ラスト・フラワーズ

9月末まで公開予定。おおしまさん(会場配置 あ4『天然自然館』様・pixiv twitter)主催の死ネタ本寄稿分です。再録許可済みにつき期間限定で公開します。
ロナルドくん没後100年頃の半田くんが廃墟化したシンヨコを訪れる話です。

※気候変動による市街地の荒廃、水没などの描写があります。


 借りたモーターボートは古びていたが、意外と小回りがきいた。崩れたビル群や打ち捨てられた民家の合間をすいすいと進み、角を曲がる前に前方からやってきた別のボートと進路がぶつからないようハンドサインを送ると、動いたはずみで袖口と手袋の間が開き、素肌にピリッと痛みが走った。

 うっかりしていた。傾きはじめているとはいえ、まだ日は高い。半田桃は日焼け止めを塗り直し、固定した真っ黒なパラソルの陰の中で滴る汗を拭った。

 子供の頃のこの時期はこの辺りでも風がさわやかだったはずなのに、近頃ではそんな日は年に一、二日でもあれば上出来らしい。日光や熱を遮断する服や日傘は年々進化を遂げ高機能になっていくが、どう頑張っても暑いものは暑いし、サングラスを通したところで太陽光は毒々しいままだ。

 二十年ほど前に移住した先の街は山の中にあり、暑いのが極めて苦手なある同胞が酷暑のときには適度に冷やしてくれているため、時期にかかわらず快適に過ごすことができている。だけど、ここ新横浜は、横浜中心部の都市機能を維持するために古い街の上に層を作りすべてを建て増しした際に、県の行政からも国の行政からもおそらく意図して忘れられ、結果、さまざまな手配が後回しになり、気候変動の煽りを容赦なく受けていた。

 かつて少子化の影響により一気に減った人口は、ここ数十年でさらに減少している。内陸まで広がってしまった海面の上昇も止まらない。残った住人たちもとうとう地域ごとにじわじわと移住勧告を突きつけられ、ほとんどが近隣の横浜や過ごしやすさを求めて北のほうへと越していってしまった。

 半田は時間の許す限り、この衰退の一途を辿る街で過ごしていた。遺骨は墓ではなく手元に置いてあるし、指輪だって肌身離さず持っている。なのに、それではまるで足りなかったからだ。

 だが、ついに来月からこの一帯も原則として立ち入り禁止となってしまう。かなり前から覚悟はしていた。かつてあの事務所があった土地と建物の所有権は手放していないから、監視の目を盗んで潜入することはできる。しかし、自分と比べてひ弱な人間たちを危険に晒すのはなるべく避けたい。そんなわけで——けして、諦めたのではないが——しばしの別れを告げるため、半田はここに訪れていた。

 共に汗を流し、ちょっかいをかけては罵り合いになり、肩を組んで笑って、最後には静かに見送った友の足跡そくせきは、もうとっくにこの街から消えている。それと前後して身につけざるを得なかった分別は、自分をずいぶんとつまらない男にしてしまったものだと、かつての通学路を覆う水路にボートをまっすぐに滑らせながら小さくため息が溢れた。

 側に置いたクーラーボックスは、ひとり分にしては少し大きい。蓋を指の関節でコツコツと叩いているうちに坂道に差し掛かり、水深が浅くなってくる。夏場はこの最後の坂を登るのが大変で、暑さを避けるためにわざわざ早朝に登校していた。それを聞いて、頭いいな、と笑ったくせに、あのバカは結局いつも予鈴ギリギリに駆け込んでいた。冗談のように汗だくになって、もう無理、明日は絶対早く来る、と唸るくせに翌朝も同じことを繰り返す。

 二百年近くも前のことだが、いまはまだ昨日のことのように鮮明に思い出せる。

 道路の切れ目から生えるようにちいさな船着場が設えてあるのを見つけ、半田はボートをそこに停めた。パラソルを外し、背負った登山用のリュックに固定して大きな日陰を作る。涼しくはないが、日が当たらなければなんでもいい。

 降りた時に少しばかりぐらついたので屈んで確認すると、支柱を固定するロープが緩んでいた。予備のロープを取り出して慎重に結び直せば、真新しい蛍光色の緑が目を眩ませる。それは取り返しのつかないほど朽ちてしまった街の中で大きく胸を張っているようで、どこかなつかしく、微笑ましかった。

 半田は肩から提げたクーラーボックスの中から冷えすぎてしまった血液パックを取り出し、首に当てながら坂の残り半分を登りはじめた。気温は人間の体温よりも少し高いくらいで、到着する頃にはパックもきっと飲むのにちょうどいい具合になっているだろう。炎天下の新横浜に出かけるなど正気か、と呆れながらも準備を手伝ってくれた大先輩の同胞に改めて感謝をしつつ、半田は足を動かした。

 坂の上にたどり着き、校門までの一直線の道に踏み入れる。割れたアスファルトには埃っぽさが残るものの、沿道の家々から道を埋めそうなほどに溢れ出す緑は鮮やかで、深く、静かだった。ジャスミンの香りがかすかに鼻に届く。どこかの家の忘れ去られた生垣が好き勝手に蔓を伸ばしているのかもしれない。これが知らない場所で、ここにいるのがあの頃の三人なら、わくわくと探検に繰り出していただろう。

 感傷を無理に抑えたりはしない。もう一度、向き合うために来たのだから。

 

 

