笑混じりに返される。その信頼が温かい。
うなじにやんわりと歯を立てながら皺を緩めるようにマッサージを続けると、物欲しそうに腰がひくりと突き出された。抱きしめたくなる。でも、そうしてしまうと望むところへはなかなか進めないだろう。思い切って滑り込ませた指が、すんなりと呑み込まれていった。ぐるりと回せば、思ったよりも抵抗がない。
「なあ、自分でしてたのか?」
「多少維持する程度には、任務に支障もない、かと、ぁ……んっ」
指への熱い締めつけと飯田のなんてことはないといった調子の告白に股間が重くなり、反動で頭はくらりと軽くなる。
「おまえ、忍耐力すげえな」
「そう、でも、な……っ、あぁっ、轟くん、指、増やして」
一度引き抜いて、望まれるままに二本の指を突き立てる。盛り上がった背中の筋肉がため息とともに震えた。馴染ませる間、迷いつつも空いた方の手を胸へと伸ばす。弛緩してふわふわとやわらかい胸筋は、どこまでも指が沈んでいきそうで少し怖い。早くも隆起している乳首をかりかりと指先で弾くと、飯田が身をよじった。
「ナカ、きゅうきゅうしてる」
「う、ん……胸、もっとしてほしい」
ほわほわとねだられ、指の腹で突起を転がしたり摘んだりしながら、後ろも押し拡げていく。あ、あ、とまだ抑え気味な喘ぎ声がシャワーブースにふわりと反響した。ナカの弾力のある部位を探り当てると、その声がいっそう甘くなる。だけど、あまり早くから触っていると、最終的に泣かせてしまうことになるから今のところは避けたい。最初にそうなった時、泣くほどよかった、うれしかったのだと飯田本人は言っていた。その気持ちは、初めて繋がった時に少し泣いてしまった轟にも少しはわかる。それに、飯田の体力的にも問題はなかった。なのに、轟は後から気分が悪くなってしまったのだ。
唇で吸いついて皮膚に痕をつけるのも、うっかり強く掴みすぎて指先の痕が残るのも、轟は苦手だった。正常位で見下ろすのも、行為の終盤の、頭が煮えて煮えて何も考えられなくなるまではできない。征服欲、支配欲というものなのだろうか。その名がなんであれ、そんなものが自分の中に居座っているかと思うと耐え難いものがある。飯田は違うと言ってくれた。飯田の言葉なら信じたい。それでも身体がついていかないことがある。
ただ、やさしくありたいだけなのに。バカになってふたりで転げ回りたいだけなのに。
「飯田」
背中をひねって顔を向けてくれた飯田の唇をやさしく喰む。
「轟くん、……っ、ふ……きみ、やっぱりなにか、話したいことが、っ、あるんじゃないか?」
指を突っ込まれたまま、息を乱しながら飯田が訊ねる。顔を引き寄せられ、こてん、と額に額がぶつけられた。
かわいい、と一瞬思うが、集中できていなかったのがバレてしまったのだろう。なら、話してしまったほうがいい。
「……謝りてぇことが、あるんだ」
「うん? 俺は特に覚えはないが」
指を引き抜くと、飯田が轟の方に向き直る。
「続けながら話してもいいか?」
飯田が頷くと、轟は半分勃っているモノには触らず、陰嚢を軽く揉んでから、手を後ろに滑り込ませた。あてがった手のひらの親指の下の膨らみが会陰を押すと、飯田が悩ましげに息を漏らし、眉をひそめる。指を三本挿れて、馴染むのを待つ。重たい吐息とは裏腹に、瞳はまだ蕩けていない。
「今回の派遣初日のことなんだが」
「ずいぶんと遡るな」
「……アイツ、いただろ。カナダの」
初日に飯田を口説いていたヒーローの名前を挙げる。〝個性〟の相性の関係で一緒の班になることはあまりなかったけれど、地元カナダの名門大学のヒーロー科を主席で出たばかりの、ふつうに話してみれば爽やかで気のいい奴だった。この辺りでゴムを買うなら大手のドラッグストアよりも通りを一本超えたところのアダルトショップのほうが安くて品揃えがいいのだとか、その隣の美味いタコス屋はスペイン語しか通じないから話せないなら翻訳アプリを使うといいなんてことも教えてくれたりもした。飯田との関係を主張して私情で威嚇する必要なんて、きっとなかった。
「俺があいつに言ったこと覚えてるか? その、後から気づいたんだが、俺は、おまえのこと、勝手に、こ、こい」
恋人、とどうしても発音できなくて、言葉を呑み込んでしまう。
「……気にしてたんだな、君は」
濡れた手が轟の前髪をかきあげ、項垂れた額に唇が触れる。後ろの肉が、きゅう、と轟の指を締めつけた。
「的確な判断だったよ。北米は日本と比べてパートナー文化が根強い。去年よりも長期の派遣だったし、俺たちの内情はともかく、決まった相手がいると思わせておくほうが何かと楽だったのは確かだ。俺も性的なことは君としかしたくないから、完全に嘘というわけでもないしな! むしろ、俺のほうこそ、どう断れば失礼にならないかとまごついていたばっかりに、君に言いたくないことを言わせてしまった」
「わかってたのか、そういう意味で誘われてるって」
