猫になった半田が無意識のうちにロナルドのところに来る話。原作166死の裏側。まだ矢印くらいしかでていない。初出:2021.04.18, pixiv
とすん。
事務所のドアを開けて踏み出そうとした瞬間、何かが脛に軽くぶつかった。真っ黒なそれは俺の足の周りや間にぐるぐるとまとわりついては頭突きのようなものを繰り返し、何やら唸っている。
「ロナルド君、そんなところで止まってどうしたの?」
「なんだこれ……猫、か?」
ドラ公が現れるとその黒い塊はぐるぐるをやめた。それは確かに猫だった。ツヤツヤの少し長い毛並みに金色の目。キリッとした顔つきとピンと立った耳がなかなかハンサムだ。首輪は変わった形をしていて、少し不格好にぶら下がっている。
ん、んなーお。
妙に下手なのに偉そうな鳴き声は愛嬌があって、見上げる姿につい頬が緩む。しかし、俺の顔をじっと見つめていた猫はクワッと目を見開いてまた突進とぐるぐるを始めてしまった。
その姿に妙な既視感を覚えて、思わず呟いた。
「なんかこいつ、半田っぽいよな」
「……うーん、そう?」
しゃがんで手を差し出すと黒猫は動きを止めて鼻を擦り寄せてきた。手袋の匂いをすんすんと嗅ぐ鼻先は湿っているようで、そのまま顎の下を撫でると気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らしはじめ——と思ったら急にぎゃっと短く鳴いて、俺の指をしたたかに噛んだ。しばらく痛みに悶絶していると、背後から爆笑とカシャカシャと連写する音が聞こえる。
「おいドラ公、テメー何撮ってんだよ」
「いやー……ふひ、ひっ、なるほどな……可愛い猫ちゃんだと思って」
こいつそんなに猫好きだったか? 大方、俺が噛まれてるのを面白がってるだけなんだろうけど、それにしても。
「っと、やべ。出ないと」
サテツからの連絡が急に途絶えたのだった。猫は可愛いが、構っている暇はない。
外に出してやろうと猫を抱え上げると、思っていたよりも小さかったそいつは身をよじってそのままするすると腕を駆け上り、頭の上に陣取る。肉球でぷにぷにと踏まれて思わず固まってしまった。
「えっ、どっ、どうしよう、これ」
「そんなデレデレした顔で言われても」
「し、仕方ねえな! このまま行くか。メビヤツ、帽子頼んだぜ」
ビッ、という反応音の前に一瞬だけ間があった気がした。おい待て私も行く、という声を背に、猫を頭に乗っけたまま階段を下りる。器用なもので、猫はふがふが言いながらも頭の上で時折爪を立てながらしがみついている。
さっきの連絡では何やら新しい変態が出たとのことだったが、詳細が伝わる前に電話が切れてしまった。ひとまず出てきたものの、この辺りで騒ぎが起こっている様子はない。
外に出たところで頭上の猫を慎重に降ろす。
「よし、お前はここまでだな。気をつけて帰れよ」
しかし、黒いもふもふはすぐにまたよじ登ってきてしまった。何度か降ろしては登られを繰り返していると、背後でスナッとドラ公が死ぬ音がした。
「アハハハ、まだやってるの?」
笑い死にから復活しながらまたカシャカシャ撮られたのでもう一度殺した。追い討ちの猫パンチでドラ公がまた死に、ジョンが泣きながら抗議している。
「わかったわかった、振り落とされんなよ」
腕にしがみついて離れない黒猫の首根っこを掴んで、また顎の下を撫でて宥めてやるとフンッとそっぽをむかれたので、頭の上にまた乗せてやると大人しくなった。なんとも理不尽だ。
「この子、よっぽどそこが気に入ったようだねえ」
まだ含み笑いをしていやがるが、変態吸血鬼が出ているのならザコに構ってる場合ではない。
「ほっとけや。行くぞ」
「どこに行くかもわからないのに?」
「そりゃ……確かにそうだけど」
——バカめ、こっちだ。
「っ!?」
急に聞こえた声に驚いてあたりを見渡す。
「こっち? どっちだよ?」
なんとなくざわめきが大きい方へと向かって歩みを進める。
「半田? いるなら合流しようぜ」
呼び掛けてみるが返事はない。黒猫はさっきからまたウニャウニャと何やらわめいている。ギルドに行けば何か情報が得られるかもしれないが、頭の上のこいつは連れていけないだろう。
「クソッ、埒が明かねえ。ドラ公、ジョン連れてギルド行ってこい」
「ハァ〜? 君、最近ちょっと吸血鬼遣い荒くないか?」
「情報がねえんだよ。サテツとも連絡取れねえし。半田はこの近くにいるみたいなんだけど」
半田の名前を出すとドラ公は嫌そうな顔を引っ込めて、何やらにやにやと意味ありげに頷いた。だからさっきから何なんだ、このクソ砂は?
