We Are Golden②(R18)

4.あいことば(二十二歳、春)

 気持ちいい、好きだよ……うれしい。
 最後のそのひと言に安心したように轟がまたかがみ込んでキスをねだり、待ちきれない唇が首の動脈を確かめるようになぞる。それにしても、古い傷痕や急所ばかり狙われているのはどういうことなのだろう。少しだけ怖い。けれど、その怖さすら吐息が肌にかかるたびにぞくりと快感に変わる。背を跳ねさせると、上質な布団の下からぼんやりと伝わる畳の固さが肩に生々しい。
 さっきまで身体の凹凸をひとつひとつ記憶に刻み込むように這い回っていた手が伸びてきて、飯田の額に張りついた前髪を整えてからそっと冷やしてくれた。
「気を遣わなくて、いいのに」
 弾む息をどうにか整える。どうせまた乱されるというのに。
「『うれしく』なかったか?」
「いや、『うれしい』よ……冷たくて気持ちいい。ただ、君に蕩けさせられてくらくらしてるのも、同じくらい『うれしい』んだ。ふふふ、こんなこと、まったく知らなかったな」
「飯田……おまえ、結構すごいこと言ってるけど、自覚あるのか?」
 熱に浮かされたまま飯田が笑いをこぼすと、轟もせつなげに笑い、唇が重ねられた。差し出された舌を包むように口の中へと迎え入れる。深く繋がるこのキスは、可能ならいずれそこまでしてみたいと言われた行為を連想させた。これまではあまり意識しないようにしてきたのに、ついさっきそう伝えられたばかりの飯田に余裕はほとんど残っていない。前向きな覚悟といつかのための念入りな予習だけでは、まるで足りなかった。
 ぴたりと密着させた上半身の素肌はもう完全に同じ体温となっていて、しっとりと汗ばんでいる。轟とともに帰宅した頃にはもうとっくに深夜だったのに、始まったばかりの春の外気はすっかり冷えることを忘れ、暦を嘲笑うかのような気温のままだった。合流した夕方には季節を先取りしすぎた桜がもう散り始めていた。だから、こんなにも身体が火照る。そうに違いない。
 だけど、いくら気を引き締めようとしても、それは無理な相談だった。まだ少年と呼ばれていた頃、身勝手な欲を向けるなどいけないと思いつつも淡く淡く夢見てしまい、その後、一度は諦めたことなのだから。
 夢は夢ではなくなった。だけど、やっぱり夢のようだ。
 裸の背に腕を回し背骨を指先でつうとなぞると、飯田の口の中に甘い呻き声が流し込まれる。
「ずりぃぞ、それ」
 顔を上げた轟に軽く咎められた。
「嫌かい?」
 目を見ればわかることを、つい聞いてしまう。
「まさか。バカみてぇに『うれしい』」
「よかった」
 ふたりで決めた合言葉を惜しみなく告げられる。飯田は笑って、今度は自分のほうから轟のうなじを掴み、そっと引き寄せた。

 

 互いに秘めていた想いを伝え合ったところで、轟との関係はほとんど何も変わらなかった。意識して変えなかったわけではない。単に、ものすごく忙しくなってしまったのだ。
 ふたりは雄英出身の同期のヒーローたちが皆そうであったように、従来よりもずっと早くプロデビューを果たしていた。そのため、この歳ですでに有望な若手株と見なされている。個人で活動しているヒーローショートには指名つきの出動要請も増えているし、チーム活動が主体の飯田はローテーションで休みこそ取れているものの、年度明けの代表就任に向けた引き継ぎに加え、かねてから麗日より打診されていた〝個性〟カウンセリングに関するプロジェクトの立ち上げを手伝うため資料を熟読し、専門家を交えた勉強会にも参加するなど、休日でも次から次へと予定を入れては精力的にこなしていた。
 轟との海外派遣に向けた準備もある。単純に顔を合わせることは以前よりも多くなったし、宿代わりに泊めてもらうことも増えた。そんなときにはあの二度目の告白をした夜と同じように、見つめ合ったり触れ合ったり、眠るまで手を握っていたりもしている。だが、いつも疲労が勝ってしまって満足に話をすることもできていなかった。それは当然のことだったが、意識して時間を作らない限り、ふたりだけでプライベートを過ごすことは叶わないのもまた当然のことだ。それに気づいた頃にはあの告白の夜からなんと五ヶ月も経っていたのだ。季節も二度変わり、途中で年も越していたというのに。
『「普通の」友達でも、会おうと思えばもう少し落ち着いて会えるはずだよな』
 ある晩、寝入り端に轟が欠伸とともにそうこぼしたのをきっかけに、ふたりは考えることにした。
 そんな折に、ちょうど四月から雄英高校の教師となる緑谷の大学卒業兼就職祝いのため、都合のつく友人たちで集まることが決まった。その日取りに合わせて諸々の調整がうまく収まって、久しぶりに揃えられた丸二日の休みの前夜。
 当然、緑谷のことは全力で祝った。それぞれ予定はバラバラだし、せっかくだから雄英の近くにしようよと誰かが提案し、途中離脱者や飛び入り参加者もいたけれど、全員と顔を合わせて話もできた。そして、二次会の途中で飯田に寄りかかってかなりしっかりと寝てしまった轟が『喋り足りねぇ』と目をこすりながら肩を落としたところで緑谷が三次会を提案し、最後は三人だけでひっそりと遅くまで営業していた喫茶店で閉店まで過ごしてきたのだ。
 飯田の終電の心配をする緑谷に轟の部屋に泊まるのだと話したら、『それなら安心だね』とにこにこと言われてしまったが、その実態が以前とは変化していることはまだ誰も、緑谷すらも知らない。