驚いて訊ねてしまうと、飯田が顔を赤くした。
「君ねえ! 俺だって、いつまでもウブなネンネじゃないんだよ! 見くびらないでもらいたい!」
予想外の語彙に、んぐ、と喉が詰まった。すっかり慣れた調子で尻の穴に指を突っ込まれて性器を受け入れようとしている時点で、確かにまったくもって『ネンネ』ではない。どれほど卑猥なことをしていても、初心というかどこか純粋さや清潔感が残るのは確かだけれども。これが清純派というやつなのだろうか。昔教えられて使う機会のなかった言葉を反芻する。
「……わかってる」
指を広げて動かすと、飯田が、はぅ、と深く息をつく。
「ん……でも、守ろうとしてくれてありがとう。わかっていたのに、お礼を伝えるのが遅れてしまって悪かったよ」
もう一度額にキスが落とされ、今度は長く留まる。少し屈んでいるせいで、いつもよりも身長差を感じてこそばゆい。
——ああ、でも礼を言われるような心掛けじゃなかったんだ、本当は。
視界が少しぼやけ、まぶたの裏が熱くなる。
「轟くん!? どこか痛いところでもあるのか!?」
太い指に目元を拭われ、視界が晴れた。そこでようやく泣いていたことに気づく。
「痛えくらいじゃ泣かねェ」
そう訴えているうちにも、涙がぼろぼろとこぼれて止まらない。おろおろと名前を呼ばれ、抱き寄せられるままに肩に額を預ける。それでも飯田の中に入っていたくて、入りたくて、指を抜かずに動かしてしまう。飯田は声を我慢しているけれどひくひくと震えはじめている。触れているだけでおかしくなりそうだ。
「と、轟くん、ちょっと……あっ、あ! 君、さっきのラウンジで何をどれくらい飲んだ?」
飯田が声を上擦らせて訊ねた。轟は指をいったん止めて考える。
「……苺のでかいやつ、二杯だ。冷たくてうまかった。おまえにもひと口飲ませただろ」
「そうだ、あの金魚鉢の! あれ、相当強かったぞ? いつの間に二杯も……それでさっきから情緒がおかしくなってるんじゃないか?」
「そうなのか」
名前は知らなかったが、しゃりしゃりと凍って冷たいのに甘くて喉にカッとくるのが面白かったのは覚えている。いつもよりたくさん喋って、喉が渇いていたことも。グラスは金魚鉢ほどには大きくはなかったと思うけれど。
「それで、さっきからひとりでにまにまとうれしそうだったり、急に難しい顔をしていたりと、なかなかの百面相だったんだな。振り向いて見ていても気がつかないし」
上気させた頬に苦笑を浮かべ、飯田は思いもよらないことを言い出した。
「……そういうのは教えてくれ。恥ずかしいだろ」
「君が可愛くて、つい放置してしまったんだ。ごめん」
自覚はまるでなかった。最近でこそ考えていることが顔に出ているとたまに言われるようにもなったが、轟は表情が乏しい自覚がある。だが、どういうわけか飯田にはずっと違うものが見えているらしい。それでも、これが酒のせいなら、納得できる理由ではあるけれどなかなか情けないことだ。へなへなと脱力して、飯田にさらに体重をかけてしまう。
「君は酔ってもあまり顔に出ない上に、その気になればいくらでも飲めてしまうからな。言動だって、眠い時のほうがよほど怪しい。だが、今日はさすがにお疲れだったのだろう」
とんとん、と背中をさすられて、ちゅ、ともう一度、今度は耳の端にキスをされる。
「続きはまた今度にするかい?」
「いやだ」
轟が即答すると、くく、と飯田が喉で笑って、肉の輪がゆっくりと轟の指を締めつけた。
「じゃあ、平気そうなら続けよう」
「余裕だな」
「さっき君に一度イかせてもらったから。そうじゃなかったら、とっくに挿れてほしいと泣きを入れてたよ」
「それは困る。泣かせたくねえ」
「なら、押し倒して乗っかってた」
そんなことを言われてしまったら、もう一度舐めしゃぶりたくなってしまう。だけど、いまは別の目的がある。首にキスをし、頸動脈に沿って甘噛みしながら下降していく。首筋にくっきりと浮いた筋をやんわりと齧るとまた締まる。今度はきっとわざとじゃない。
「んっ……ずっと聞きたかったんだが、君、本当に動脈や……ふ、ぅ……肝臓辺り、とか、傷痕とか、好きだ、な、っ」
ねだられたと解釈し、肩の古い刺し傷とその上に残った手術痕に舌を這わせると、背中に回された手に力がこもる。
「他のところよりあったけぇから」
「気のせいじゃないのか」
「おまえも感じてくれるだろ」
「はは、違いない」
身体をかがめ、唇で片側の乳首を挟み潰してから音を立てて離すと、わかりやすく腰が揺れた。
「そろそろ前立腺のところもちゃんと触るぞ」
「うん、頼んだよ」
舌で飯田の乳首を転がしながら、尻の中でぐちゅぐちゅとリューブをかき混ぜる。さっきよりもはっきりと膨らんだしこりを指先で引っ掛け、やさしく捏ねるように叩くと飯田の身体がびくんと強張り、すぐに力が抜けた。
「あ、っ……あぁ、気持ちいい、轟くん、『うれしい』、よっ……」