「まあいいだろう、そこまで言うなら行ってみようかね。後で私を存分に崇めるように」
「一言余計なんじゃ。なんか分かったら連絡しろよ」
ギルドへ向かうマントの後姿を横目で見送って、俺は半田を探す。人だかりのいる方へと向かえばいいかと思ったが、吸血鬼が出ている割に人が少ない。大通りにはいなさそうなので、ひとつ裏の通りへと出る。
「テメェどこだよ、一方的に呼びやがって」
——ここだ。
「だからそれがわかったら苦労しねえんだよ」
——猫。
「猫? は? もっと分かりやすく言えよ」
さっきからウニャウニャとやかましい真っ黒な塊を地面へと下ろす。ずっと乗っていて疲れないのだろうか。特にどこかへと走り去る様子もなく伸びを始めた黒猫の狭くて平べったい額と耳のうしろを撫でてやると、手に頭をぐりぐりと押し付けて気持ちよさそうに目を細めた。尻尾の付け根もぽんぽんと叩いてやると、ぴょこんと腰をあげてさらにぐーんと伸びをする。やっぱり猫も可愛いもんだな、とある種の感動を覚えて撫で続けていると、猫はごろりと寝そべって腹まで見せてきた。
「しかしわっかんねえな、ギルドの連中も吸対もいねえし、半田ピッピは意味不明だし。猫を探せってこと? なあ、お前、友達とかどこにいんの? 飼い猫だとわかんないかな」
なんとなくこいつなら教えてくれるかと、そんな馬鹿げた期待で話しかけてみると、黒猫はぶるっ、と身震いをしてから俺の顔をじっと見つめ返してきた。
「……やっぱ無理か。半田探しつつ猫も探すか」
スマホを取り出して半田を呼び出すが応答がない。近くにいるんじゃなかったのか?
ふと猫の顔がやたらと険しく見えた。猫ってこんな表情するもんだったか? ぎらりと光を反射する金色の瞳と、口元から覗くやけに大きな牙、不格好な首輪……じゃなくてマスク?
——俺はここだ。
ひどく忌々しげな声? と唸り声が聞こえた。まさか。
——さっきから言っているだろう!! いい加減気づけ、アホルド!!
「えっ、半田!? なんで!?」
ひどく不機嫌そうな顔で尻尾をゆっくりと振っている黒猫。こいつが半田だというのか? しかし、見れば見るほど確信が強くなる。
マジか。
「お前、何があったんだよ? 大丈夫なのか!?」
明らかに大丈夫ではない猫……半田? は恨めしそうに項垂れた。そこで俺は気づいてしまった。
……俺は、さっきこいつを思いっきり構い倒してしまった。なでくりなでくりと、だいぶきわどいところまで可愛がってやってしまった。猫だからいいのか? いや、よくはないだろう。
「あのさ……半田? なんか、えっと、マジでごめん」
ぐるるる、うにゃっ。
——元凶を追うぞ。いいから、ついてこい。
憮然とした声の告げた内容に、俺は困惑をいったん捨てて気を引き締めた。
◆◇◆
その吸血鬼は「吸血鬼ねこの奴隷」と名乗り、俺が真っ先に現場に着いたときには、信じがたいことに周囲の人間を手あたり次第に猫へと変えている最中だった。奴の足元には元人間と思われる猫がひしめき合い、容易には近づけなくなっている。
無線で連絡を取りつつ現行犯逮捕のため慎重に距離を詰めていたつもりが、いざ確保に向かったその時、周囲の猫たちに足を取られた。踏まないように避けていたのが仇となったか、つんのめって奴の目の前に躍り出てしまって、そのまま腕を取られ——
気づけば周囲のものが何倍にも大きくなっていた。二足歩行ができない。音や匂いが普段よりずっとキツく感じて頭がくらくらする。どこか狭いところに隠れなくては。
視線を感じて頭を上げると、さっきの吸血鬼が恍惚とした目でこちらを見下ろしていて、それだけでひどい悪寒に襲われた。
——捕まったら絶対にヤバい。走れ、走れ走れ走れ!!
