かつて、その祭りは冬の来訪を告げる、一年のはじまりの祭儀だった。
夜になるとひとびとは屠られた家畜と秋の最後の実りを持ち寄って、篝火の前に宴席をひらいた。そして、一年の仕事を互いにねぎらい、厳しい冬を目前に来年もまた実り多き一年でありますようにと誓い合い、帰還した死者の魂を迎え入れ、再会を祝ってもてなすのだ。
放浪を始めてから数十年、新しいねぐらを求めて館に住み着いて五年ほど経った頃、夜の散歩中に賑やかな音に釣られて村のはずれに降り立ったことがある。
近寄って暗がりから広場を覗けば、酒精の香りとともにひとびとの歌い踊る影が見えた。
知らない祭りだ、と胸がそわそわした。知らないことしかない——名前や生まれすら忘れてしまった自分にも、まだ灯りに惹かれる心があったのかと驚いた。
しばらく観察していると、それが収穫を祝う宴なのだとわかった。
ならば、出て行ってはいけない。
昨日は鹿を襲った。それはたくさんの人の今日の糧だったかもしれない。なのに、独り占めし、血を飲めるだけ飲んで、飲みきれなくてそのまま捨て置いた。あの鹿はきっと死んでしまっただろう。
人を襲いかけて、恐ろしくなって逃げたこともあった。着ている服だって、血まみれの姿に驚いた人が落としていった荷物を漁って得たものだ。
収穫を祝う場に、これほど相応しくない者はいない。そう理解し、去ろうとした。
それなのに、姿を隠す前に見つかってしまったのだ。
その子供は目を輝かせ、きびきびとした動きで談笑する大人たちの合間を縫って、あっという間に駆け寄ってきた。
「死者の方ですか?」
まっすぐな目で、はきはきと問われる。血の色をした瑞々しい瞳と夜色のつややかな髪が遠くの炎にきらめいて、誤魔化せなかった。
「わからない」
「失礼します」
小さなやわらかい手が、爪の伸びたがさがさの手を包む。
「ふむ。温かいので、生きているのでは?」
「どうだろうな。あんまり触ると汚れちまうぞ」
「では、手を洗いましょう。どうぞこちらへ」
「いいのか? 俺は悪い奴かもしれねえだろ」
「悪い人はそんなこと言いません。それに、とてもさみしそうだったから」
驚いて固まっていると、包まれた手をそのまま引かれ、井戸へと連れて行かれる。そこには鍋と竈が置いてあり、子供はまず鍋に水を汲んでから、熱した石を火ばさみで掴み、水の中に入れた。
「子供は竈の外で勝手に火を焚いてはいけないと言われているので」
布を湯に浸し、子供はその小さな手で、化け物の手とも知らず、汚れを丁寧に拭った。自分でできる、と言いかけて、その懸命さに口を噤む。
「おまえ、いくつなんだ?」
「七歳です」
「チビなのに手伝いができて偉いな。助かるよ、ありがとう」
小さいと言われて、子供は恥ずかしそうに俯いて、手を拭く作業に戻った。
「……僕は、騎士になりたいんだ。騎士になって、兄さんみたいに困ってる人を助けたい、です」
爪の周りの汚れを取りながら、告解をするように、子供は呟いた。
「いいんじゃねえか? 目配りもできて、足も速かった。いい騎士になると思う」
「でも、村の働き手がいなくなるのはやはり良くないのでは? そのために勉強もさせてもらっているのだから、村に還元すべきかと」
精一杯改まった話し方が微笑ましいが、これほどに早熟なら、もしかすると真剣に話を聞いてくれる大人があまりいないのかもしれない。姿を見られて逃げられないのも久しぶりで、つい耳を傾けてしまう。
「親には聞いてみたのか」
「まだ……反対はされないと思うんです。ただ、本当は困るのにいいよと言われたら、それは嫌だなって……だから、先に兄さんに話そうかと。明日、首都から帰ってくるんです」
「そっか、楽しみだな。しっかり話して、どうしたいか一緒に考えてもらえよ」
手がすっかり綺麗になってから、顔も拭かせてもらって、これくらいはやらせてほしいと鍋の水を捨てた。そしてふたたび手を引かれるままに篝火の近くまで移動する。今度は忘れず幻惑をかけたので、村人たちには『知っている気がする誰か』のように見えているはずだ。差し出された酒を少し含んでみると、それははちみつの香りがして、舌の上で軽やかに弾けた。
あちこち連れ回され、肩を叩かれ、今年は頑張ったな、来年も楽しく過ごそうな、と口々に言われ、挨拶を返した。子供は菓子を次々に渡されて、こんなにたくさん、と目を回していた。人の食べ物はあまり口にできなかったが、血を固めたというプディングはとても印象に残った。うまかった、と伝えると、子供はにこにこと笑ってから、ふわぁ、とあくびをした。