返事代わりに指先で前立腺を挟んですりすりと潰すように撫でると、声を出すのが間に合わなかったかのような、鋭く細い喘ぎ声が頭上から降り注ぐ。吸っているのとは反対の胸に手を伸ばし、やわらかさを堪能するように撫で回せば、飯田の腰がずり下がって逃げようとする。
こんなところで逃げられるわけがないのに。
「危ねえから、じっとしててくれ」
「あ、あっ、ごめん……きもち、よく、てっ……」
謝らせたかったわけじゃない。顔をあげてキスをねだれば、かぱりと大きな口を開けてかぶりつかれる。そのまま喰われてしまいたい。飯田の手がふたりの間に割って入り、轟の股間へと伸びていく。性急な動きで張り詰めた先端を捏ねられ、うぅ、と唸ると、分厚い手に包まれ、扱かれる。
たまらなくなって、轟はキスを振り解いてしまった。
「っ、ふぅ……たくさん、待たせたね」
飯田が息を弾ませたまま、轟の勃起をよしよしと褒めるように撫でる。どことなく倒錯めいたものを感じるけれど、飯田に他意はないはずだ。
「俺も、途中で変なことになって悪かった」
「構わないさ」
指を抜くと、あ、と喪失感を訴えるような声に引き止められるけれど、もう我慢の限界だった。
「もう挿れていいか」
「今すぐここでくれるなら」
なんという殺し文句だろう。股間が期待でじんじんと痛い。汚れた手をボディソープで急いで洗ってからコンドームを着けて上からリューブをまぶすと、飯田が片膝を掴み脚を上げた。それはしばらく見ていたいほどぴしりと安定した見事な開脚で、聳り立つモノも力強く生命力を漲らせていた。一瞬目的を忘れそうになる。
「……姿勢いいな」
「ありがとう」
嫣然と笑う飯田を手すりを避けてシャワーブースの壁にそっと押しつけ、轟はいまにもはち切れそうなほどに勃起した陰茎の先端をやわく解れた穴にあてがった。
素早くキスをしてから、念を押す。
「痛かったりつらかったりしたらすぐに言えよ」
「わかってる」
腰を掴んでゆっくりと押し入る。はぁ、と期待の混じるため息とともに飯田の眉間がきゅっと寄せられ、眉尻がうれしそうに下がる。掲げていた脚を腕に預けるように促すと、硬い排気筒の先端がやんわりと上腕にめり込む。
「っ、はは、久しぶりだけど、君の形はちゃんと身体が覚えてた」
「よかった。飯田のナカ、熱ぃ。『うれしい』」
「俺も『うれしい』よ、轟くん。もっと奥まできてくれ」
「焦んなって」
みちみちと分け入り、小さく揺らしながら飯田の深いところを目指していく。イイところを通りざまに潰すと、苦しさを逃すように漏れていた声が甘いせつなさを帯びる。いつもとは違う厚めのゴム越しなのに、熱くて熱くてたまらない。ただの性的興奮でそう感じるのだとわかっているけれど、凄まじい高温を自ら放出するはずの己の身体が、飯田に触れているところからどろどろに溶かされてしまいそうだ。
やがて、この体位では限界のところまでたどり着いて、ふたり同時に息をついた。
「入った」
「動けるかい?」
「もう少し待ってろ」
喉仏を甘噛みすると、「また急所じゃないか」と笑われて、うなじの髪を軽く引っ張られる。上を向くと、飯田が唇を薄く開いて、お預けを食らった犬のようにじっと待っていた。
「キスしてぇのか? ナカ、きつくなるぞ」
「いいから」
飯田の身体をさらに折りたたみ、しっかりと尻を掴み直す。唇を軽く触れ合わせると、もっと、と吐息だけでせがまれ、轟は遠慮なく噛みついた。
「んっ……っふ、ぅう……」
貪るようなキスとともに陰茎がさっきよりも深く呑み込まれる。動くぞ、と伝えられないまま腰が揺れはじめると、飯田が笑った気がした。
「俺こそ、すげえ待たせちまってたんだな」
「っ、ふふ……君と話す、のも、っ……すき、うれし、んっ……だいじ、だから、いぃ、あぁッ、」
喘ぎながら仰け反る喉にまたかぶりつくとナカがうねり、理性をぐらぐらと揺さぶった。腕に預けられた脚が跳ね、エンジン基部の硬いところが耳の端を掠める。
ぶろろ、と軽く唸る振動音。珍しいこともあるものだ、と脹脛を捕まえ抱き寄せると、もうかなり熱くなっている。轟は皮膚と筋肉に覆われた内燃機関に頬ずりをしながら、大きく腰を引いて前立腺を狙って突き上げた。飯田が喘ぎながら、いやいやと首を振る。
「やっ、やあっ、そこ、脚っ、熱い、からぁっ」
「耐性、あんのっ……しって、ん、だろっ」
轟は露出した排気筒をひとつ、口淫をするように咥えた。筒の中をぐるりと舐め回すと、焦げたオレンジの甘苦さが鼻に抜け、差し込んだ舌先がチリッと炙られる。ふぁあ、と甘い叫び声が壁に反響し、飯田の膝がかくんと折れてすぐに立て直された。
「ベッド行くか?」
飯田がふるふると頭を振る。
「じゃあ、そっちの脚もあげような」
濡れた太ももの裏に手を滑らせると、素直に預けられる。揺すりながらもう片方の脚も腕に乗せると、上腕にビリッと灼けつく痛みが走った。