 ロナルドに『俺を看取ってほしい』と頼まれたのは、ロナルドが九十歳の誕生日を迎えた翌日だった。当日は都合のついた何人かで入院先の病室に集まり三十分ほど滞在してから帰ったのだが、『相談がある』とひとりだけまた呼び出されたのだ。

『妹もいい歳だし、姪っ子に後のことを頼むのもしんどくってさ』

 一時は半田の上司だったロナルドの兄には子供はおらず、妹の子は晩婚で遅くに生まれた子供はまだまだ手がかかる。そうでなくとも、これからも増える一方の検査入院やこまごまとした不調のたびに、あまり関わりのなかった伯父の世話をさせるのは忍びない。ロナルドはそう話して、『頼めねぇかな』と締め括った。

『ドラルクは?』

 長年の相棒の名を出せば、ロナルドは少し迷ってから口を開いた。

『弱ってるとこ見せたくねえんだよ。ほら、一応退治人と吸血鬼だしな』

『俺もとっくに吸血鬼なのだが』

 呆れる半田に『そうだっけ? もう歳だから覚えてられねえんだよな』とロナルドは頭を掻いた。誤魔化すのは相変わらず下手くそだった。大方、楽しいことだけをしていたい相棒に、これ以上迷惑をかけたくないとでも思っていたのだろう。確かに、復活するとはいえ少しの衝撃で簡単に灰になってしまう吸血鬼よりは、力仕事にも慣れている半田のほうが適任だろう。

『わかった。俺は何をすればいい?』

 色々と聞いた割にしっかりと頷いた半田に、ロナルドは『いいの?』といまさらの遠慮を見せた。

『実は先日退職して、とんでもなく暇を持て余しているのだ』

 そのことはロナルドも知っていて、ああ、と納得の顔を見せた。吸血鬼対策課の再編成により、定年退職後は教官として働いていた半田は十八歳で就職して以来、初めて完全に無職となっていた。不動産収入も多少あるし、全世界規模で経済が破綻しない限りまったく働かずともしばらく問題はない。だから、ちょうどよかったのだ。

 翌週、退院したロナルドと話し合い、諸々の都合を考慮して結婚することにした。書類だけでは味気ないからと贈った指輪を、ロナルドは『迷子札のようなもんか』とくるくると楽しげに弄び、半田の指に嵌められた揃いのプラチナと見比べて『これで保護者が誰かちゃんとわかるな』と笑っていた。

 そして、半田はその頃にはロナルドが買い取っていた事務所ビルに引っ越した。新居は身体の自由が効かなくなるのを見越して、数年前に改装されていた二階の部屋だった。ドラルクは相変わらず使い魔のマジロとともに三階の事務所に住んでいて、半田たちのフロアにもよく差し入れを携えて遊びにきていた。ドラルクを訪ねてくる顔馴染みたちもついでに様子を顔を出すようになって、『新婚家庭の邪魔してんなよ』と文句を言いつつ、ロナルドはうれしそうだった。

 もっと若いうちにそんな選択ができていたなら、どんな人生になっていただろうか。そんな選択が提示されていたら、自分は正しく選べただろうか。ロナルドと過ごした最後の十年の間に、半田は何度も自分自身に問いかけた。

 だけど、結論が出せないうちにその時は訪れた。

 ある夜、季節外れの風邪から無事に回復したはずのロナルドは、『思ったより長くかかっちまったな』と言い残して眠りについた。ある胸騒ぎがして、寝息が深くなっても半田はロナルドの側を離れなかった。何かあればすぐに契約している医療スタッフを呼び出せる手筈となっている。だが、そんな兆候も見せないうちに、翌朝にはロナルドの心臓はゆっくりと、別れを惜しむかのように止まった。

 そして、一晩中その最後の寝顔を眺めていた半田は、ようやく結論を得た。

 これでよかったのだ。そう納得した。

 

 

 閉ざされていたはずの門扉は、軽く押せばあっさりと半田を迎え入れた。母校には、吸対の下っ端隊員時代にも就職説明会で何度か再訪したことがある。退治人ギルドとの合同開催の際には、同じクラスだったロナルドとともに登壇し、元担任に『なかなかの問題児だった』といじられつつ、生徒たちの個別相談にも揃って応じた。あの時、目を輝かせて話を聞いていた子供たちも、きっともうほとんどが生きてはいない。

 ただの自然の摂理だ。忠告されるまでもなく、生死について考えはじめた頃には自覚のあることだった。

 校舎周りのフェンスをよじ登って外階段の出入口から建物の中に侵入する。見咎める者はいない。鍵もとっくに誰かが壊してしまっている。

 時の止まった廊下を進むと昇降口が見えてきた。

 ひらけたその空間に並ぶ靴箱は、自分たちが卒業してから何代も後まで違う生徒たちが毎年使っていたはずだ。入れ替えだってあっただろう。それでも半田はひとつの靴箱の前で立ち止まった。廊下側寄りの、上から二列目。中を開けても当然空で、かかとのひしゃげた上履きなどは入っていない。

 教室を覗くと、誰かが飲み食いしていったような痕跡があった。この辺りにも若者がまだいて、肝試しでもしていたようだ。治安的には顔を顰めるべきところなのだろうが、口の端がわずかに上がる。