 わかりやすくするために話を歪めて伝えたくなかった。逆にすべてを説明して困惑させたいわけでもない。ゆえに、ふたりで理解して納得できるまでは、緑谷にも伏せておこうと決めていた。
 悪いことをしているのではないから、後ろめたくはない。だけど、ふたりとも必要以上に気を張っていたのかもしれない。部屋に入りドアを施錠した瞬間、轟に抱きつかれた。多少驚きはしたけれど、受け止め、抱きしめ返すと、至近距離で轟の唇が物欲しげに震えた。
 飯田は確認した。
「キスをしてもいいかい?」
「ああ」
 短く答えた轟の顎を掬いあげ唇を重ねると、すぐに舌が飛び込んできて主導権を奪われる。やわやわと舌を絡め取られると、甘い声が引き出された。ジャケットの裾から手が迷いなく這入り、腰を引き寄せもどかしそうにまさぐる。だがベルトより下には決して侵入しない。ボクシングのように紳士的だ、と痺れる頭にどうでもいい雑学が浮かぶ。
 まだ手洗いもうがいも済んでいないというのに、近頃はこうして一時の快楽を優先しがちになっていた。愛情表現と捉えれば戸惑いも少しは減るが、それでは済まない熱が互いにある。今回の休みでその話もできたらいいと思っていたが、このまま流されてしまうならそのほうが——
 そんなことをぼうっと考えていたせいなのだろうか。勢い余った轟に押されて体重を支えきれず、飯田はバランスを崩した。そして、狭い玄関では体勢を立て直すことができず、廊下のフローリングに倒れてしまった。受け身は取れたし、痛むところはない。だから、当たり前のように顔を上げつつ「もう、気をつけたまえよ!」と小言を口にしたのだ。
 だが、飯田を見下ろすその双眸は、飯田を見ていなかった。恐怖で表情は凍りつき、ここではないどこかに囚われているように身体も強張っている。初めてキスをされたときともまるで違う。純粋に間違えてしまったことに取り乱していたあの夜と違って、轟自身の心はこの場にすらいないようだった。
 飯田は臨床心理の専門家ではない。ただ、このような状態の人間に出くわすことは、仕事柄たまにある。そして、それが要救助者に限らないということも知っている。
 この場で轟を連れ戻せるのは飯田しかいなかった。
「轟くん、手を貸してくれ!」
 防音にもこだわった部屋だ。深夜だが、向かいは空き部屋だし多少うるさくしても問題はないと判断し、飯田は声を張り上げた。呼びかけながら青ざめて固まったままの轟の手に触れると、魔法が解けたかのようにその肩から力が抜ける。
「見えるものを五つ、言えるかい?」
「……ポトス。洗面所のドア。スリッパ……メガネ。あ、おまえのカバン」
「いい調子だ。触れられるものは?」
「四つ、だよな。おまえの手……靴箱。靴べら、鍵」
 轟が手を伸ばして、挙げたものに触れて確かめる。声の震えがゆっくりと収まっていき、握った手にも体温が戻りはじめる。
「聞こえるものを三つ言えるかい?」
「おまえの声、エレベーター……ほかに音しねえな」
「防音性能が高いからだろうか」
 ふっ、と小さく、まだやや硬い笑みが轟の唇をゆるめた。
「怪我してねぇか?」
「平気だよ。ただ、位置的に自力でこのまま立とうとすると元の木阿弥だ。助けてくれるかい?」
 半分は本当だった。そのまま室内にずり下がれば、土足であがることにはなるが問題なく立てる。あるいは、轟に半歩ほど退いてもらうか。つまり、残りは方便だ。
 腕を掴み直すと、転ばないよう引き上げられる。その緩やかな動きに任せ、飯田は轟をふたたび抱きしめた。薄いカーディガン越しに逞しい背中が不安げに震える。
「びっくりさせてしまったね。ここだと狭くて危ないから、部屋に入ろう」
「加減ミスった。わりぃ」
 笑おうとしているのか、耳元で呼吸が乱れる。
「いや、今のは完全に俺がうっかりしていた。俺としたことが、体幹の鍛え方が足りないのかもしれないな! 最近忙しくしていたし、トレーニングメニューの見直しを」
「飯田、」
 轟がわざわざ飯田の言葉を遮り、何かを言いかけてやめた。
「大丈夫。大丈夫だよ、俺は。本当に、なんともない」
「……ああ」
 まだ沈んでいる声をふわりと浮かすように、腕を回したまま轟の背をゆっくりと揺らす。
「楽しい一日だったんだ。楽しいまま終わろう……と言いたいところだが、その前に少し話をしないか?」
 そう伝えれば、轟も一度おずおずと飯田の背に腕を回してから、そっと離れた。そして、靴を脱いで先導するように部屋に上がった。
「風呂、先に使えよ。起きて待ってる」
「ありがとう。じゃあ、改めて。お邪魔します」
 頷いて、飯田も靴を脱ぎ、きっちりと揃えてから廊下に足を踏み入れた。

 

「教えてほしいことがあるんだ。答えられないなら、答えなくていい」
 それぞれシャワーと寝る支度を済ませた。だが、まだ寝床には入らず、ふたりは並べた布団の上で向かい合っている。正座の飯田は胡座をかいた轟をわずかに見下ろしていたが、轟が気にしている様子はない。行燈のような形の照明に照らされた擬似的な和室は適度にほの暗いが、表情はしっかりとわかる。
「なんだ?」
「さっきのは、フラッシュバックを経験していたのだろうか」