「と、とどろき、くんっ、うで、がっ」
「平気だ。続けるぞ」
かぷかぷと僧帽筋の盛り上がりをかじりながらふたたび尻を掴み直し、繋がっているところに指先を這わせる。奥まで突き入れ行き止まりをノックしながら広がった穴の縁をそろそろと撫でると、飯田が甲高く喘ぎ、跳ね上げられた脹脛がまたゴロゴロと音を立てる。脚を乗せた腕が熱くて、離さないといけないのに止めたくない。気持ちよくて、止まりたくない。もう少し、もう少しだけ深く入り込みたい。
達しそうになり、ぐ、と歯を食いしばる。だが、そこで飯田に止められた。
「あ、あし、あしっ、おろし、て」
「腰まででいいか?」
うん、と大きく深呼吸をしながら頷く飯田の脚を一本ずつ腰に巻きつかせる。エンジン部分はまだ熱いが、轟が動くのをやめたのと、シャワーのぬるいミストがかかっているおかげで少しずつ冷まされているようだ。
「ごめんな。奥、怖かったか」
しがみつく腕と脚がぎゅうっと狭められ、急に動きを止めても萎えない屹立を包むぬかるみまでさらに抱きしめるように絡みつく。湿った肌が吸いつきあって、今度は腰にまだ熱い排気筒が沈み込んだ。全身で痛いほどに飯田を感じる。
「怖くは、ないんだが……いや、気持ちよすぎて、君を蹴飛ばしてしまいそうで怖かった」
「わかった。じゃあ、脚はこっちだな。それならおまえが暴れてもそこまで危なくねえだろ」
掠れかけた声で恥ずかしそうに白状した飯田の太ももをさすり、ゆっくりとやさしくキスをしながら息を整える。
「舌が灼けたんじゃないか」
「おまえの熱なら『うれしい』」
まったくもう、とふくれる唇をもう一度奪ってから伝える。
「そろそろ一回イきてえ。おまえは? イけそうか?」
軽く揺らしながら張り詰めた陰茎をまさぐると、それは待ち侘びていたかのようにぶるりと震え、先端に触れればぬるついたものがとろとろと溢れてくる。
「たぶん。コンドームは違うのに替えなくて平気かい? いつもより長く保っているようだが」
「このままでいい。離れたくねえ」
飯田が壁の反動を使って、腰で轟を押し返す。ならばさっさと動け、という催促だ。両手で飯田を抱え直してから腰を引き、勢いよく叩きつける。ばちゅん、と下品な音を皮切りに、轟は容赦なく突き上げはじめた。飯田の甘い啼き声が徐々に濁っていき、轟は名前を呼ぶ合間にたまらず舌なめずりをしてしまう。飯田もそれを見逃したりはしない。
「とっ、とどろ、きくん、ッ、きす、して、ん゛っぅ」
求められるままに喰らいつくと、咥内も犯してくれと言わんばかりに舌が引き込まれ、すぐに限界が訪れる。唇を離し、短く伝えた。
「わり、イく」
情欲で濡れきった瞳に、まっすぐな慈愛の色が宿った。
正真正銘のえげつないセックスをしているくせに、飯田天哉という男はこうなのだ。
轟は飯田の腰を捕まえて、限界まで突き入れ揺さぶった。ひときわ強い締めつけと獣のような咆哮に導かれ、弾けた欲が一気に迸る。
「く、ッ……いいだ、ァッ……」
「とどろきくん、とどろきくん、きもちいぃ、よ、うれしい、よぉ……声、うるさ、くって、すまな、ぃ……」
こんな時にもあれこれと必死に伝えようとするのがいじらしくて、最後まで出し切るために腰を振りながら、轟は飯田の肌の届くところすべてに唇を落とす。飯田は声を抑えて喘ぎながら、蕩けるように身をよじってそれを受け止めていた。
そして、しばらくそのまま抱き合って、ようやく息が整ったところで、轟は精液でぬるつく飯田の下腹を撫でた。
「こっちでもイけたな。平気か?」
「うん、轟くん、っふ……はは、好きだよ」
「俺も、好きだ」
飯田、と囁くと、うなじにしがみついていた手が轟の髪をくしゃくしゃと乱した。お返しに、飯田の髪を解いて指をくぐらせる。刈り上げは何日おきかに自分で整えていたようだが、伸ばした部分は完全に耳の下まで到達していた。帰国したら切らないと、と一昨日あたりに言っていたけれど、もったいない気もする。少しでも飯田が減るのが嫌だ。
「そろそろ下ろしてくれるかい? 色々と洗い流して、君とゆっくり過ごしたい」
「まだゆっくりさせてやれねぇかも」
全然足りていない。無理強いするつもりは当然ないけれど、できることならまだ触れ合っていたい。轟が腰に巻きついていた脚を下ろしてやりながら正直に伝えると、飯田は危なげなくしっかりとシャワーブースのタイルを踏み締め、いつもの実直で爽やかな笑顔で言い切った。
「もちろん、それも織り込み済みだよ」
会見の翌日、二週間のオフ初日の午後。轟は飯田とともに郊外にある研究所のキャンパスに来ていた。指定された時間までまだ三十分は優にあったが、待ち合わせ場所の所員向けのカフェテリアや売店などが集まるエリアに差し掛かったところで、合流予定の相手がベンチでコーヒーを片手にどっかりと尊大に寛いでいるのを見つけた。
「早えな」
声をかける前に短く言い切られる。機嫌はなかなか良さそうだ。