 二十代の頃、廃ビルや廃病院を探検するのに熱中した時期があった。半田はパトロールも兼ねていると言い訳していたが、毎回飽きもせずに参加していたのは、騙して連れてきたロナルドの一挙手一投足を見ていないと気が済まなかったのに加え、危なっかしい悪友で共犯者——カメ谷のことが心配だったからだ。あとは、純粋に楽しかったのだと今では思う。その後、自分もカメ谷も昇進して、なし崩しに三人での探検はなくなってしまった。時が流れれば、それだけ置き去りにするものもある。それもまた自然の摂理だ。

 埃っぽい空気を吸い込むと軽く咳が出た。もう少しひとが入りにくい部屋を探すべきだろう。吸血鬼も退治人もこの地を離れ、吸対の後継組織もさらに再編されてしまっている。以前よりもずっと平和な時代になったとはいえ、吸血鬼と人間の力の差は歴然だ。出歩いていて当然の夜ならともかく、もし昼間に見つかれば要らぬ警戒をさせてしまうだろう。ならば、時間が来るまで身を隠したい。

 ぐるぐると歩き回り、比較的新しそうな(とはいえひとが入らなくなってから八十年ほどは経っている)部屋に決めた。寝袋を用意して保冷剤をいくつか仕込む。そして、適温になっていた血液パックで食事を摂り、着替えの入ったバッグを壁に吊るし、夜が来るまで仮眠を取るために寝袋に潜り込んだ。

 

 

 ほんの十年の間、ロナルドは半田の伴侶だった。互いに焦がれるような思いもなく、燃え尽きるまでの日々に伴走するのを楽にするための関係は、思いがけず充足感のあるものだった。

 若い連中の相談に乗っている時は格好つけた物言いをするくせに、半田にはことあるごとに『面倒をかけて悪いな』とぼやく。だから、『本当に世話の焼けるやつだ』と偉そうに言ってやれば、安心して世話を任せてくれた。食が細くなっても何でもうまそうに食べ、たまに昔と変わらないうろ覚えの語彙でリクエストを寄越した。頭は明晰で体力もあり、日課の散歩だけでなく年に数回は講演や実技指導の依頼をこなし、入退院もたまにあったものの、八年目までは介助もほとんど必要なかった。

 周りはそんな生活を適度な距離をもって見守ってくれていた。先に見送ることになった人間の友人たちも、相変わらずの同胞たちも、愉快でくだらない話を山ほどしていった。それでも、ふたりの選択について立ち入ったことを聞いたりすることはなかった。だが、肝心のロナルドには『結婚、早まったんじゃないか』と何度か本気で心配された。その度に、半田は『遅過ぎたぐらいだ、バカめ』と返していた。

 半田がその言葉に含んだ意味と真面目に向き合ったのは、ロナルドがいなくなってからだった。

 

 

 日が沈み切る前に目を覚まし、半田は軽く身支度を整えた。

 これから大切な逢瀬がある。光から守ってくれるコートやサングラスは不要だ。すべてリュックに突っ込んでから手袋も外して顔を綺麗に拭い、髪についた埃を鏡で確認しながら丁寧に払ってから着替える。廃墟にこもっているとはいえ、出来る限りのことはしておきたかった。

 新しく仕立てたスーツは生地が軽く、表面には淡い銀色の光沢を帯びている。タイはさっき見上げたものよりもずっと深い空の色で、白いシャツに合わせれば胸が痛むほどに鮮やかだ。重厚な金色の三角形のカフスボタンは左耳につけているピアスと揃いで、いつものネックレスはシャツの中に隠すように下げている。

 こんなところで過ごすには無理のある格好だ。いまさらどうして、というのは半田自身も強く感じているところだった。思いついたら止まれない性格はダンピールだった頃からあまり変わっていない。

 荷物をまとめ直し、工具入れを取り出しやすいところに移動させてから、まだ割れずに残っている階段を一段ずつゆっくりと登る。崩れたところで身体は頑丈だから問題はないが、せっかく持ち込んだものをここで台無しにしたくはなかった。時間をかけて最上階まで辿り着き、さらに上を目指す。

 屋上に出る扉は、意外にも閉ざされたままだった。ワイヤーで厳重に縛められているのは、もしかすると一度突破されたものを誰かが締め直したのかもしれない。

半田はそれを躊躇なく切った。あとで戻すから、問題はない。

 軋むドアノブを回して重い扉を開けば、最後の陽射しが腹いせのように凄まじい光量で屋上のコンクリートを照らしつけていた。日陰にレジャーシートを敷き、万一の雨に備えてパラソルを台座に立てる。そして、簡易クッションを膨らませ、その上に腰を下ろした。

 陽が沈むのをパラソル越しに眺め、半田はクーラーボックスから吸血鬼向けのスポーツドリンクを取り出しちびちびと染み渡らせるように飲んだ。身体をふたたび適度に冷やしたところで、クーラーボックスをもう一度開き、中身を確認する。収められているのは、透明な耐冷容器に覆われた花束がひとつ。それは凛と凍っていて、数日は割れることも溶けることもない。準備を手伝ってくれた同胞のお墨付きだ。

 吸対としてかつて対立したこともあったこの同胞とは、転化後に父の紹介で初めて顔を合わせた。先入観をいったん捨て、常識と礼節、そして園芸趣味という共通点をもって接していれば同じ態度を返してくれて、心強い味方となってくれた。弟子の友人、あるいはその弟子の相棒だった人間の伴侶、あるいは親友と友誼を結んだ元人間である同胞の息子。ひと言では説明しづらい間柄で、交流の頻度も多いわけではない。