 飯田が挙げたのは、高校時代、二年次のヒーロー基礎学および保健体育でも複数回にわたり取り上げられた、心的外傷が引き起こす精神症状のひとつ。身体の不調はともかく、心のバランスを崩したままの者がそのまま現場に出れば、本人だけでなく周囲にも危険が及ぶ可能性がある。動けなくなるのならまだマシで、〝個性〟の制御ができなくなることもあるからだ。
 あの大戦の直後は、ヒーローが不安定な姿を見せてしまえば社会の信頼をふたたび揺らがせてしまうだろうという、酷薄ながらも切実な事情もあった。そのため、代表的な症状や放置したらどんなことが起きてしまうのかについて真剣に学び、さっき実践したように自分でできる対処法を身につけ、何か問題があればすぐに担任や校医に相談するよう、当時から何度も定期的に念押しされていた。
 ただ、今回の状況やこれまでの様子を総合すると、轟の場合、原因はもっと違うところにあるのかもしれないと飯田は考えていた。
 すべては推測に過ぎず、ヒントをつなぎ合わせてそれらしい絵を描いて納得しようとしているだけだ。それでも、飯田は訊ねることにしたのだ。
「たぶん、そうだ」
 言葉少なに答える轟に、さらに聞く。
「普段からよくあるのかい?」
「いや……ああやって動けなくなるようなのは、ほとんどない。ひとりの時、たまにあるくらいだ。対処はできてるし、現場では今まで一度もない」
「最初は、いつだった?」
 轟が痛いところを抉られたような表情を見せた。だが、飯田が「無理に話さなくても」と止める前に、轟は話していた。
「……おまえに最初に告白されたときだ。それまでも、追い込まれて親父の言葉や訓練のことを思い出すことはあったけど、あの時は違ったんだ。その、お母さんが、」
「それ以上は言わなくていい」
 手を伸ばし、険しく寄せられた轟の眉間を親指で撫でほぐす。
「わりぃ。乗り越えたはずなのにな」
「乗り越えてはいるだろう。身体がついてこないことがあるだけで、君自身はそれに日々縛られているわけじゃない」
 轟が目を丸くして訊ねた。
「身体? 頭じゃねえのか」
「頭も身体の一部だ。それに症状自体は身体に出ている。君は動けなくなって、俺を見ているようで見ていなかった。呼吸もどこかおかしかった。けれど、〝個性〟はちゃんと抑えられていたよ」
 身を竦ませた轟に「手を握らせてほしい」と頼むと、遠慮がちに差し出された。
「……いつもおまえに負担かけてる」
「何を言ってるんだ」
 思わず睨んでしまうと、轟はあっさりと負けを認めたかのように目を細め、言葉を訂正した。
「俺の分までいっぱい考えてくれて、ありがとな」
 その笑顔があまりにも痛々しくて、飯田は聞きたくないと思いつつ、確かめるべきことを尋ねた。
「俺とこういう関係になって、君はつらくないか?」
「おまえこそ何言ってるんだよ」
 腕を引かれ、正座を解いて轟の前に移動すると、そのまま腕の中に囲い込まれ、ゆっくりと引き倒された。
「酷いことを聞いた自覚はあるよ。ただ、俺の存在や期待が何かしらのトリガーになってしまうのは本意じゃない。親友に、大好きな君に、つらい思いをしてほしくないんだ」
 誘われるままに轟の肩に頭を預け、飯田は声をさらに落とす。
「ほとんど俺のわがままで始めたことだ。俺こそ負担になりたくない」
「負担なはずねぇだろ。なあ、飯田、」
 腕の力が強くて、少しだけ痛い。それをうれしく思うのは、きっとよくないことだろう。依存したいわけでも、させたいわけでもない。
 キスをするよ、と断ってから、顎の端に唇を落とす。
「口じゃねぇのか」
「押さえ込まれて身動きが取れないんだ」
「これくらい、余裕で抜け出せるだろ」
 軽口も信頼の厚さもうれしい。力をまったく抜かない腕の中で身を捩って少々強引に抱擁を解かせ、唇に一度キスをしてから轟の隣に寝転んだ。
 すると、轟が思いがけないことを言い出した。
「……くそ。俺がこんな調子じゃセックスもできねえ」
「唐突だな!?」
「おまえも興味はあるって言ってたろ」
 それは先月、ろくに話もできていないとふたりで気づいてしまった夜に確かめたことだった。
「なのに、こんなふうに狼狽えちまうのはダセェし、それ以前におまえに悪い」
「ダサくないし、無理にしなくてもいいとも言っただろ。だが、君もそうだと教えてくれたから、一度話をしようとは思ってたんだ」
「俺も、今回話がしたかった」
 轟の手が頬を包む。隣を見ると、しっとりと潤んだ灰と碧に見つめ返された。
「なら、話そうか。君は、何をどこまでしたいんだ?」
「言わせんのか」
 まっすぐな視線がわずかに泳ぐ。
「認識の擦り合わせは大事なことだ。たとえば服を脱ぐかどうか、触れてほしいところほしくないところはどこか、かける言葉はどんなものがいいか、どんなことをしたいかしたくないか、指や性器を挿入をするかしないか、性具は使うのか、オーラルセックスは必要かどうか」
 少し前に話題になっていた大人向けの性教育の本の内容と、男性同士で行為をするために必要なことを調べたときに得た知識を思い出し並べていくと、轟は顔をじわじわと赤くし、顔を覆って呻いた。
「……なんだよ、それ。色々想像しちまうだろ」
「す、すまない」
 思わぬ反応に顔が熱くなってきて、飯田も目を逸らしてしまった。至極まじめに話しているつもりだったが、確かにあまりにも性急で具体的すぎる話だった。だが、ためらいは互いにまったくないようだ。発見、ひとつ。
「おまえは、どうなんだよ」
