半田と付き合っているロナルドが半田の初恋と自分の恋愛について考える話。2022年12月11日 Dozen Rose Fes. 内半ロナオンリー『夜半にセロリの流れ星』無配。お手にとってくださった皆様ありがとうございました。
俺の初恋はお母さんだ。詰襟の胸を張って誇らしげにそう語った同級生はまぶしくて、なんだか微笑ましかった。思わず満面の笑みを浮かべそうになって、俺は必死にこらえた。笑ってしまったら悪いと思ったからだ。だから、我慢して口の中を噛んでみたり、ドーナッツ屋さんのおかわり自由のコーヒーをがぶ飲みしたりして気を紛らわせた。
初恋は実らないという俗説は、案外こういうことなのかもしれない。お母さんにはもう大切な、吸血鬼の永い生涯を共にするひとがいると知って、幼いかれは泣いただろうか。どんな子どもだったのだろう。快活で何事にも一生懸命で、その一方でいたずら好きで、好奇心旺盛で、その辺を跳ね回ってるような子だったのだろう。そんな子どもがじっと下唇を噛んで嗚咽を堪えている。大粒の涙が今にもこぼれそうだ。お母さん譲りの大きな牙がやわらかい唇にキリキリとめり込んで、怪我をしてしまったかもしれない。それはとても可哀想だ、と見たこともない、想像上のちいさな姿に胸が痛む。
さて、高校時代から数年が経ち、健やかに成長したこの男は俺のことをいまだにライバル視していて、俺の前でよく悔し泣きをする。誰だって泣きたい時は好きなだけ泣いたらいい、というか泣くことだって全然あるだろうとは思うけれど、それにしたってなかなかの泣き虫だ。生まれて初めての恋の終わりにぼろぼろと悔しいだけではない苦い涙を流す様子は簡単に想像できた。そういうところも昔から微笑ましい、なんて言ったらめちゃくちゃ怒られるだろう。なにせ泣く子も黙る現役の吸対隊員なのだから。
……ここまで書いて、全部ボツにする。だらだらとまとまりがない上に、女性誌の「恋愛」特集になぜか呼ばれたからといって他人の初恋について許可なく書くわけにはいかない。もちろん名前は出さないが、半田のお母さんだってきっと読んでくれるはずだし、個人の特定に繋がらないように書き直したところで半田自身が隠し通せるとは思えない。いつもご愛読ありがとうございます、と心の中で頭を下げて、俺はノートパソコンを閉じた。
「ずいぶんと諦めがいいな」
「原稿見守りありがとう、まだ諦めてねえわ」
手渡されたマグカップに安心して口をつける。ホットミルクはほんのりと甘くて、湯気が疲れ目にやさしい。目を閉じれば疲労感がほぐれていく。
半田桃と付き合い始めてから、△■※(口に出すのもイヤ)は一日一回までという条約を締結した。翌日繰り越しは不可、守らなかったらマジで本気でメチャクチャ怒る、と宣言したら、「きっとそのうち物足りなくなる」と鼻で笑われた。解せない。だけど、約束は一応守ってくれている。安寧を勝ち取るためにコイツの告白に首を縦に振ったわけではないのだけれど。
こうしてみると、俺と半田の関係は今回の雑誌の企画で想定されている「恋愛」とはなかなか程遠い。ただの友達だった頃と比べて、互いに触る頻度や温度や意味は確かに変わった。視線がくすぐったくて、同じ空間にいるとほわほわとあったかくて嬉しい。だけど、甘い言葉や空気や大人の雰囲気とはまったく無縁だし、いつまで無縁なのかもわからない。やることもしっかりやってるのにな、と俺をじっと見つめる半田と目を合わせる。
「ひとつ訂正だ。俺は結構おとなしい子どもだったらしいぞ」
「読んでたのかよ」
「ブツブツ言いながら書いていれば、それなりに聞こえてくるわ。使うのか、それを」
半田がそう言いながら、机の端に行儀悪く腰を下ろす。お気に入りのパジャマのズボンの桃色がやわらかく皺を描き、体温が木目を伝わってくるような気がした。
「ボツだな。まとまらねえし、求められてるものとは絶対違う。それにお母さんに読まれたくねえだろ」
「……続きはどんなことを書くつもりだったのだ」