「元気そうだな、爆豪くん! 昨日までイリノイだったんだろう? 合流できるとは思っていなかったから、とてもうれしいよ」
大きな手振りで再会を喜ぶ飯田に、爆豪が不敵な笑みを見せた。
「おう。あの程度のヴィラン退治、秒で片してきたわ」
秒で、と言うが、今朝の国際ニュースによると、とある日系企業と現地警察とマフィアの三つ巴の癒着、そして〝個性〟増強薬および武器の密造現場に切り込む、かなりの繊細さを要するミッションだったはずだ。轟たちと合流するという連絡は昨日のうちに入っていたが、ベストジーニストと元サイドキックの爆豪を中心に組まれたチームの活躍については、ニュースで取り上げられているのを見て初めて知った。
「ベストジーニストたちはどうしたんだい?」
「事後処理で残っとる。慰労会やら偉いさんたちのパーティーやらに巻き込まれる前に行けって言うから、エンリョなくトンズラしてきたわ」
「逃がしてもらえたのか。よかったな」
「逃げてねェわ。いてもしょうがねえだろ。うさぎヤローにも絡まれるしよ」
そう言いつつも、爆豪は本当に機嫌がよさそうにニヤリと笑みを返した。驚いて、轟は訊ねた。
「他にも何かあったのか?」
「メールくらい見とけや、相変わらずボケッとしやがって」
聞き慣れた悪態に飯田がガバッと頭を下げた。綺麗な直角から発せられた声がコンクリートに反響する。
「すまない! 実は俺も今朝の分は緊急性の高いもの以外は見ていないんだ! 午前は予定を入れてあったから」
顔をあげた飯田がタブレット端末をカバンから取り出して操作する間、爆豪に、ア? と続きを促され、轟は説明する。
「今日から休みだから、観光してきたんだ。来る途中に美術館に行ったらヤギがいたぞ」
長話を嫌う爆豪に合わせて簡潔に話せば、怪訝そうに睨まれた。
「てめェの説明はクソだ。おい、飯田?」
早々に轟との対話を投げ出した爆豪が、メールに目を通していた飯田に話を振る。
「ん? ああ、さっき寄った美術館の話か。なんでも、切り立った山の中腹にあるせいで、なかなか上の方まで人の手を入れられないのだそうだ。それで、夏季はヤギを放牧して植生を食べさせることで伸びすぎないように保っていて、夏が終われば山から降ろして牧場へと移送されるんだが、ちょうど連れてこられていたヤギの群れに遭遇したんだよ」
「メェメェ鳴いてて可愛かったんだ。いいところに居合わせたよな」
スマホを差し出して写真を見せる。一瞥、そして無遠慮に鳴らされる鼻の音。
「幼稚園児か」
「お、確かに幼稚園児と引率の先生みてえだな」
だが、ンァ、と唸られた理由を尋ねる前に、今回の訪問の目的である人物が、ポゴスティックのようなもので大きな弧を描きながら轟たちのほうへと向かって跳んできた。
「お待たせー! 早かったわね!」
にこやかに迎えてくれる彼女こそが、オールマイトが最終決戦で着用したアーマードスーツ、そして現在、極秘に製作を進めているスーツの共同開発者のひとり、メリッサ・シールドだった。
「……発目さんが設計したスラスターの、正方向と逆向きの噴射を組み合わせて〝浮遊〟の機動性を改良したんだけど、現状のシミュレーション上だと〝シュートスタイル〟との相性がイマイチなの。デクくんに最初に蹴りを伝授したのがインゲニウム、飯田くんなんだよね? マイトおじさまから聞いてるわ。それで、よかったらこっちでもいくつか素材別にデータと映像をとらせてほしいのだけど、これが前回の爆豪くんのデータで、回転時の軸補正と方向転換時の逆方向への補正が……」
メリッサ・シールドが拠点を南カリフォルニアに移した理由の一つは、このプロジェクトのためだった。かつて轟たちも巻き込まれた事件の現場であったI・アイランドを出た後は別の研究機関に身を寄せていたそうだが、自身の研究室とチームがあったほうが動きやすいと決断してくれたのだと聞いている。
日本との時差が一定で、超常以前から根強く残る個人主義ゆえの車社会らしく公共交通機関網は乏しいが、空港からのアクセスは悪くない。実際、爆豪とオールマイトは昨年末に第一目標額を達成してから、忙しい合間を縫ってすでに何度か足を運んでいるということだった。
最初は施設の見学だけの予定だったが、爆豪がメールで書いていたとおり、予定よりも早く出来上がった改良型プロトタイプの性能テストのために来ているのだと知り、話は自然と開発の進捗に関するものに移っていた。ラボの中心に空間投影された3D画像をくるくると回し、次々と表示されるパーツを組み換えていきながら説明するメリッサに爆豪が補足する。
「俺は実戦じゃ足技らしい足技はほとんど使わねーからな。できねえワケじゃねぇが、餅は餅屋ってこった」
爆豪は右腕が使えなかった頃に、身体作りも兼ねて蹴り技にも凝っていた時期があった。まさか、その頃からこの計画を見据えて練習していたというのだろうか?
