すごく疲れている半田がロナルドのところにきてただ眠るだけの話。
ほぼ無自覚。距離感バグに巻き込まれた被害者のドラルクとジョンもいます。
ブラインドが、かしょん、と力なく持ち上げられ、昼の強い陽射しが容赦なく部屋の中に射し込む。ロナルドがパソコンの画面から目を上げると、スニーカーのつま先がひとつ窓の桟を踏んで、もう片方もすぐにそこに並んだ。
やっと解放されたのか、とロナルドは眉をしかめつつ口元を緩ませた。
半田が度々こうやって無言で訪れるのにも、もうすっかり慣れてしまった。初めてのときこそ心臓が止まるかと思うほど恐れ慄いたロナルドだったけれど、理由やタイミングがわかる今ではまったく問題ない。
そう、退治人たちだって一昨日までは連夜駆けずり回っていたのだ。吸対が各方面への後始末に追われているのも知っていた。だから、そろそろ来るんじゃないかと踏んでいた。
「おつかれ」
立ち上がって腕を広げると、半田がふらふらとそこに倒れ込むように収まった。シャンプーの香りを吸い込みながら背中をとんとんと叩けば、むぅ、と唸り声が肩に響く。
「風呂入ってきたの?」
「ああ。ひどい有様だったからな」
いつもパリッとしている半田の「ひどい有様」なんて見たことがなかったけれど、くたくたな様子から多少の想像はできた。
いい歳してこうやって外国の絵葉書に載っている写真の子供たちみたいにぎゅっと抱き合うのは、なかなか気恥ずかしいものがある。だけど、いつもはギャンギャンと喧しく自分をからかい罵りみっともないところばかりを見たがる半田に頼られている。そう思うと胸がムズムズしておなかの中が熱気球みたいにあったかく、軽くなってくる。なので、半田に自覚があるのかどうかもかなり怪しいから多少心が痛まないでもないけれど、ロナルドからこれを「やめる」と言い出す理由はいまのところない。
ハグをすればストレスがものすごく軽減されるとどこかで読んだな、だったらこれも互いに悪いことじゃないんじゃないか、とロナルドはお馴染みの言い訳をまた頭の中で確認する。
「疲れてんのに窓から来んなよ」
「俺がどこから入ろうと勝手だ」
「勝手じゃねえわ、ドアあんだろ」
言い合いながらよしよしと背中をさすると体重がさらに預けられる。別に重くはないけれど、半田がバランスを崩す前に座らせなくてはいけない。
「とりあえず奥行こう、な? さっき戻したばっかだし、ソファのままでいいか?」
「ウム」
素直に抱擁を解いた半田の手を引いて居室のドアを開け、照明を落としたまま部屋に上がる。カーテンから透ける日光でしばらくは明るいだろうけれど、寝られるのだろうか。しかし、いつもは行儀よく揃えられる靴も脱ぎっぱなしで転がしてあるところを見ると、今日は相当やられているようだ。少なくとも眠れないという心配はなさそうで、ロナルドはこっそり安堵の息を吐いた。
「何連勤?」
「五からは数えていない」
「アレ、昼間も動けるやつだったもんな」
半田を座らせ、麦茶のグラスを差し出す。半田は少しおぼつかない手つきでそれを掴んで、ゆっくりと飲み干した。
「じゃあ、俺、やることあるから。好きなだけ寝てろよ」
毎回試しに言ってみるけれど、聞き入れてくれたことは一度だってない。
「いやだ」
「わかった。じゃあ、パソコンと座布団持ってくるからいい子で待ってろ。枕いる?」
いる、と半田が小さく呟いた。
キンデメの水槽がごぽりとやたらと大きな音を立てた。
枕に顔を埋めるようにぎゅっと抱きしめ、もう片方の手は床に座ったロナルドの頭に置いて、半田は静かに眠っている。腕が疲れたりしないのだろうか、と手を時々どけてみても、いつの間にかまた元に戻っている。たまに思い出したかのように髪をぐしゃぐしゃと撫でては止まるのが心地よくて、寝言でむにゃむにゃと「ばかめぇ」と嬉しそうに笑われてもあまり腹が立たない。心なしか原稿の進みもいつもより早い気がして、ロナルドは頭の上に陣取る半田の手をポンポンと撫でた。
コラムの下書きと出張版のネタ出しが終わった頃には首の疲れが気になり始めていて、明日マッサージにでも行こうかな、とブラウザを開いたところで、ゴトリ、とソファの向こう側の棺桶が開いた。
「ファーよく寝た」
「しっ、声デケェよ」
うわっ、と小さく叫んでドラルクが驚いて死んだ。
「部屋真っ暗にして何をしてるんだね? 私はいいけど、君がやると不気味なん」
スナッ、とまた砂山が築かれ、ヌーヌーとジョンの嘆く声がやさしく響き、ロナルドもわずかに声を荒げる。
「文の途中で無言で死ぬなよ、ビビるだろ!? あとジョンを泣かすな」
「いやいやいや、なんで半田くんがそこにいるんだ? それにゴリ造の枕なんか後生大事に抱えちゃって、汗臭くて窒息死するだろうが」
正面に回り込んで声を落としてまくしたてるドラルクの事実無根の中傷に、ロナルドも声を落としたままどやし返す。
「ノーマットに負ける虚弱蚊トンボおじさんと一緒にすんな。ってか、そういやお前、見たことなかったんだな。いつもだいたい朝来て夕方には帰ってるから」
「いつも?」
なぜか怯えた調子でドラルクが聞き返す。
「あー……別に毎日ってわけじゃねえよ。デカい現場で何連勤もした後とかにふらっと来るんだよ。で、ぎゅってしてやってから寝かしつけてるんだけど、なんでか知らないけど俺の枕抱えて寝ちゃうんだよな」