「……俺は、君に抱かれたいと思っている。陰茎等の挿入を伴うのなら、される方を希望する。重量差もそれなりにあるし、体格的に難しいかもしれないが」
 目を伏せたまま伝えると、ほ、と轟が息をついた。
「よかった。俺も、おまえに挿れたいと思ってた。重量差はまあ、なんとかなるだろ。要は物理だ」
 あまりにあけすけに言われ、呆気に取られる。内容は飯田の発言とだいたい同じではあるが、なぜこうも違って聞こえるのだろう。それでも、知りたかったことがまたひとつ、いや、ふたつわかった。挿入は双方希望している。役割についても揉めることはなさそうだ。どちらにしろ、譲ってもいいとは思っていたけれど。
「見解の一致だな!」
 力強く結論づけて視線を戻すと、轟が顔を寄せてきた。
「キス、してもいいか」
「もちろん」
 ふたたび頬を包まれ、唇同士が触れ合い、すぐに離れた。抑制された口づけに、かえって情欲を掻き立てられる。は、と息を弾ませてしまって、顔がいまさら熱くなる。
「ああ、難しいな。もっと冷静に話せると思ってたよ。ぐちゃぐちゃだ」
「冷静じゃねえのか。……うれしい」
 頬から髪に手が移り、刈り上げたところを撫でる。そわそわとくすぐったい感覚に甘さが乗り、顔の熱が首から全身にじんわりと広がっていく。
 ——いけない、まだ話は終わっていない。
 流されてしまいたい気持ちを抑え、飯田は懸念を伝えた。
「ただ、俺が勝手に希望している行為がすべて俺たちに合っているとは限らない。互いに経験はまったくないんだ」
「なら、確かめるか」
「君さえよければ、そうしたい」
 轟は「わかった」と頷いて、よし、と小さく独り言を呟いてから尋ねた。
「……おまえが今どう思ってるのか、教えてくれるか」
 ずいぶんと抽象的な質問だ、と思いつつ、流れとしては性的接触のことだとわかっているので、飯田はそこに絞って話しはじめた。
「そうだな……俺は今のところ、抱きしめられるのがいちばんうれしい。キスも、軽いのも舌を使うのも好きだ。首筋にされるのは、君がよく動脈を狙ってくるから少し心臓に悪いけれど、甘えられているようでくすぐったくなる。髪や顔に触れられるのも、君の手がやさしくて気持ちいいし、安心する。抑えているところがあるのもわかっているんだ。もっと自由にさせてあげられたらという気持ちもあるけれど、けっして勝手なことをしないところをとても好ましく思っている。それから、君の声が」
 だが、すべて伝える前に、もご、と口を手で塞がれてしまった。
「待ってくれ。……そんなに一気に聞かされると、すげえ恥ずかしい」
 手が緩められ、真っ赤になった轟が、ごめん、と小さく謝った。じり、と首筋が熱を帯びる。
「う……落ち着いて話せなくてすまない。でも君が聞きたがったんだぞ。嫌じゃないなら、最後まで言わせてくれないか」
「あ、いや、うん。言ってくれ。声が、なんだって?」
 多少投げやりなのが気になったが、飯田は途中で堰き止められていた言葉を続けた。
「君の声が、とてもやわらかくなるのが好きだ。君に名前を呼ばれるだけで、全身が温かいものに包まれるような気持ちになる」
 飯田が話し終えると、轟は力なく笑った。
「俺は、そこまで純粋にはなれねえ」
 そして、少しだけ考え込んでから口を開いた。
「俺は……俺を俺の迷いごと受け止めてくれるのが、許されてるのが、うれしい」
「君だって、じゅうぶんピュアじゃないか」
 ふふ、と笑いを漏らすと轟が真顔で頭を振った。
「おまえはこの間から俺の頭の中でおまえがどうなってるか知らねえから、そんなことが言えるんだ。……すげぇぞ」
 踏み込むのをまだ少し躊躇していると思っていたのは思い違いだったのだろうか。やけくそ気味な自供に、飯田はあえて挑発するように口角をつり上げた。
「想像だけなら俺も君に負けず劣らずだろう。具体的な話を先に持ち出したのも俺だ。忘れてもらっては困るよ」
 ぐぅ、と轟の喉からおかしな音が響く。だが、飯田が様子を尋ねる前に、轟が聞き返した。
「なら、どうしたらいい? また何かあれば俺はさっきみてえに固まっちまったり、最悪の場合はおまえごと部屋が燃える。これまで平気だったからといって、新しい刺激でどう変わるかはわからねぇ。それでもおまえと……おまえに、触れたい。まだ諦めたくねえ」
 轟がゆっくりと起き上がった。急に空気の甘さが消え、作戦立案のときのような緊張感に取って代わる。それだけ真剣なのだ。真剣に、触れたいと思ってくれている。
「面倒かけて悪ぃが、そうならねえ範囲を探ることになる」
 ムードも何もあったもんじゃない。だけど、そんなところがたまらなく愛おしい。飯田も布団から身を起こして正座に座り直し、轟と向き合う。
「まったく面倒などではないさ。俺たちなりに工夫が必要なだけだよ。確かに安全面を考えるなら止めるべきだろう。それでも、俺は君を信頼しているんだ」
 轟が頷いたのを確認し、飯田は考え込む。どのようなアプローチをすべきだろうか。
 さっき玄関で転倒したとき、そして手を引かれ抱き寄せられたときに改めて確信した。轟の不安は自身の暴力性だろう。もちろん、敵対者に対峙するのに必要なもの以外に、そんな衝動が轟の中に存在すると飯田は思っていない。仮にあったとしても、受け止め諌めるだけの強さも飯田にはある。