思考が「逃走」の二文字に覆いつくされ、俺は一目散に駆け出していた。
どのくらい走ったのか。あの吸血鬼とは随分と距離が離れてしまっただろう。それなのに走るのを、逃げるのをやめられない。
人の出入りの隙を突いて雑居ビルの中へと滑り込む。蛍光灯がちかちかと明滅する中、そのまま階段を一段ずつよじ登る。思考が多少クリアになりつつあるいまもなお漠然とした不安に駆られ、どこに向かっているのかもわからずに必死に登っていた。逃げている場合ではない。一刻も早くあの吸血鬼を確保して被害の拡大を防がなくてはならないのに。
そうこうするうちに、あるドアの前にたどり着いた。その向こうからは強大な、おそらく古くから続く血族の吸血鬼の気配が感じられてとっさに身構えるが、それがよく知る気配であることに一瞬遅れて気づく。
内心舌打ちをする。
無意識に逃げ込んでしまったというのか、ここに。
しかしこの際、協力してもらうには最適な人選のはずだ。大馬鹿者ではあるが腕は確かなのだ。業腹ながらも助力を仰ぐことにした。それなのに。
「なんかこいつ、半田っぽいよな」
俺だ!! といくら主張してもみゃあみゃあと鳴き声にしかならない。こいつがバカなのか、それとは関係なく何も伝わっていないのだろうか。
「[[rb:なお、なーお! うにゃ、なお! にゃっ! > 伝われ、バカ! 見てのとおりだ! 分かれ!]]」
普段の現場でいかに容易く共闘できていたかを思い出して歯噛みする。
しかし、そんな思いももちろん伝わるはずがなく、撫でられて反射的に喉をゴロゴロと鳴らしては、差し出された指の匂いまで嗅いでしまった。うっかり気持ちよくうっとりとしてしまい、誰の手で指なのかを思い出してぞっとした。
腹立ちまぎれに噛みついてやったらロナルドは無様な声をあげた。いい気味だ。カシャカシャと写真まで撮られている。ざまあみろ——
ハッとして顔をあげると、スマホを構えたドラルクと目が合った。一秒、二秒と見つめ合う。そして、ドラルクがハッと目を見開いて、そしてにやーっと口角を上げ、声を出さずに口だけを動かした。
は、ん、だ、く、ん。
救いの手かと一瞬だけ期待したが、凶悪な笑みに歪んだままの口元はそれ以上の真実を告げることはなかった。
おのれドラルクめ、あとで公務執行妨害で逮捕してやる! という決意も虚しく、ロナルドにひょいっと持ち上げられた。抱えられるなど、冗談ではない。腕を駆け登って頭の上に乗る。ここならまだマシだ。地面付近よりは安全だし、何やら落ち着く匂いもするし、空気も悪くない。肉球で踏む髪は柔らかくて心地よく、少しずつ気持ちが和らいでいった。足元でバカルドがあわあわと慌てているのも気分がいい。こんな状況でなければ大爆笑だ。
階段を降りていくこいつの頭にしがみついたまま外に出ると、頭から降ろされた。ここで引き離されると面倒なことになりそうだ。よじ登っては降ろされるのを繰り返していると諦めたのか、ロナルドはドラルクと次の行動について相談を始めた。
このままではどうしようもない。ロナルドに早く気づいてもらわなければ、こいつも例の吸血鬼にやられてしまいかねない。パワーこそないが、形態や意識にまで介入できる厄介な能力だ。ゴリ押しで勝てる相手ではない。なりふり構っていられず、必死に呼びかけた。すると。
「こっち? どっちだよ!?」
ようやく通じた。しかし完全には理解できないようで、ロナルドはその場をアホのようにぐるぐると回っている。
ドラルクはロナルドに特に何も伝えることなく、こっちをにやにやと見たかと思えばそのまま踵を返してギルドへと向かってしまった。元に戻ったらありとあらゆる職権を利用してヤツをVRC送りにしてやる算段を立てながらバカの注意を引く。すると何故か地面に降ろされ、そして——
それはもうめちゃくちゃに撫で回されて、絶妙な力加減の手つきに我を忘れ。
気がつけば腹まで見せていた。
あまりの屈辱にいますぐまた遁走してしまいたくなったが、猫の本能なのか力が抜けてどうすることもできない。
もうお手上げなのだろうか。しかし、こいつが被害に遭えば解決もまた遠くなるかもしれない。元凶を取り逃がしたら市民は、俺は、元に戻れるのだろうか。
地面に寝転がったままロナルドを睨みつける。
——いい加減気づけ!!