「決めてなかった」
「決めてから書き始めないのか」
「書いてるうちによくわかんないところに行っちゃうんだよなあ……ロナ戦はノンフィクションだから、実際に起きたことをなぞって脚色するんだけどさ。エッセイはなんていうか、出たとこ勝負、みたいな」
「行き当たりばったりだな」
半田の目元がゆるりとほころぶ。
「なんで俺にオファー来たんだろうなあ」
「見た目だけはモテそうだからだろう」
「悪口じゃん」
口を尖らせて見上げると、唇を啄まれた。シャンプーの残り香に、さっき気分転換と称して一緒に入った風呂が恋しくなる。やっぱり眠い。だけど下書きくらいは終わらせたい。
「恋愛の話なら自分のことを書けばいいだろうが」
「それは色々厳しいな」
オファーがあったからと言って馬鹿正直に俺自身のうまく説明できないような恋愛遍歴について書けばイメージダウンになるだろう。人気商売はどう転ぶかわからない。さすがの俺だって本業とは別のところで「なんか思ってたのと違う」と思われるのはちょっと悲しい。文筆業だって本業だけど、その中でもこれは毛色が違う話なのだ。
閉じたノートパソコンの上に突っ伏して、ふう、とため息をつけば、思ったよりも声が出てちょっとした唸り声になる。
そのせいで半田がそっと呟いたのを危うく聞き逃すところだった。
「……書いてもいい」
「え」
「いや、なんでもない。そういえば貴様はどうなのだ」
誤魔化されて、質問で返される。
「なに」
「初恋だ。どうせなにか間抜けな話があるのだろう?」
顔を上げればニヤニヤと面白いことを見つけたように切長の目が細められていた。
「ええ、いきなり……俺がモテないの知ってるだろ?」
思春期以降、モテたいとはずっと思っていた。自分はモテないのだとようやく納得した日にはちょっとだけ泣いた。それよりもずっと大事なことがたくさんあったから、そこまで気にしていなかったからいいのだけど。本当に。
しかし、そんな回想に浸っていた俺の頬を半田は手で包んだかと思うと、むにっと引っ張った。
「いふぇえ」
「モテるのと恋は違うぞ」
確かに、と思う間もなく、頬を解放してくれた半田が人差し指をピシリと立てて話し始める。
「そうだ。誰かと一緒にいたくてたまらなくて、いちばんでなければ気が済まなくて、自分が相手のことを考えているのと同じくらい相手も自分のことを考えてくれていると嬉しい、そうでないと悲しくてやりきれない、そうやってひどく理不尽に焦がれるのが恋だろう。モテるというのは、ただ都合よく興味を持たれるというだけの話だ。利害が一致すればそれでいいというもので、本質的に違う」
「お、おおう……?」
淀みない講釈に驚いてバッチリと目が覚める。
「お前にとって、恋ってそんな感じなの?」
ついそう聞くと、半田がみるみる赤くなっていった。首から耳の先まで色づいて、なんだかいけないものを見ているような気分になってくる。
「うるさいぞバカめ調子に乗るな、ただの一般論だ」
「照れんなよ。えー、お前そういうふうに考えてたの」
だけど、それなら自分はどうだろう。少し冷めたホットミルクを啜って、俺は恐ろしいことに気がつく。
「……俺、ない、かも」
「なにがだ」
「え、まって」
取り落とさないようにマグを置いて深呼吸をする。幼稚園の頃。小学生の頃。なんでそんなに遡るんだよ、といういつかのカメ谷のツッコミがサッと意識をよぎっていく。中学、高校——
「半田の言う恋ってやつ、してねえ」
「……」
「うん、モテたいと思うばっかりだった。やべえ、武々夫と変わんねえじゃん」
うわーともう一度頭を抱える。一緒にいたくてたまらない? 理不尽に焦がれる? いや、好きな子のためにバカとはいえ行動を起こしただけ武々夫のほうがマシかもしれない。
ふふっ、と愉快そうに空気が揺れる音がした。
「なんだよ」
半田を睨むと、鼻をぎゅっとつままれた。
「ぷぇ」
そして鼻の次は頬をつつかれる。今日はどうも俺の顔をあれこれいじりたいらしい。