データテスト用のスーツに着替えるために入ったロッカールームでそれを尋ねると、ギロリと凄まれてから、「逆だ逆。残ったほうの腕に負荷かけねぇ立ち回りが先だ」と思いのほか静かに教えられた。
「照れてるのか、爆豪」
「キメェこと言うんじゃねえ!」
張り上げた声がぐわんと反響するが、それを咎める飯田はここにはいない。テスト内容の打ち合わせをするためにまだメリッサのラボに残っているのだ。
爆豪とともに先に着替えにきたのは、轟もせっかくだからとサブパーツの耐極低温および耐熱性試験に参加することになったからだ。メリッサ曰く、『完成したら轟くんも一緒に仕事することあるんでしょ?』ということだ。ごく当たり前に想定していたことだったが、改めて告げられると実感が高まって、そわそわと気持ちが弾んでくる。
マフィアの一件で芋蔓式に他のヴィランも複数逮捕、中でもかなりの高額の懸賞金が掛けられていたヴィランを単独で確保した爆豪のおかげで、開発はまた大幅に前進することになる。
製作の実作業は、絶対にメリッサと日本側での開発責任者である発目の持ち出しにならないよう、細かく設定した目標額を達成してから段階を踏んで進めてもらっていた。今回の爆豪の報酬についても、税金対策と慣習で懸賞金の一部を現地の小児科病院に寄付してきたということだったが、それでも工期はかなり短縮される。もちろん、轟たちの災害派遣報酬も見劣りはしない。先のメールによると、他の元A組のみんなの出資額とも合わせれば、『できれば二十代のうちに』というキックオフ時の目標が『今から三年以内には渡せる見込み』に到達するそうだ。
「轟、腕どうしたんだ」
ふわふわと未来を思い描いていた轟の意識は、爆豪の低く凄む声で現実に引き戻された。指差されているのは、一昨日の晩の名残だ。ほぼ治っていたし、半袖でも隠れるからと、保護シートを貼らずにいたのだ。シャツを脱ぐまでほとんど忘れていたが、確かにまだ赤みが目立っている。
「冷やすのが間に合わなかった」
嘘ではなかった。あの後また盛り上がってしまって、寝る直前に飯田に気づかれおろおろと謝られながらこんこんと説教をされるという大変珍しい経験をしたばかりなのだが、そこまで馬鹿正直に教えたりはしない。聞かされても困るだろうという判断くらいは、一応できているつもりだ。
「おまえが火傷残すたァ、よっぽどじゃねえか。稼ぐために無理してンじゃねえだろうな? 全員でやるっつった意味、忘れてねえよな? てめェらに何かあったら、オールマイトを慰めンのは俺なんだよ」
そんなことをしていたのか、と憧れの人に頼られているのを少し羨ましく思うが、それを言ってしまっては火に油を注ぐだけだろう。轟にもようやく最近わかるようになってきた。
「下手打っただけだ。心配するな」
話しながらシャツをロッカーに突っ込み、下も脱ぐために轟は爆豪に一瞬背を向けた。
「してねーわ、バァカ! 気ィ抜いてんな、よ……」
爆豪の語尾が不可解さを滲ませ消えていく。そして、何事かと尋ねようとする前に、轟は激しく詰め寄られていた。
「オイ、腰ンとこのそれはなんだ? 何をどうすりゃそんな火傷が並んで残るんだ? マジでどこか調子崩してんじゃねェだろな」
あ、とひしゃげた声が出る。顔から血の気が引き、左側のこめかみが一瞬ぶわりと発火する。
「ア!? 何しとンだてめェは、スプリンクラー作動させてえのか!?」
爆豪の怒鳴り声に我に返り、轟は慌てて弁解をする。
「今日は着替える予定なかった、から」
「は?」
空気がすべて消えたかと錯覚するほどの長く冷たい沈黙を挟んでから、「くっだらねえ」と爆豪が皮肉げな、笑みと言うには凶暴な顔で吐き捨てた。
「そォいうコトかよ、焦らせやがって。だがよ、隠すならちゃんとしてやれ。あからさまなのは飯田も嫌がるだろ」
「え」
「しっかし、おまえもこっち側かと思っとったら一丁前に相手見つけやがってたか」
着替えを再開した横顔はしかめ面だが、特段の悪感情があるというわけでもなさそうだ。わずかな諦めのようなものが見えるのは錯覚だろうか。諦めなど、爆豪とはもっとも無縁の言葉だ。だから、きっとなんでもないのだろうと踏んで、轟はわからなかったことを訊ねた。
「こっち側ってなんだ?」
「レンアイしねえ奴」
淡々と、らしくない調子だ。言葉をろくに返せない。
「ま、オツキアイとやらの最初は誰だって浮かれるらしいかんな。内緒にしてぇなら、周りの目くらい気にしとけよ、有名人」
だが、そう言われすぐさま否定してしまう。
「付き合ってる、わけじゃねえ」
「ァア?」
「……飯田は、ずっと俺に合わせてくれてる。俺にもうまく説明はできねェんだが、そうなった」
爆豪が思案げに眉をひそめる。
「割り切っとる……のとは違うか。アイツに限ってそれはねェよな。いつからだ」
「二年前。隠してて悪かった」
爆豪が、ハンッ、と鼻で笑う。