 だが、轟は大切な相手——飯田が、自分のせいで倒れている姿を見たくないのかもしれない。だから、布団の上で戯れるにしても、押し倒すことはせず、抱き寄せたのかもしれない。これまでも、抱きしめ合うのは必ず立っているときか、ソファに腰かけているときだった。なら、そこは気をつけるとして。
「もし、君が俺の前でまた同じようなフラッシュバックを経験しているようだったら、さっきのように『手を貸してくれ』と言ってみるよ。対処方法も他にないか、また改めてさらってみる」
「わかった。頼む。俺も考えておく」
 あとは、意思疎通の決め事をしておいたほうが安心できるかもしれない。
 たとえば、セーフワード、という概念がある。元は被虐趣味・嗜虐趣味のコミュニティ発祥のものだ。支配や暴力を双方の合意の上で実行する関係において、性行為中は意思表示が難しくなることがある。このため、すべての行為を即座に止める合図となる合言葉がセーフワードだ。他にも『続ける』『一時中断』などを設定することが可能で、特殊とされる嗜好に限らず、性的接触の際には広く応用できるということだった。
 ふたりの場合は、『止める』ためのそれは必要ないだろう。少しでも拒否やためらいを見せれば、轟はきっとすぐに止まってくれる。もちろん、慎重なのは悪いことではないが、それならばもう少し踏み込んだ、『続けてほしい』という意思表示があってもいいかもしれない。
 考えている間にも、轟はおとなしく飯田の言葉を待っていた。ひとりで決めることではない、と思い直す。
「セーフワードというものはわかるだろうか」
「セックスでダメなときにすぐ止めるやつだろ? 一応、調べたときに見た」
 話が早い。同時に、やはり彼もまた調べてくれていたのだと、不思議な実感を抱く。
「止めるだけでなく、『我慢したいから大丈夫』『気持ちいいから続けてほしい』等を示すために決めることもあるそうだ。俺たちの場合、必要なのはどちらかといえばこの二つだろう」
「我慢させるのか、おまえに」
 轟が唸るように呟いて、表情を険しく曇らせた。そうじゃないよ、と声をかけてから説明する。
「互いにさまざまな急所を晒すんだ。職業柄、警戒心が強く出てしまうことだってある。そういうときに、必要以上に中断したくない」
 それでもまだ納得ができないのか、轟は唇を噛んでから提案した。
「なら、できればその場で説明してくれ」
「そうか……わかった。なるべくそうするから、君もそうしてくれ。では、もうひとつは」
 鋼色のほうの瞳がきらりと輝く。
「……『うれしい』は、どうだ」
 うれしい、と復唱する。なるほど、しっくりくる。
「普段よく使う言葉はあまり勧められないらしいが……いや、それでやってみよう。わかりにくいのもよくない。互いに問題があれば変えればいいのだから」
 ほ、と息をついてから、轟は何かに気づいたかのように目を見開いた。
「俺も言っていいのか」
「もちろんだとも」
「……『うれしい』」
 ふにゃ、と轟の表情が甘く崩れる。どくん、と心臓が大きく跳ねた。轟の周りが淡く発光し、時が止まる。これは、まずいかもしれない。
「飯田? 大丈夫か」
 何も反応を返さない飯田を心配したのか、轟が手を取り、さする。
「すまない。君に、見惚れていた」
 正直に白状すると、むっと突き出した唇から「ずりぃ」と文句が飛んでくる。
「俺もずっとおまえのこと見ていたいのに」
「そんなに長くは見ていないだろう!? 気になるなら話が終わってから好きなだけ見るといい」
「見る以外のこともしてもいいか」
 握られた手が持ち上げられ、頬擦りされる。
「もう夜も遅いが」
「全部はしねえよ、さすがに。準備、とかあるんだろ?」
 手首の内側、脈を取るところに口づけられ、一気に体温が上がる。
「……わりぃ。キスしていいか、聞かなかった」
 困惑の表情を浮かべ、轟が手を放そうとした。素早く繋ぎ直し、飯田も同じように手首に口づける。
「これでおあいこだ。それで、ひとつ提案なんだが」
 同じところにもう一度、今度は少し喰むように唇を押しつける。力強い脈拍がわかりやすく速くなる。
「性的な触れ合いをするときは、キスも自由にしていいことにしたい」
 最初に決めた、ひとつの約束。歯止めが効かなくなるのが嫌なのだと、キスをしたいときには許可を取る。そう言い出した轟に合わせて、飯田も守っていた。それを、一時的に取り去ろうとしている。
「いいのか? 変なところにするかもしれねえぞ? 舐めたりかじったりも」
「本当に嫌なことや、危ないことだったら止めるよ」
 ふ、と轟が困ったような笑いを漏らす。いまいち信じてもらえていないようだ。
「心配なら、『完全に止める』ほうの合言葉も決めておこうか」
「どんなのがいいんだ?」
「これは絶対に情事の際には口にしない言葉の方がいいらしい」
 ム、と少し考え込んでから、轟はパッと顔を輝かせた。
「『ハウザーインパクト』」
 褒めてくれと言わんばかりに目を輝かせる姿に、からかわれたのではなく本人なりに大真面目なのだと察する。だが、これは無理がある。
「条件には合ってるが、爆豪くんの顔が今後まともに見られなくなるぞ!? 君、妙なところで度胸があるな!」
「ダメか」
「友達を巻き込むのはよくない。もう少し穏当なものにしよう」
 そう諭すと、轟は部屋の中をぐるりと見回して、お、と声をあげた。
「じゃあ、アレがいい」