「貴様、俺のことはなんだと思っているのだ」
「う、ぁ?」
「いまさら流されて付き合っているだけとは言わせないぞ」
……やらかした、と思ったけれど半田は笑っている。心から、楽しそうに。
「ごめん、えっと」
「それとも俺が可哀想だとでも思ったのか?」
「違うって! わかるだろ、見てれば」
「疑ったことはないな」
「じゃあ、なんで……うう、いや、俺が悪かった、変なこと言って」
差し出された手を取って浮き出た関節にキスをすると唇からミルクが少しだけ移った。それを思わず舐め取ると、皮膚がぴくりと跳ねた。
「ただ、自分から誰かにそういうの思ったことは、ないんだよなあ。朝から晩までそのひとのことしか考えられなくてぼーっとしちゃうとか、そういうことだろ?」
「フン、俺はぼーっとしたことなどないぞ。優秀だからな」
「ホント意味わかんねえよ、お前」
半田が俺に恋をし始めたのはいつ頃のことなのだろう。高校時代は俺とほとんど毎日顔を合わせていたのに、態度が変わったことなんてなかった。じゃあ、それよりも後なのか。いつか聞いてみたい気もするけれど、告白の時と同じようにまたプレゼン資料を作ってくるかもしれない。
「何がおかしい」
「うん、ちょっと」
どうやら笑っていたらしい。ム、と唇が不満げに歪み、頬がまたつねられた。
「誤魔化すな」
半田の手を顔から退けて、ぎゅっと握り込む。
「いまだに俺に対してそういう理不尽な感じでワーッてなるの?」
「そうだ」
「認めるのかよ」
「俺は潔いのだ」
得意げに牙を見せて笑うのが可愛くて、かすかに残る頰の痛みの奥から「好き」が溢れてくる。
俺のことを好きだから好きになってしまった、というのは身も蓋もなさすぎるけれど、半田が言ってくれなかったら「俺と半田」という可能性に気づくことだってなかったかもしれない。
顔にやわらかい鼻息が、それから唇が触れる。はみ出た牙が頬に押し当てられて、さっき頭の中で描いた幼い頃の半田の姿をまた想像してしまう。
「俺は……やっぱりなんか、お前とは違うと思う。でも、好きだよ。毎日、いっぱい。会えない時だって何してるかなとか考えちゃうし、事務所にひとりの時に泊まりにきてくれるのだって、下心とか抜きにしてもめちゃくちゃ嬉しいし」
手を伸ばして、洗って乾かしたばかりのさらさらの髪に指を通し、乱すように梳いてみる。
「色々してもらってばっかりで、申し訳ないなって思うこともあるけどな」
「貴様の優位に立てるのは気分がいい。気にするな」
素直じゃない言葉を乗せた声音はやさしくて、そういうところもバカみたいで楽しくなる。
「好き」
「もう聞いたぞ」
「言わせろよ」
「フン、仕方ない」
好きだぜ、ともう一回呟くとまた顔に手が触れる。あったかくて、撫でる動きが眠たげだ。
「そろそろ寝よっか。明日早起きして、どこかで朝メシ食いに行かねえ?」
「ドラルクに牛乳を使い切ってくれと言われているが……どうする? なにか作ってもいいが」
「残り、どのくらい?」
「箱半分だな」
「あー、それくらいなら明日普通に飲むわ」
じゃ、決まりだな、とマグカップに少しだけ残っていたミルクを飲み干す。
「原稿はいいのか?」
「うん、あと四日あるし。それにお前とゆっくり過ごしたほうが何か出てきそう。お前だって、せっかくの休みなんだしさ」
立ち上がって半田の手を引くと、寄りかかるように抱きしめられた。
「歯磨きを忘れるなよ」
ぎゅってしながら言うことじゃねえよな、と思いながら、うん、と返事をする。
いつか、半田の初めての次の恋とその顛末をどこかで書いてやるのも悪くないかもしれない。望みどおりの、俺の間抜けな初恋らしきものの話でもあるのだし。
胸を張って「恋をしている」とはまだうまく言えない。それでも、どうか本当にそうでありますように、できればハッピーエンドに持ち込めますように、と願いを込めて抱きつき返す。
ん、とかすかに唸る半田の声が、胸の深いところまで沁み渡っていった。
おしまい