「聞かされても困ンだわ」
「だよな」
「……出久も知らねえのか」
「話しても困るだろ、それこそ。飯田と好き同士で、互いにわかってて大事にしてて、ヤることヤッてるけど付き合ってねえ、とか言われても、何を聞かされたんだ、ってならねえか」
バン、と大きな音がしてロッカーが閉められる。爆豪はいつの間にか着替え終わっていた。上下のぴたりとしたトラックスーツにはセンサーと記録媒体が内蔵されていて、着用者の〝個性〟や形質、取りたいデータによって形状を変化させることもできる。爆豪は軽く屈伸をして使用感を確かめてから、ブーツの紐を結び直しつつ轟に話しかけた。
「出久には話してやれよ」
静かな、気遣うような声だった。見事な秋晴れの南カリフォルニアに、今すぐどかどかと大雪が降るんじゃないか。そんな不謹慎なことが頭をよぎりつつも、轟は続きを待った。
「変にバレてからのが面倒くせぇぞ。……出久に言いたくねえなら、麗日、蛙吹あたりでもいい。飯田のこともわかってて、変に茶化したりしねえ奴にしろ」
「なんでだ」
こうも踏み込んでくるなんて、らしくない。轟が眉根を寄せると、爆豪はチッと大きく舌打ちをした。
「今日の俺は機嫌がすこぶるイイからな。親切に教えてやってンだ。おまえは仕事以外のことは抜けてやがるし、飯田は正義感で突っ走る。何年か前に撮られてたの忘れてねえかんな。いつか絶ッ対ェにボロが出る。足元掬われてダセェことになる前に、味方を、相談先を確保しとけ。理解されねェことしてる自覚があンなら尚更だ」
妙に熱の入った言い方に、もしかすると経験則からそう言っているのだろうかと轟は首を傾げる。だが、それを尋ねる前に爆豪が、話は終わりだ、とばかりに立ち上がった。だから、ひとつだけ聞いておくことにした。
「おまえでもいいのか、相談先」
「俺一人に集中させんなって話だ。わかれや」
唸り声とともに爆豪の掌からバチバチと火花があがった。
「爆豪、スプリンクラーが作動しちまう」
「うっせ、てめェが言うな」
罵声を浴びせられながら、遅れて気づく。味方として勘定するなとは言われていない。少なからずホッとして轟は緊張を緩めた。
「……そだな。ありがとう、爆豪」
だが、轟が礼を言うと、ドカドカと足音を立てて爆豪は出て行ってしまった。
立っているのが急にひどく億劫になって、轟はベンチにごろりと寝転がった。ひんやりとした感触に、シャツを脱いでしまっていたことを思い出す。いかにもアメリカらしい無漂白の粗雑なペーパータオルと業務用洗剤の人工的な柑橘の香りが混ざったにおいが漂う中、分厚いペンキの塗られた天井をぼんやりと眺める。ぺっかりと光を反射しているから白かと思ったら、よく見れば少し水色がかっているようだ。
……不注意で爆豪に飯田との関係が知られてしまった。悪い結果にはならなかったけれど、飯田には話さないといけない。爆豪に言われたことについてもどうするか相談したい。気が重いけれど、頭は不思議と晴れている。はぁ、と轟が曖昧に息をついたところで、ロッカールームのドアが開いた。
「轟くん、遅いじゃないか! ……って、大丈夫か? さっき爆豪くんとすれ違ったが、何かあったのかい?」
「おまえこそ、何か言われなかったか」
「いや、いつもどおりの爆豪くんだったが」
のろのろと起き上がり、早歩きで寄ってきた飯田に抱きつくと、背中をがっしりと支えられる。
「どうしたんだ?」
「ごめん。お前とのこと、爆豪にバレた。腕と腰の火傷で」
す、と飯田が小さく息を吸い込んだ。
「隠しときゃよかったな。右側でもどうせすぐに治って消えるし、帰国までにはなんとかなるからって放置してた。悪い」
そんなつもりもなかったのに、声が震える。
「元はといえば俺の過失だ。それにしても、爆豪くんは名探偵だな。そんなことでわかるだなんて」
「俺がツッコまれて動揺しちまったんだ」
「そうだったのか」
飯田はどこまでも温かく、冷静だった。
ゆったりとした呼吸に合わせて息を整えてみると「上手だよ」と褒められ、こそばゆい。背中に当てられた手のひらからやわらかな熱が伝わり、身体を満たしていった。あー、と唸りながら息を吐き出して、改めて言葉にしてみる。
「……でも、少しホッとしてる。誰かにちゃんと知ってもらいたかったんだと思う」
「そんなに詳しく説明したのか」
わずかに驚いた声に、轟は観念して白状した。
「ああ。付き合ってるわけじゃねえってことと、飯田が俺に合わせてくれてるってことくらいしか言えてねぇが、わかってくれたと思う」
そう、と穏やかな相槌。
「勝手に話して悪かった。誤解してほしくなかったから」
そこまで話してから、やっと気づく。
「おまえは、そういうのねえのか? 誰かにただ知っていてほしいとか」
「あるよ。近しい友人たちには話せたらいいのに、とずっと思っている」
飯田にしては珍しく簡潔な返事だった。