 指さす先には、つやつやとした葉をのびやかに繁らせたパキラの鉢があった。
「なるほど、『パキラ』か! いいんじゃないか? 間違えようがない」
 飯田が同意すると、今度こそ満足そうな表情が見られた。よしよしと頭を撫でると、轟は気持ちよさそうに目を閉じる。
 やはりムードどころではない。ここから何をどうしたらいいのか、飯田の蓄えてきた知識だけでは答えが導けない。
 だが、飯田が戸惑い、次にどうするべきかぐるぐると悩みながら頭を撫で続けているところに、轟が呟いた。
「……『うれしい』な、これ。気持ちいい。おまえの手も、すげぇやさしくて、好きだ」
 小さく、幸せそうな声音。
 そうだ。答えはずっと目の前にあった。聞いてみればいいのだ。
「うん、よかった。……さて、決めることは粗方決めたと思うのだけれど、君は、どうしたい?」
 頭に乗せていた手をゆっくりと、耳を撫でるように頬まで滑らせると、轟が目を薄く開いた。
「……おまえを、見ていたい。触りたい。触ってほしい」
「なら、まずはそこから始めようか」
「キスもする」
 飯田は轟が動く前に肩を抱き寄せ、さっきされたようにゆっくりと自分の身体の上に引き倒した。轟が小さく、ん、と喉を鳴らす。
「好きなだけどうぞ」
 そう言って微笑むと、轟は一瞬何かを堪えるように目を閉じてから、頰をゆるめた。

 

 重なる素肌はどこもかしこも熱い。さっき甘噛みされた喉仏を轟の指先がそわそわと弄んでから、頸動脈をなぞっていく。急所を晒すことになるとは言ったが、届く限りことごとく触れてくるとは思わなかった。まるで宝の地図でも描いているかのように、轟は慎重に何度も触れる。飯田もそうして身体を明け渡すのを心地よいと感じているから、問題はないはずなのだが。
 離れないふたりの唇の端で、飲みきれなかった唾液がいやらしい音を立てて泡立つ。絡みつく舌から直接熱を送り込まれたように下半身が熱くなり、解放を求めて疼いた。まだ直に触れられてもいないのに、期待しすぎている。これまではそれなりに自制できていたのに、自分は実は快楽に弱かったのだろうか、と飯田はにわかに不安になった。
「どうした?」
 唇を離して、轟が訊ねた。
 飯田を見つめるその表情は、一見すると無邪気にほころんでいる。だが、眼光は熱っぽく潤み、いまにも欲が雫となって滴り落ちそうだ。これを色香と呼ぶのだろうか。とんでもない毒なのかもしれない。ずっとここで溺れていたくなる。まだ浅瀬につま先を浸したくらいのところにいるというのに。
「……勃起してしまって、恥ずかしいんだ」
「よかった。俺もだ」
 腰をこすりつけられると、硬いものが飯田の敏感なところにぶつかる。ふたり分の柔らかい布越しの、的を外したような弱い刺激。接触そのものよりも、轟の欲望の所在を確認したことでまた頭がくらくらと軽くなる。
「これまでもキスで時々勃ってたよな」
「誤魔化せてなかったか」
「俺も身に覚えがあるから」
 くすくすと笑いながら、囁きあう。
「おまえの、触ってもいいか?」
「ああ。俺も、君のを触りたい」
 陰茎のことをどう呼ぶかまで決めておく必要があっただろうか。幸いぼかしても通じているようだが、こういうところが経験不足なのだと飯田は痛感していた。
 だが、本当に十七歳でこれを経験してしまっていたら大変だっただろう。欲にまかせて何をしていたかわからない。役割を決めるところで躓いて、何もできなかった可能性もある。あの頃は今よりさらに頭が固かったから、轟に組み敷かれてすべてを受け止めたいと思っていることにはなかなか気づけなかったかもしれない。今でも抱きたい気持ちがないわけではない。だが、己の想像力あるいは欲の限界なのか、そちらはうまく思い描けない。
 ……余計なことを考えていないと、この刺激に耐えられそうにない。
「触るぞ」
「ああ、頼むよ。動かしづらければ下着をパジャマごと少し下ろすといい」
「わかった。おまえもそうしてくれ」
 寝巻きのズボンのウエストと下着を同時に引っ張って、轟の手が侵入し局部に触れる。少し硬い指先がくすぐったくて、明確な性感に腰が早くも期待に揺れた。だが、それ以上に——
「んっ……『うれしい』よ、轟くん」
 本心からの許可の言葉を伝えると、轟が飯田の勃起した陰茎をするりと掴んだ。下着の中の狭い空間で驚くほどしなやかに指が巻きつけられ、濡れた先端を親指の腹がそろそろと撫で回す。脳天まで走り抜けるような快感に飯田が思わず息を呑むと、轟が目を丸くし、そしてうれしそうに細めた。
「あぁっ……待って、待ってくれ……まっ、まだ、君のを触っていない」
 情けない声が漏れる。息のつき方もわからなくなりそうで懇願すると、心配そうに顔を覗き込まれた。
「気持ちいいんだ。大丈夫だから、降りてもらってもいいかい? そのほうが触りやすい」
「わかった」
 手を離さないまま、轟が飯田の隣に寝そべる。向き合うように身体を傾けると、轟は触りやすいように腰を寄せてくれた。まごつく手を取られ、スウェットのウエストに誘導される。引き締まった腹斜筋のくっきりとした線をなぞり、腰骨を撫でながら服の中へと侵入すると、轟が甘く呻いた。
「やべェ、もう気持ちいい」
「君も気が早いな」
 下着越しに張り詰めた形を確かめるように根本からそろそろと指を這わせると、轟が腰を揺らして熱い勃起を手に押しつけた。