ロナルドが腕で半田を抱きとめるときと同じ輪っかを作りながら説明すると、ドラルクが床に崩れ落ちるように座り込んだ。ナイトキャップのツノがぺしょりと垂れていて、悪人面をいっそう不機嫌そうに縁取っている。
「ンだよ。なんか気に入らねえってツラしやがって」
「いや、もう死ぬ気力もツッコむ気力もなくなっちゃってね」
「そりゃ何よりだぜ」
ヌヌヌヌヌン、と肯定なのか否定なのかよくわからない鳴き声とともに、ジョンがドラルクの膝をポンと叩いた。
「ちなみに、半田くんはいつ頃からこんな調子なの? いきなり来たりするのはいつもどおりだけど」
「いつ、って、まあ、事務所構える前かな? ロナ戦出してからはしばらくやめてたけど、お前が来てからなんでか復活しやがったんだよ。そうそう、昔は部活のデカい大会とかが終わってからやたらとひっつかれてたわ。カメ谷が面白がって写真撮ってたけど、見る?」
ドラルクは言葉もなく首を横に振った。そして、行儀悪く崩した膝を床について半田のすぐそばまでそのまま移動し、こわごわと顔を覗き込んだ。
「しかし、こうして見ると」
「ちょっと可愛いよな」
「いや、私はそこまで言って……」
何かを言いかけてやめ、大きなため息をつき、ドラルクは立ち上がってソファの角に足をぶつけて死んだ。
「おい、半田起きちゃうだろ。気をつけろよ」
「……着替えてくる」
ドラルクは今度は慎重に立ち上がってクロゼットからいつもの一式を取り出し、洗面所へと向かった。
「しかし、私にはきみたちがわからないよ」
振り向き様にそう言われても、ロナルドには何も思い当たることがなかった。
「別に特におかしいとこねえだろ。俺と半田だって四六時中ぎゃあぎゃあやってるわけじゃねえし」
「そう」
訳知り顔になんとなくムカついたけれど、手近に投げられるものが何もなくて、ロナルドはドラルクを殺すのを諦めた。
「お腹空いてるかい?」
「ん、まあ」
「晩ごはん、せっかくだから半田くんのぶんも用意しようか」
「じゃ、頼むわ」
一時間後、ポン酢とマヨネーズがジュワジュワと焦げる香ばしい匂いが漂ってくる頃、半田がようやく目を覚ました。
「おはよ」
「ん……なんだこれは……」
「お前、遊びに来たのに寝ちゃったんだろ? 何連勤だったんだよ?」
「五からは数えていない」
さっきと同じ返事は、今度は幾分か明瞭に発せられた。
「せっかくだからメシ食ってけよ。それとも実家で予定でもあった?」
「いや……代休だし、明日帰ろうと思ってたのだ」
枕にはちょっとだけ涎の跡がついていて、毎度のことながらきっちりとした半田もそんな寝方をすることがあるのが不思議だった。
しかし、半田は顔をしかめ、ロナルドに向かって無慈悲に枕を突き返した。
「この枕、臭うぞ」
さっきまでこの世でいちばんの宝物のように抱いて離さなかったくせに、とロナルドはなぜか少しだけ悲しくなってしまったが、半田がいつもの半田に戻ったことのほうが大事なので、ただ「うるせえ」と毒づいた。
「ドライヤーをかけずに寝るからだ、バカめ」
「そんなに酷くねえだろ、って、バカ、何すんだよ」
髪をまたぐしゃぐしゃとかき乱される。ロナルドが大袈裟に抵抗してみせると、半田はウハハと笑ってロナルドの髪を鳥の巣にして、たったいま偉業をひとつ成し遂げたかのような満足げな表情を浮かべて起き上がった。
「おーい、園児ども。そろそろご飯できるから手洗っておいで」
オープンキッチンの向こう側からひと煽りとともに食卓に呼ばれる。ロナルドは床から立ち上がって、あちこち凝り固まった身体をゆっくりと伸ばしながらドラルクを睨みつけた。
「おう、サンキュな。あとで殺す」
「感謝か殺意かどっちかにしろ、情緒ジェットコースターか」
半田も立ち上がり、枕からカバーを剥いでいく。ロナルドがじっと見ていたら、半田がフンと鼻を鳴らした。
「なんだ、文句でもあるのか」
「涎垂らしたバカのせいで洗濯物が増えたのを心の底から嘆いてた」
「自己紹介か?」
「ちっげーわ」
別に本心ではなくちょっとくらいやり返したっていいと思っただけなのに、そのまま返ってきてしまった。
——よかった。
ちょっと寝かしつけてやるだけで疲れ切った半田が元通りになるなら、いつだっていくらでも付き合ってやる。いままではロナルドだけのささやかな楽しみだったのがドラルクに知られてしまったのは癪だったけれど、だからって何かが変わることもないだろう。
手を洗って、お皿やお箸を並べる。
「顔が気持ち悪いぞ」
「ストレートな悪口やめろや」
浮かれて戻ってこられない気持ちを見透かされた気がして、ロナルドは顔を覗き込む半田の脇腹を肘で小突いた。しかし、半田はそれをサッと避けてさっさと食卓についてしまった。
皿を運ぶドラルクと入れ違いにロナルドはキッチンでご飯をよそって戻り、まずは向かいの半田にひとつ、次にジョンの小さな茶碗を置き、最後に自分の茶碗を下ろした。
椅子に腰掛けたとき、半田と目が合った。
なんだか表情がやさしい気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
「いただきます」「いただきます」「ヌヌヌヌヌー」
半田とロナルドとジョンの声が重なる。
いつもよりちょっとだけ賑やかな夜だった。
おしまい