「……俺のせいで、緑谷にも言えてねえんだな」
「違うだろ、轟くん。どちらかと言うと、俺が押し通してしまったんだ。君に合わせているというのも、俺はそうは思っていない」
背中に回された腕が離れ、飯田が轟の顔を覗き込む。
「爆豪には、味方を作っとけって言われた。どうせ俺らはいつかボロを出すからって」
「実際、簡単に看破されてしまっているからな。返す言葉もない」
きまりが悪そうに、まっすぐな眉がへにょりと歪められた。跳ねた眉尻の角度も心なしかゆるんでいる。
「帰国したら、緑谷くんには話そうか。会う予定も入れてあるから、ちょうどいい」
「……そうだな。あと、おまえが話してえなら、麗日と蛙吹にも。爆豪がこの辺りだろって言ってた」
「よく見ているね、彼は」
味方を、相談先を作っておく。自分では思いつけなかったことが少し悔しかったけれど、あの爆豪にも、きっとそういう意味で味方と思える誰かがいる。そんな口ぶりだった。
そして、轟は飯田に甘えられるが、飯田はこれまでどうだったのだろう。
「さみしい思いをさせたんじゃねえか」
「急にどうしたんだ」
「おまえに隠し事をさせて、誰にも相談できなくさせた。縛りたくなんかねえのに、そうやって囲い込んで、逆に俺だけのものにしようとしてたのかもしれねえ。そう思うと、怖くなった」
急に寒気がして、身体を震わせてしまった。そう、本当は気づきたくなかった。だけど、もっと早くに気づかないといけないことだった。
ぽすん、と手刀が頭に乗る。
「俺はそんなことを思ってはいない。それが悪くて恐ろしいことだというなら、俺だって君に同じことを強いていた。……でも、ありがとう。たくさん考えて、それを伝えてくれるのは君の美徳だ」
手刀が緩められ、こめかみを通り頬を撫でた。そのまま轟は引き寄せられ、鼻の頭に唇が触れる。許可は求められなかったけれど、構わなかった。飯田もわかってそうしている。
「さ、着替えよう。メリッサくんと爆豪くんを待たせているぞ」
手早く着替えてラボに戻ると、ちょうど爆豪の性能テストが始まったところだった。大きなガラス張りの窓から見下ろすと、実験場に巡らされた障害物コースを純粋な身体能力と機械性能のみで飛び跳ね回る爆豪の姿が見える。地面の爆発を躱してスラスターで滑空し、急旋回からの蹴りが転がってくる大木のようなものを次々と退け、進路とは離れた場所にまとめていく。
「なるほど、爆豪くんの意図しているように力が伝わっていないのか。姿勢制御設定の切り替えはボイスコマンドなのか?」
「オートにもできるけど、基本はそう。シミュレーション上では少し緩めてみたんだけど、それだと今度は威力が出ないから——」
「なるほど、反射神経についていけてないのかもしれないな。なら、神経フィードバックは——」
サポートアイテムに関する専門的な話は飯田のほうがずっと詳しい。置いていかれているのをいいことに、轟は爆豪がコースを完走するのをじっくりと観察した。かつての緑谷に似た動きだが、より貪欲でスピード感もある。完成前でこれなのか、と畏怖にも似た感情で轟は眼下の光景を見つめていた。
『次!』
威勢よく吼える声が頭上のスピーカーを震わせ、新たな地形が組み上げられていく。そして、十秒のカウントがゼロになった瞬間、爆豪はふたたび飛び出していた。
変わらないのに、変わった爆豪。飯田も昔よりさらに強く、出会った頃と比べたら見違えるほどしなやかになった。
自分はどうなのだろう、と轟はふと思う。そもそもヒーローとしてまだまだ途上だ。チャートの順位をどれほど上げても、父がこだわり続けたトップに君臨する日が仮に来たとしても、きっとそんなことで満足することはないだろう。満足するためにヒーローになったのではないからだ。
だけど、飯田との未来は満足できるものにしたいと願ってしまう。理想の、みんなを安心させられるヒーローを目指し続けることと同じくらい、がむしゃらに取りにいってしまいたくなる。もう足踏みはしていたくない。
飯田は、どう思っているのだろう。守りたい、愛している。これまで何度か微睡の中で贈られてきた言葉たちは、轟の中でとっくに根を張っていた。だけど、同じ言葉を轟が口にしようとしても、どうしてもまだうまく届けられない。枝を伸ばし葉を茂らせても、まだ花開くには程遠い。それでも、取りにいけるだろうか。
「大人になりてぇ」
年齢だけ見ればとっくにそうなのに、心はまだ追いついていない。かつてオールマイトに贈られた言葉たちを思い出す——心と体は一元、迷って考えたから、尊い。それはきっと、〝個性〟の話だけではないのだろう。ふらつきながらも納得のできる結末とその先を望むなら、考えて動き続けるしかないのだ。
「諦めねえからな」
ぽろりと転がり出た言葉は誰にも拾われず、この遠い異国の地で、スピーカーから流れる破壊音と雄叫びにかき消されていった。
<続>