それでも、困った時には吸血鬼の先輩として教えを乞うこともあるし、季節の挨拶も欠かさないようにしていた。その縁もあって、此度の無茶で無為な頼み事も、小言付きではあったけれど聞いてもらえた。ドラルクも最初こそは不気味がっていたが、最近では認めてくれたのか兄弟子風を吹かせている。それも案外悪くはない。

 ロナルドが知ったら、きっと驚くだろう。もしかしたら、拗ねるかもしれない。俺抜きで楽しそうじゃねえか、といじけた声が聞こえてきそうだ。長く生きて、ほとんど最後まで元気なままで死んだくせに。悔しかったら化けて出てみろ、バカめ。

 想像の中にしかいないロナルドに軽く悪態をつきながら、半田はクーラーボックスを閉めた。始まったばかりの夜は、まだ昼の名残りの熱を空気に重たく抱いている。花の出番はもう少し後のほうがいいだろう。

 夕陽が紫色に拡散し溶けていく薄暮の中、半田はリュック下部のコンパートメントから厳重に梱包した本を二冊取り出した。一冊は、ロナルドが晩年に出していた回顧録。もう一冊は本棚の前で目を瞑り、「これだ」と指差し選んだもので、長く続いた自伝小説『ロナルドウォー戦記』の中でも売れ行きがそこまでよくなかったものだ。

 質としては前の巻と遜色なかったが、あの年は全国的に本の売り上げが低迷していた上に、退治人がらみの不祥事が相次いでいた。俺はもうおしまいだ、と無関係なのに嘆くロナルドを遠隔で監視しつつ、勉強のためにと行かされた吸対広報部で退治人のイメージ回復戦略の立案と実行を手伝った。そして、半田がそこを去る頃には『ロナ戦』の次巻広告が駅や書店にまた貼り出され、ロナルドもほんの数ヶ月前にキャリアの終焉に怯え震えていたことなど忘れたかのように、ヘラヘラと呑気にファンと交流したり、くだらない悪さを仕掛ける吸血鬼たちに振り回されたりしていた。

 この『ロナルドウォー戦記 サンダー・ボルトの帰還』編を引き当てたのは偶然だったが、さまざまな要因できっとこれから忘れられてしまうシンヨコで過ごす最後の夜にぴったりだった。複数の事件をまとめた短編集で、半田が関わったものも収録されている。表題作は中程にあるが、いつもどおり最初から読むことにした。

「……『やはり、最後に頼れるのは腕力だ。拳が音を立てて空を切り、危機を葬り去る。そんな場面に、俺は幾度となく直面してきた』。フン、初稿で『暴力』と書いて修正された大間抜けめ。口癖をそのまま載せる奴があるか」

 実際のところ、この頃のロナルドのことを半田はあまり知らない。昇進や異動で時間が取りづらくなり、以前ほど偶然に顔を合わせることも、抜き打ちで事務所を訪れる機会も減っていたからだ。外に出ている時に姿を先に見つけられては駆け寄られ、そのくせ何かを警戒するように数メートル先で止まるといった一時期のロナルドの奇行のことだけはよく覚えている。

「あの頃の貴様はどこかおかしかったな」

 薄くなった蛍光ペンの跡を指先でなぞり、半田は問いかけてみた。謎は謎のまま、答えが返ってくることはない。もうすべて終わったことだ。

 半田は開いたページに視線を戻し、読書を再開した。校庭はしんと静かで、深い闇に覆われていた。街灯もこの辺りではもう点かない。それでも頭上に瞬く無数の小さな光源があれば文字を追うことは容易い。気が向けば朗々と声を張りあげて音読し、「話を盛りすぎだ」「ここは悪くない」「俺はもっと格好よかったぞ」などと語りかけた。聞いているひとなど自分以外にいないから、遠慮はしない。

 しばらくして読みかけの本を閉じ、半田はネクタイを少しだけ緩めた。やはり暑い。昼間ほどひどくはないが、暑くてなにも格好などつかない。ハンカチで汗を拭い、水分補給も忘れずにする。一息ついたところで、本に没頭しているうちに空が少しずつ明るくなっていたことに気づいた。見上げれば、半分よりもややふっくらとした月がのんびりと浮かんでいる。ロナルドがいれば、『オムレツみたいだ』とでも言いそうだ。

 立ち上がって伸びをすれば、シャツの中に収めていたネックレスが微かな音を立てる。ふと思いついて、半田はネックレスを取り外し、先端に吊り下げられた指輪を月明かりに翳した。艶消しの金属のやわらかな輝きはまるで微笑んでいるようで、半田もつられて頰をゆるめた。

「お前に見せたいものがある。とは言っても、もうとっくに見えていただろうが」

 指輪はただの物体だ。家に置いてあるロナルドの遺骨も、年々古くなっていく本たち、写真も映像媒体も。だが、半田は意図して語りかける。言葉を受け取ってくれる相手がまだそこにいるかのように。

 花束をケースのまま屋上のコンクリートの上に置くと、それは小さな祭壇のような佇まいを見せた。半田はその前に跪き、外したネックレスをその上に載せて左手を重ねた。かち、と指輪同士が軽くぶつかり合って、胸の奥が甘く波立つ。