「頼むから、もう焦らすなよ」
「ああ、ごめん」
 首を伸ばし、火傷痕のないほうのこめかみに口づける。白い前髪の短い毛先を巻き込んでしまい、くすぐったい。意を決して下着の中に手を滑り込ませ目的のものをゆるく掴むと、きつく張り出した先端がぬるりと滑り、あぁ、と重いため息が響く。
 轟も、もうこんなにも興奮している。自分だけではなかったのだ。飯田は安堵して訊ねた。
「動かそうか?」
「頼む。俺もそうする」
 どちらからともなく額を寄せ合うと、ふたつの吐息が混ざる。手の中の熱く脈打つ塊を撫で回すと、轟も飯田の陰茎を扱きはじめた。思ったよりも大胆に、さっきと同じくその形や感じるところを覚えるように手が、指が、下着の中でするすると動き、飯田の反応に合わせるように与える刺激を変えていく。飯田自身は自慰のときと同じような、情緒のない事務的な動きしかできないというのに、それすら覚束ないほどあっという間に翻弄されてしまう。
「っく、ぅう……これじゃあおまえのが見えねェ」
「いったん止めるかい?」
「いや、いい。こっちのが『うれしい』」
 熱の乗った息で伝えられ、唇が奪われる。キスの許可は互いに取らなくていいことにしたけれど、これもこれで困ってしまう。
 口を塞がれていると、『うれしい』と伝えられない。
 代わりに気の赴くままに喉を鳴らし、轟の手に己の勃起をぬるぬるとこすりつける。快感が募っていく中、轟も同じように腰を揺らしはじめた。
「わりぃ、飯田……もう、あんまり持たねえ、かも」
 キスの合間に掠れた声で告げられた。本当はもっと長く触れ合っていたかったが、刺激がそれを許してくれない。
「俺も、もう出そう……ひ、ぁあッ、」
 急にきた射精感を慌てて堪えると、あまりにもみっともない声が喉から迸る。ひとりなら、そんな声は出ないのに。
「すっ、すまな、いっ……うるさ、いだろ、ぅっ」
「『うれしい』。もっと聞かせてくれ」
 鼻の頭に唇が軽く触れる。子供のような愛らしい仕草と、竿を大きく扱き裏筋を指の腹で刺激する、明らかに射精に導こうとしている動きのギャップが末恐ろしい。身も心も、もうこんなにも揺さぶられている。なら、そう遠くない未来にこの手の中のものを体内に収めることになったら、どうなってしまうのだろう。
「飯田、集中しろ」
 頭の中を覗いたかのように、切羽詰まった声で轟が訴えた。ごめん、という言葉はキスに押し潰される。君はこんなにもキスをするのが好きだったんだな、君の希望とはいえこれまで我慢させていたのだろうか、とぼんやりとした愛おしさに浸りながら、飯田も手を動かして精一杯応えた。
 迫り上がる快感が下半身を強張らせる。ふたたび訪れた限界に、抵抗はもうしない。
「と、轟くん、う、ぅッ——」
 ぐらぐらと煮えたぎる熱が奥深くから解放に向かって駆け抜け、轟の手の中にぶちまけられた。
 視界が白く眩む中、あ、あぁ、と弱々しい鼻声に応えるように、轟が小さなキスを顔中に降らせる。その手は竿を根本からしっかりと扱き続け、精液を最後まで搾り出そうとしていた。すでに先走りで汚れていた下着がさらに重く、じっとりとしていく。
「イくときの飯田、想像の一億倍はすごかった」
 熱っぽく言われ、喘ぐのを止められないのに突っ込んでしまう。
「なんっ、てものを……っ、想ッ像、しとるんだ、ッ君は、」
「おまえは、しねえのか」
「すこ、しは……あぁん、ッ、」
 敏感な先端をぬるぬると撫で回され続け、甲高い声が喉からすっぽ抜ける。
「おまえのその声だけで出そうになるよ」
 またやわらかくキスをされ、力の入らない手のひらに勃起が押しつけられる。
「す、まな、い……まだ、君が、ぁっ……」
「飯田、動かさなくていいから、指で包めるか?」
 達したばかりの性器を弄ばれているせいで頭が回らない。飯田はなんとか呼吸を落ち着けながら意味を理解し、あふれていた先走りを指先で掬い取ってから、轟の熱く張った陰茎にすべての指をゆるく巻きつけた。ふ、と轟が悩ましげに息を詰める。
「じゃあ動くぞ。手首とか、痛かったら止めてくれ」
 片手を飯田の陰茎に置いたまま、轟は腰を振りはじめた。最初は少しぎこちなかったが、すぐに慣れたのか、先端のくびれを指の縁に器用に引っかけながら、轟の陰茎が長く速いストロークで飯田の手指で作った筒を犯す。熱く蕩けた色違いの瞳は飯田をじっと見つめ、ゆるんだ口元からは荒い吐息とともにせつない呻き声が漏れる。とん、とん、と手の端に当たる陰嚢が急速に引き絞られていくのまで生々しくわかる。
 いいだ、と幸せそうに呼ばれ、ごくり、と生唾を呑んでしまう。その瞬間、轟がその薄く整った眉をぎゅっと歪めた。
「くッ——」
 びゅる、と手にぬるいものがかかった。轟は呻きながら腰を揺らし続ける。まるで、まだ見ぬ最奥に欲を余すところなく届けるように、あるいはふたりの身体に抱き合った余韻を刻み込むように。
 ぞくぞくする。淫靡なのに美しく清廉で、獰猛でもある。そんな轟を、手だけではなく、全身で受け止めたいのだと理解し、飯田は震えた。それは、もう一度達してしまったのかと一瞬戸惑うほどの戦慄だった。
「いいだ、キス、してぇ」
 追いすがるようにねだられて、唇で迎えにいってやると、呼気で少し冷えた咥内に舌が誘い込まれる。いやらしく絡め取られ、堪能するように丁寧に吸われてから解放されると、飯田はつい呟いてしまった。