「えっ、半田!?」
やっと、やっとのことでロナルドは俺に気づいた。そして、徐々に顔色を悪くしていって。
「なんか、えっと、マジでごめん」
こうしてロナルドと無事合流を果たすことができた俺は、苦情は後できっちりと申し立てるとして、まずは情報共有をすることにした。対象の特徴と能力、知る限りの被害状況等を伝え、伝わっていることを確認するために念のため復唱させていると腹の奥からじわじわと安堵が広がっていく。
それが何故なのか考えるのは、ひとまず後回しにすることにしたのに。
「よし、わかった。さっさととっ捕まえて、お前も元に戻してもらわねえとな」
不安だろうけどもう少しだけ頑張れよ、と文字通り上から告げられて、更に忌々しいことに、またわしゃわしゃと頭を撫でられて。
——フン、誰に物を言っている。
「そんな可愛い姿で偉そうにされてもな」
苦笑する顔の奥からにじみ出るやさしさと善良さが腹立たしく、そして妙にそわそわと切ない。可愛いのは貴様のそのデレデレとした顔の方だろう、と過ぎる思いを意識の奥に押し込める。
なんだこれは? 猫とはこのようなくすぐったさのようなものをいちいち抱えて生きているのか?
——いいから行くぞ。
差し出された腕を登って、頭の上に乗る。
「おう、しっかり捕まってろよ」
しかし、現着する頃には調停者(聞けばロナルドの顔見知りの吸血猫だそうだ)の協力があったようで事態はあらかた収束しており、ロナルド(と俺)の仕事は犯人の捕縛のみとなっていた。
「大変だった割になんか締まらねえな」
変身を解除してもらった人たちの中には、俺の知人でロナリスト仲間の女性編集者やロナルドの退治人仲間の大柄な男までいて、戦闘力や対応力関係なく広く被害が及んでいたことが窺える。なぜかギルドに向かったはずのマジロまでいて、ドラルクの悪運にも呆れたのだが。
——撫でるのをやめんか、ロナルド。
「へ? あっ、ごめん。つい」
ロナルドは俺の変身解除の順番待ちの間、手持無沙汰なのか、頭の上に乗ったままの俺に手を伸ばしてぼんやりと撫でていた。
「でも、お前が教えてくれてよかったよ。突っ込んでいったら俺も猫にされてたんだろ?」
——貴様はマヌケだからな。
「真っ先に噛まれた奴が言うか?」
——俺のおかげでいち早く探知できたんだ、感謝しろ。
「はは、そりゃ違いねえな」
ロナルドは俺を頭の上から降ろして、腕の中に抱えなおした。
「しっかし、お前、こうしてみると可愛いもんだよな」
口の周りをゆるゆると擦られて、ゆっくりと瞬きをするロナルドの顔を見ているとなぜかふわふわと温かいのに落ち着かない気持ちになる。
「フクマさんに猫の触り方教えてもらったんだぜ。どうよ?」
——バッ、バカめ!! 血迷ったか!? 俺だぞ!!
顔を撫で回す指の感触が気持ち良くて、いや気持ち悪くて? 全身がぞわぞわし始めた。耐え切れず身体をねじって後足で思いっきり蹴とばすと、ロナルドは、いってぇ!? と叫んで俺を取り落とした。すとん、と地面に降り立って見上げると、ひどく裏切られたような顔をしたロナルドと目が合った。
「何するんだよぉ」
それはこちらの台詞だ。このバカに協力を仰いだことを全力で後悔した。最後の最後で屈辱の上塗りをされるなど、こんなことは絶対に、絶対に許してはならないのだ。
——元に戻ったらとんでもない目に遭わせてやる。覚悟しておけ。
「エーーーン! ごめん! 俺が悪かったから!!」
順番が回ってきたので、涙目で蹴とばされた腕を押さえるバカを放置して元凶の吸血鬼の前に立つ。バシュウウウという音とともに視界の位置がどんどん上がり、そして。
「お前、半田だったのか! いるならいると言わないか」
先に変身を解除されていた副隊長に見とがめられた。ロナルド相手にあれだけ苦労したのに何をどう伝えろというのだ、と釈然としないまま事後処理に当たり、現場を解散する頃にはもうロナルドも含め、退治人らの姿はなかった。
まあ、いい。
今夜の恨みは後日じっくりたっぷり晴らしてやることにする。
新しいセロリ地雷の設計を練りつつ官舎へと向かう途中、ふと唇の荒れが気になってリップクリームをするすると塗っていると、急に口元を撫でる手袋の感触が蘇り、思わずチューブを取り落としてしまった。リップクリームはそのままコロコロとどこかへと転がっていき、手元にはフタだけが残された。
つ、と自分の手でなぞってみても特に何も感じない。またなぞる。そしてまた。
あの感触をもう一度思い出そうとしていることに気づいた頃には街灯も消え、空が白んでいた。ぶんぶんと頭を振って、俺は官舎への道を急いで進んでいった。
おしまい