「星が消えてしまったな」

 月の明かりは眩く、小さな星たちでは太刀打ちできなかったようだ。

「自分で考えて花束を作ったのは初めてだった」

 計画を思いついてから数ヶ月。半田は手ずから育てた青のユーストマを摘んだ。当然、母にも鉢植えのものを夏の初めに贈っていて、とても綺麗だと喜んでもらえている。

 青のグラデーションが可憐なその花はここ三十年ほどで開発された品種だ。仏花にも使われているようだが、最近の人間の流行など半田は知らない。ただ、本来のロナルドを思えば青しかないと思った。そして、ずっと纏い続けた赤も蔑ろにはしたくなくて、同胞に相談した際にバラを分けてもらい、一輪だけそこに加えた。美的感覚も何もあったものではない。子供っぽさを集めて束ねた、ロナルドのためだけの、自己満足の花束だった。

『赤いバラ一本は「一目惚れ」を意味するが、いいのかね? 私もよくお嬢さん方に渡すのだが』

 同胞にせっかく教えてもらったが、あいにく花言葉に頓着するような情緒は二世紀ほど生きたところで身に付かなかった。

 それでも、ここまでの道中、ふと考えた。ロナルドと出会ったときの衝撃が本当に一目惚れだったのだとしたら、どうなっていただろうか、と。

 実際はそうではない。半田自身、よくわかっていた。

 初めて言葉を交わし、笑いかけられた瞬間、目が離せなくなった。憤りなのか苛立ちなのか嘲りなのか判別できないものに支配され、目で追っているうちは何も考えられなかった。初めてのその制御できない感情を、恐ろしく思ってもよかったはずだ。なのに、生まれ変わったような活力が湧いてきて、それに身を任せた半田は大きく飛躍した。

 なりたかった自分とは、もしかしたら少し違ったのかもしれない。バカになったとすら思った。なのに、長く付きまとって一緒にいるうちに、なぜかロナルドの信頼と友情を勝ち取っていたのだ。

 それがわからないほど無粋ではない。だから、ロナルドを看取る約束も果たした。

 その後の自分のことなど、どうでもよかった。

 だが、ロナルドがいなくなってから、わからないことが年々増えていくような気がしていた。

 考えるために、相談所を開き、退治人ギルドに登録をしてみた。形見のピアスのレプリカを作り、ロナルドと同じように耳に穴を開けた。文章を書くことについては真似すらうまくできずに早々と諦めてしまったが、それ以外にもロナルドがしていたことや、しそうなこと、反対にまったく似ても似つかないことなど、さまざまなことを半田は進んで体験してきた。

 いまのこの行動など、その最たるものだろう。ロナルドが若い頃に憧れていた、ロマンチックで特別な一夜。酔っ払うとああしたい、こうしたいと、相手もいないのに脈絡なくわめいていた。そんなあやふやなものをまともに提供できるはずがない。だから、半田なりに考えたらこうなった。

 正装し、花を用意して、思い出の場所でふたりきりになる。月明かりが語らいに華を添え、敷地の外に広がる荒廃した住宅街に自由を謳歌するように猛然と生い茂る緑の作る闇が、ほかのあらゆるものを呑み込んで、この場をひっそりと隔絶している。

 連れてきてよかった。

 連れてきてやりかった。

 相反する思いをなだめるように、チェーンに通した指輪を手の中でくるりと回し、そっと唇を触れさせた。いつも肌身離さずつけているのに、キスをしてみようと思ったのは初めてだった。ロナルドにしてやったら怒られただろうか。嫌がられただろうか。

 そうでなければいい、と半田はわずかに眉を寄せた。答え合わせは叶わない。都合のいいように思っていればいいのに、まだそう思いきれないのが滑稽だ。

 半田はレジャーシートの上に戻り、少し離れたところから花束を眺めた。水色から藍色に移り変わる花の色に、あの瞳の色を探してしまう。バラの花弁に、闇夜にはためくジャケットの赤を探してしまう。

「こっちのほうがいいな」

 閉じた本をそのまま置いて、半田は回顧録を手に取った。表紙を飾る写真は、にやりと笑いまっすぐにこちらを見つめるロナルドの姿で、二十代の頃に撮られたグラビアと同じ構図を意識したものだった。数年ぶりに赤いジャケットと帽子を身につけたその写真は、往年のファンたちの間でも話題になったのをよく覚えている。半田も再版されるたびに数冊購入していたし、中古でもなるべく集めていたが、もうどれもかなり古くて表紙も色褪せてきてしまった。

 この一冊は、その中でも特別な一冊だった。

 表紙を開けば、力強い筆致の下手くそなサインが目に飛び込んでくる。その上には、半田桃様へ、とカクカクとした他人行儀な宛名が不自然な小ささで添えられている。何十年も書いてきたくせに、字はさっぱり上手にならなかった。この頃にはもうサイン会はできなくなっていたが、サイン本を作るとき、夫なのだから一度くらい最初に書いてくれ、と頼む前にロナルドはサラサラとペンを走らせていた。

『ほら、お前のぶん、最初に書いたぜ。名前じゃなくて、愛するダーリンへ、とか書いたほうがいいか?』

『それはいらん。……ありがとう』

 おう、と笑ったロナルドは、表紙の写真よりもずいぶんと気の抜けた顔をしていた。

 愛するダーリンなどとふざけて言われたのも、それが最初で最後だった。まるでいつもどおりの調子だったし、半田も笑って流した。流さなければよかったのだろうか。

『ちょっとくらいは思い出になるといいな』

 その頃には口癖になっていたその言葉にどう返したのか、半田は覚えていない。

 中の厚紙をめくれば、二十代のロナルドの写真がカラーでそこに載っていた。表紙の写真ほどの余裕はなく、口の端と目元が少し引き攣っている。それを見て、まだ新人の雑誌記者だったカメ谷が、『俺ならもっとうまく撮れるのに』と個人的に撮り直すと言い張った。ポーズを何度も取らせて表情も指導していたのに、撮った本人が納得しなかったのか仕上がったものは見せてもらえなかった。