「ずるいな、君は。喘いでも達しても甘えていても、ずっとカッコよくて綺麗だなんて。想像の一億倍は素敵だよ」
「お、う……」
 上気した頬がさらに赤くなり、俯いた轟の額から飯田の頬に汗がぽたりと落ちる。そういえば、轟はいつのまにか飯田に覆い被さっていた。特に異変はなさそうだ、と冴えてきた頭で確認してから気づかれる前にそっと肩を押すと、轟はおとなしく隣に寝転んだ。のろのろと互いに手を相手の下着の中から引き抜き、ティッシュで拭けるだけ拭く間にも、轟は顔を赤くしたままだった。
「ふふふ、俺の気持ちが少しはわかったかい?」
「ああ、悪くねえ。おまえに言われるのは、すごく『うれしい』な」
 なんの作為もなく、想像のはるか上を行く返答だった。呆気に取られた飯田は、笑いを返しながら轟の額に額を寄せた。
「まったく、君ってやつは……俺も、すごく『うれしい』よ」
 轟くん、と呼んだ名前は、深いキスに呑み込まれてしまった。

 

 シャワーでそれぞれ汗などを流し、下着を替え、布団に戻る頃には午前二時をとうに過ぎていた。
「俺は起きたら少し走りに出るが、君はどうする?」
 夜間照明以外を消してほとんど暗くした部屋の中、並べた布団の中から手を伸ばし、ゆるく繋いだまま話す。情事の匂いを消すために炊いた香の残り香もまだ重く、意識に毛布をかけたかのように心地よい。
「起きられたら一緒に出る。それで、戻ったら、またシたい。必要そうなものは、買ってある」
 したい、という言葉が何を指しているのかは明白だった。今にも寝落ちそうなのに、轟は今夜の続きの約束を取り付けようとしていた。
 明日は確かに一日空けてあったが、特に予定は立てていない。なら、少しくらいは性行為に費やしても問題はないはずだ。でも、本当にいいのだろうか。
「朝からそんなことを? せっかくの休みなのに」
「ダメなのか? せっかくの休みだろ」
 だが、言葉をそのまま返されて、飯田は陥落する。
「食事と休憩をちゃんと取るのなら、吝かではないよ」
「……おまえ、たまに結構すごいこと言うよな」
 気だるさに誘われ、瞼が重くなる。その笑い混じりの言葉の意味を尋ねるのも億劫だ。
「もう一回、キス、してくれねえか」
 懇願する声に応えて首を伸ばし、飯田は轟のこめかみにキスをする。だが、いつもの位置とは反対側にいたため、火傷痕のほうに触れてしまった。
「すまない。痛くなかったか?」
 そう尋ねると、薄目を開けて轟が微笑んだ。
「もうとっくに痛くはないんだ……見苦しくて悪いな」
「まさか。嫌じゃないなら、少し撫でてみてもいいかい?」
 思い切って訊ねてみると、轟は「ああ」と承諾し、目を瞑った。
 とっくに見慣れてはいるものの、ずっと気になっていた。見苦しいと告げた、そのさみしげな表情も。
 繋いだ手をほどき、指先でなぞる。爛れて固まり隆起したまま治ったらしいざらついた箇所と、引き攣れてつるつると薄くなっている部分があるのがわかる。これでは傷が塞がってからもしばらくは瞬きすら苦痛だったろうと、飯田は幼い時分の轟に改めて思いを馳せた。そうなる前に駆けつけたかった、間に合いたかったと悔しく感じるのは、まったくのお門違いだけれども。
 轟は自身の生い立ちについて、あまり多くを語らない。だが、その火傷については生まれつきのものでも、幼少期によくある〝個性〟発現時の事故でも、あの父親の手によるものでもなく、轟が今でもずっと慕っている母によってつけられたものだった。二年生になって、復興作業や治安維持活動で忙しくしていた時期に、寮でたまたま二人きりになったことがある。そのときに、そういえば、と話してくれたのだ。轟が週末を母と姉の暮らす家で過ごして戻ってきた翌日のことで、緑谷と爆豪が知っているのに飯田が知らないのは変だと思ったのだと、はにかみながら話してくれた。
 轟はとっくにすべてを呑み込んでいる。呑み込んだからといって、痛みが綺麗に消えるわけではないのだろう。だが、そんな過去に支配されるのもよしとしていない。
 うっとりと気持ちよさそうに撫でられていた轟が安定した寝息を立てはじめるまで、そう時間はかからなかった。轟くん、と小さく呼びかけても、もう反応はない。
 布団からはみ出たままの温かな手を握り直し、布団の中に戻してやる。
「僕だって、君のことを守りたいんだ」
 途方もなく強い轟に捧げるには滑稽すぎるその誓いをやわらかな夜の闇にそっと置き、飯田は目を瞑った。
 いつだって、飯田は轟のやさしさに守られてきた。そばにいたいという飯田の望みを受け入れ、大切にしてくれている。初めてまともに性的接触をした程度で大袈裟な、と思わないでもない。だが、飯田は昔から己の感情にはよくも悪くも素直だった。それに、轟が眠ってしまって聞いていないのなら、何を言ったところでこの気持ちを押しつけることにはならない。だから、素直になってもいいはずだ。
 す、と小さく息を吸い込んで、飯田は囁いた。
「愛しているよ、轟くん」
 そして、その愛には愛以外の名前はない。轟が変化を望む日がもし来たら、改めて一緒に考えて、形を与えてやればいい。
 とっくにそう決めている。
 それが明日でも、十年後でも構わない。あるいは、訪れることがなかったとしても、悔やむことはないだろう。
 いつもより深い夜、愛おしい人の隣はただ暖かかった。