「あれは結局どうなったのだろうな」

 問いかけに返答がないことにもようやく慣れてきた。

 

 

『俺のこと、なるべく早く忘れろよ』

 何か印象深い出来事がある度に、思い出ができたかと確かめてから、ロナルドはそう軽やかに笑っていた。

『いつまでも執着すんなよ? お前の人生、これから先が長いんだから』

 そんなことを言い続けていたくせに、一度だけ血を飲んでほしいと頼まれたことがある。

『俺の味、知りたくねえの?』

 悪だくみをするような笑顔に、こんがらがって解けないまま燃え続ける激情が久しぶりにその獰猛な顔を覗かせた。

『不味かったら明日は久しぶりにセロリ尽くしだな』

『やめろって。心臓止まっちまうだろ』

 生涯にわたり不俱戴天の敵としていた野菜の名に笑いながら、ロナルドは皮膚の落ち窪んだ首筋を晒したが、手当てのしやすさを考慮して半田は腕に牙を突き立てた。ぬるい熱が舌に触れると、芳醇な甘みにくらくらと意識が遠のいた。心ゆくまで味わい、最後の一滴まで飲み干してしまえたら、どれほど幸福だろう。

『どう? やっぱ不味い?』

 ロナルドの諦めたような声に我に返った。

『血の味は、よくわからん』

 これまでは本当にそうだった。無着色の人工血液を主に飲んでいたのは周りの人間たちへの配慮ではなく、何年経っても馴染めなかったからだ。

 だが、半田はこのとき初めて、血の、生命の味を知った。

『……いや、悪くなかった』

『もっといる?』

『そのうち貰おう。無理はするな』

 そのうち、は結局訪れなかった。

 半田がロナルドを夜にいざなわなかったことを、ひとりを除き、昔馴染みの同胞たちはみな不思議がっていた。それとなく聞かれるばかりだったので、半田がその疑問を解消してやったことはない。

 母と添うことを決めた父のように、吸血鬼やダンピールの伴侶の人間が吸血鬼になるのは珍しくないことだ。それでもロナルドがそうならなかったのは、検討しはじめた時期があまりにも遅かったから、と納得してもらえていたように思う。

 真相は、それよりも少し複雑だった。

 願えば頷いてくれただろう。だから、願ってはいけなかったのだ。ロナルド自身が心から望んでいないものを、半田が誘導するわけにはいかなかった。覚悟もない奴を無理に連れてくる気はなかった。

 ダンピールとして産まれ、吸血鬼としての永い未来を見据えはじめていたからこそ、そう決めた。ロナルドも、何も言わなかった。

 これは、どんな記録にも残っていない、ふたりだけの話だ。

 

 

 回顧録を読み終える頃には月も星も消え、空が白みはじめていた。分厚い本ではないが、ページを捲る手が何度も止まり、読み上げる声がつかえてしまった。血液パックをもうひとつ開ける。ゆっくりと味わいながら薄れゆく夜空を眺め、取り留めのない言葉たちをもうとっくにいないロナルドに投げかけた。

 貴様は最後までバカだった。

 毎晩毎晩、無防備な寝顔を晒しやがって。

 頭はずっとはっきりしていたくせに、都合が悪くなると急に歳のせいにしやがって。

 都合がいいからと互いに納得して伴侶になっただけなのに、全力で幸せそうに笑いやがって。

そのくせ、変に遠慮しやがって。

 忘れろと言われて、俺が素直に忘れてやるとでも思ったか。

 溜め込んでいた恨み節は、唇からこぼれるたびに胸の中に温かな火を灯していった。

 チリチリと耳の先が熱い。朝日がもうここまで届いていた。パラソルを移動させようとして、ケースに収めたままの花束に目が止まる。

 そうだ。ちゃんと渡してやれていなかった。

 ケースから花束を取り出すと、それはまだしっかりと凍ったままで、素手で触れたところに張り付くほどだった。

 昇りはじめた太陽に向かい、片膝をつく。まだ淡い光が頬をわずかに焼き、うっすらとした痛みに唇が歪む。それでも久しぶりに見る朝日は美しく、目を細めたまま思わず見惚れてしまった。

 時間はもうない。半田は膝をついたまま、花束を目の前に恭しく掲げた。金色にやわらぐ陽光を透かして、やさしく花弁を守る溶けない氷の粒たちが朝露のようにきらめく。

 涙はいまさら流さない。半田は去り行く夜の清々しさを肺いっぱいに吸い込んでから、魔法を解くように囁いた。

「ロナルド。俺は今でも、お前を愛している」

 百年越しに初めて声に出してみると、どうにも頼りない。自覚するのも遅く、それゆえに届けるあてもない言葉など、弱くて当たり前だ。そして、当たり前のように、続きの言葉は何もない。ただ、夜明けだけが静かにそこにある。

 そういえば、ほとんど呼ぶことのなかったロナルドの本名も、夜明けにちなんだものだった。

 半田はそのまましばし朝陽を浴びていた。あまりの眩しさにさっきよりも強く痛みを覚えるが、もう少しだけここにいたい。もう少しだけ、その強烈な光に焼かれていたかった。百年にも満たない間、ロナルドという光に焼かれ続けていたように。

 やがて限界が訪れた。

「……っ、はぁっ」

 耐え難い痛みに姿勢を崩し、半田はパラソルの影に倒れ込んだ。花束を抱えたまま、半分ほど残してあった血液パックを一気に飲み干す。頬と耳の痛みはすぐに引いたが、目元はまだかなり腫れぼったい。どう考えてもやり過ぎてしまった。

 あるいは、もっと取り返しのつかないことをするつもりだったのだろうか。

「まさか」

 当然、帰る予定で準備をしてきた。半田には半田の生活がある。ぼんやりと焼かれて戻らなかったとしたら両親をひどく悲しませてしまうし、同胞たちにはきっと呆れられてしまう。新しく始める仕事もあるし、頼まれていたことだってある。

 それに、灰になってしまっては、いくら半田でもロナルドのことを覚えてはいられないだろう。

 戻らない理由など、ひとつもなかった。

 呼吸を整え、半田は帰り支度を始めた。本を片付け、レジャーシートを畳み、コートはリュックに突っ込んだまま手袋とサングラスをつける。そして、最後にまだ凍ったままの花束をなるべく長く日陰になるところに置いた。

 美しい夜の、穏やかな幕引きだった。

 建物の中に戻り、半田は持参していたワイヤーで再度ドアノブを固定した。そして、教室から机を運んで、屋上へと続く階段をざっくりと埋めるように積み上げた。バリケードというよりは、ただ無造作に邪魔なものを傍に寄せているように見せておく。ずっと残るものではないが、氷が溶けてしまう前に花束を荒らされたくなかったのだ。

 工作を終え、達成感を胸に半田は階段を降りていった。

 

 

 来た道を辿って校庭に出て、もう一度校舎を振り返る。

 ここへはもう来ることはないだろう。気が済んだと片付けてしまうには、まだ心臓がふわふわと落ち着かない。だけど、ひと区切りはついたはずだ。屋上に目をやるが、そこに戻りたいとはもう思わない。

 昇りはじめた太陽はまだ建物の陰に隠れているが、煩わしく感じるほどには光を強く放っていた。

 ゆっくりと校舎に背を向け、パラソルをさしてから校門を目指す。すると、半分ほど進んだところで、異様な風体の人影が門扉の端から姿を現した。

 昔の宇宙服とも見まごうような、もこもことした銀色のシルエット。頭部は真っ黒なフェイスシールドの大きなヘルメットに覆われている。背は半田とあまり変わらない。首からは年代物の一眼レフを下げているが、つけているレンズは特注品で、吸血鬼でもまったく問題なく写せる優れものだと半田は知っていた。

 その宇宙飛行士(仮)は半田に向かって大きく手を振った。スピーカーのざらついた音声が静まり返ったグラウンドにやわらかく響く。

「やっぱりここだった」

 半田は手を振り返し、特に歩調を速めることもなくゆっくりと校門に近づいた。そして、声が届くところまできて、ようやく返事をした。

「その格好はなんだ」

「これ、意外とちゃんと涼しいんだよね。冷却機能もついてて、寒いくらい。見た目ほど重たくないし」

「そんなことを聞いているんじゃない」

 シールドの中でにまにまと細められたメガネ越しの赤い目を想像して、急にむず痒い気持ちに襲われる。

「うーん、いくつか心当たりはあったんだけど、事務所はハズレだっただろ? なら、原点に立ち返るかなあ、と。ボート屋さんが閉まってて、こんな時間になっちゃった」

「いや、そもそもなぜここにいるのだ」

 カメ谷、と半田はほとんど唸るように名を呼んだ。

「ほら、もう最後だからさ、次の企画展のためにロナルドの足跡をいま一度辿る、みたいなの……一度はもう何もないからってボツにしたんだけど、やっぱり来たくなっちゃった。あとは、記者の勘?」

「いつの話だ、記者など」

 坂までの一本道を歩きはじめると、カメ谷がぽてぽてとついてきた。本当に見た目ほどには重くないようで、足取りは異様なほどに軽快だ。

「……実は、心配でもあったんだ。お前が早まったことしてないかなって」

「そうか」

「顔、まだ赤いけど」

 黒いレンズ越しでもわかるくらいダメージがまだ残っているのか、カメ谷がフェイスシールドの頬のあたりを指差した。

「血液パックの手持ちがないのだ」

 軽くなってしまったクーラーボックスを振ると、カメ谷が「横浜に出たら買おう。宿も取ってあるから」と頷いた。

 物心のついた頃からいつか母と同じ吸血鬼になるのだとわかっていた半田とは違い、カメ谷は人間の家庭に生まれ育ち、半田たちと同じ高校に入るまで吸血鬼との接点はあまりなかったと聞いている。そんなカメ谷はふたりと出会い、『週刊バンパイアハンター』の記者となり、悪友のひとりである吸血鬼退治人ロナルドの活躍を追って、果てには追悼記事を書くのを誰にも譲るわけにはいかないという恐るべき執念で吸血鬼にまでなった。

 転化した理由については、ロナルドが死んで二十年後くらいに、特に前ぶれもなく打ち明けられた。急にどうした、と狼狽える半田に、カメ谷は『いいね、その顔』と笑いながらカメラを向けた。

「透くんがハロウィン企画の提案書をもう送ってきたんだけど、打ち合わせ入れそう? 来週中か再来週頭なんだけど」

 歩きながら、カメ谷は仕事の話を始める。

「せめて俺の入社後にしてくれ」

「だよな。じゃあ、調整しておく」

 ロナルドの生前からカメ谷が準備していた『吸血鬼退治人ロナルド記念資料館』に直接関わることを、半田はこれまで避けていた。資料の提供は惜しまず、どんな些細な相談にも乗り、移転の際には事務や採用業務を手伝うために業務委託契約もした。だが、それ以上踏み込むことは絶対にしなかった。

 伴侶としての主観を入れたくないのだと説明したら、顧問役のドラルクが『オタクってめんどくさい』と耳の縁を崩しながらげっそりと呟いていた。きっと、結婚などしていなければ、嬉々として手を出し口を出し、いずれ館長の座まで乗っ取っていたかもしれない。

 そんな思いを見抜いていたのか、カメ谷は根気よく、『一緒に働かないか』とほぼ毎年のようにオファーをくれていた。どうして今になって急に乗ってきたのか、ということは聞かれなかった。どうしてロナルドを吸血鬼にしなかったのか、と聞かなかったのと同じで、聞く理由がなかったのだろう。

「最近また退治人ブームだろ? ご新規さんがそこそこ来るようになって、ありがたいことに結構忙しいんだ。お前がやっと決断してくれて助かるよ」

 帰り道も緑がさわやかで、またほのかにジャスミンの香りが漂っていた。

「ひと区切りついたからな」

「そう。……デート、楽しかった?」

 弾んでいた口調が、少しだけやわらぐ。

「そんなものでは」

「服、似合ってるじゃん。アイツの色ばっかりできらきらしてて、昔の恋愛小説に出てくるヒーローみたい」

「ほめるか貶すかどっちかにしろ」

「ほめてるって。カフスボタンまで、よく用意したよね。特注? うちの制服にも採用したいくらいだよ」

 坂の途中の船着場に着くと、半田が借りてきたボートに寄り添うようにもう一隻が停泊していた。

「最初で最後だ。できることはしたかったのだ」

 並んで歩いていたカメ谷が足を止めた。

「最後じゃなくてもいいだろ」

 つられて足を止めた半田の背中を、手袋に覆われた手がポンと叩く。

「だって、始まったばっかりじゃん」

「……お前には全部お見通しというわけか」

「それだけじゃないって。頼まれてたんだ、俺も」

 カチ、と何かを操作する音がして、真っ黒なフェイスシールドが透明になっていく。

「うわ、外眩しいな」

 労うような表情が半田を見つめ返したかと思うと、水面に反射する光に顔を顰めた。

 黒いパラソルを傾けて陰を作ってやると「デカくない? 荷物もすごいし」と揶揄われる。だが、半田には聞かなければならないことがあった。

「なにを頼まれていたのだ」

「お前は知らなくてもいいこと」

 突き放すようでいて、たぶん気遣われている。

半田は「それは俺が決める」と迫った。

「言わないなら入社を辞退するぞ」

「卑怯な手を使うなよ⁉」

「で、なんなのだ」

 カメ谷は両手を軽く上げ、降参のポーズを取った。

「……お前がアイツのこと、百年は忘れないようにしてほしいって。バカだよな。そんなの、あっという間なのに。それに、お前が忘れるわけがない。俺の出番なんてほぼなかった」

 苦笑いとともに伝えられたそれは、初めて聞く話だった。予想すらしていなかった。

「……俺には早く忘れろと言っていたぞ。いつまでも執着するなと」

「どっちも本心なんだろ。まあ、約束の百年も経ったし、そろそろ話しておこうかなって思っただけだから」

「聞きたくなるように誘導したくせに」

「バレてたか」

 アハハ、と笑う声がスピーカーを軽く震わせた。

「……そうだな、お前の気持ち、お前が知らなくてもアイツはわかってたと思うよ。あと、余計なお世話かもしれないけど、アイツもそれなりに同じように感じてたんじゃないかな」

 おどけつつも詫びるようにフォローを入れる姿が可笑しくて、半田は口の端をつり上げた。

「俺も最近ようやくそんな気がしてきたところだ」

「ほら、俺の言ったとおりだろ? 始まったばっかりだって」

「ヤツがいなくなって、やっと落ち着いて考えられるようになっただけだ。まだ忘れてやるわけにはいかない」

「オッ、調子出てきたな」

 やはり、どうにもむず痒い。半田は口を曲げ、パラソルの縁から青空を盗み見た。そこには、ヘラヘラと呑気な晴天がどこまでも広がっていた。

 カメ谷はフェイスシールドを遮光に戻してから、半田のボートを足掛かりに自分のボートに乗り移った。半田も続いてボートに乗り、係留を解く。

「帰るぞ」

 返事はない。距離があって聞こえなかったのだろう。あるいは、それが自分に向けられた言葉ではないのだと、長年の悪友は理解しているのかもしれない。

 半田がパラソルを固定している間に、隣のボートは力強い音を立てながら先に発進した。

 濁った水の上をするすると滑っていくその姿を眺めながら、半田も勢いよくエンジンを起動し、先を進むボートの波跡を突き崩すように、スピードを出して後を追いかけた。

 わあ、とはしゃぐ声が耳をくすぐった。

 そんな気がして、半田はひとり小さく笑みを浮かべた。