「眠いんだろ? そろそろ帰れよ。祭りの夜でもあんまり遅いと親が心配する」
口の端から焼き菓子の食べかすを払ってやると、子供は降参するように頷いた。
「そうします。おひとりで大丈夫ですか?」
「俺は平気だよ。おまえこそ、ひとりで帰れるか?」
「はい……また、会えますか」
袖を掴まれ、また驚く。この短時間にずいぶんと懐かれた。だけど安易な約束はできない。夜の住人と昼の子は、棲む世界が違うのだ。
「夜に祭りがあったら、また来る」
「なら、次は夏至の祭りですね。春の祭りは、子供は夜までいられないので」
「そうか。今日は楽しかった、ありがとう。でも、知らねえ奴にやたらと声かけるなよ」
勝手に近づいた自分のことは棚に上げ、注意する。このやさしい子供がずっとやさしくあるためにも、気をつけて生きていってほしい。すべて忘れたはずなのに、なぜかその切なる願いだけは、あの篝火のように胸の中に煌々と燃えていた。
はい、とぴしりと手を挙げて答えた子供は、「では、おやすみなさい」と告げて、タタタと元気な足音を立てて光のほうへと帰っていった。
昔出会った子供のことを思い出したのは、魔女に誘われて祭りにやってきたからだ。
二百年の間に村は街になって、街道も整備されて他の地域との交易も盛んになったらしい。それを知ったのは、友と暮らすようになってからだった。残念ながら血のプディングは廃れてしまっていたし、祭りの形も様変わりし、今ではこれが冬の訪れを告げる祭りだと覚えているものは少ない。
それでも、祭りはいいものだと思った。
そんな話のついでに浮上した思い出に二人は色めき立った。
「おじいちゃんの昔話みたいやね」
「だとすると、ずいぶんとご長寿のご老人になるな」
「長生きなのは間違いねえよ」
歩きながらミードの入った木のコップを揺らし、魔女が笑った。少し酔っているらしい。
「それで、その子供にはまた会えたの?」
「いや、夏至の夜に行ってみたら、兄貴が騎士団長になったとかで、その少し前に一家揃って首都に越してったって、村の奴らが話してた。こんな村の平民が大したもんだって、みんな騒いでたよ。それで、それっきりだ」
「それは残念だったな」
血の色の瞳と夜空の髪に篝火を映して、友がぎこちなく眉を下げた。上質な革紐で縫い直したばかりの皮膚の継ぎ目も、磨きあげた頭の螺子も、誇らしげに艶を蓄えている。なのに、そんな悲しそうな表情は似合わない。
「そういや、あのチビ、おまえに似てたな。髪と目の色……あと、動き方や話し方もそっくりだ。もう二百年ほど前のことだから、別人だとは思うが」
「なんと! だが、そこまで似ているのなら、血のつながりがあるのかもしれないな」
「それか、生まれ変わりだったりして」
生まれ変わり、と友が少し考え込む。
「人は死んだら神の国へと行くのでは?」
そう尋ねた友に、魔女は辺りを見回してから声をひそめて告げた。
「教会ではそう言うけど、でも、魔女は違うの。魔女たちはね、魂は循環すると信じてた。もちろん、生まれてくる時はまっさらになるし、送る人生もそれぞれになるよ? それでも、生まれ変わってもまた会いたいって思って、その願いが強ければ本当に会えることもあるし、前世を思い出すこともある。ただの言い伝えやけど、そうだといいなって私は思ってる」
何かが降りてきているかのように熱っぽく語る魔女に友が尋ねた。
「誰か会いたい人でもいるのかい?」
ハッ、と息を呑み、今度は魔女が考え込んだ。
「そう……なのかな。でも、そうだとしても、世界は広いし、なのに行けるところはそう多くないから、難しいとは思うけれど」
仮装した子供たちが三人の横を走っていく。四人で連れ立った子供たちは白い布をかぶって、顔の歪んだ怪物のようなお面をつけていた。
「きみたち、走ると危ないぞ!」
友が後ろから呼びかけると、はーい、と素直な返事が聞こえてきた。
広場の真ん中に着くと、音楽に合わせてたくさんの人たちが踊っていた。くるくると回り、無軌道な動きでめいめいに楽しむ姿に友がすっかり目を奪われている。
「踊ってきたら?」
魔女にとん、と背中を押される。さっきの異様な雰囲気はいつのまにか消えていた。
「おまえはいいのか?」
「夫がいない隙に他の人と踊るのはちょっとね」
その夫は実在しない。魔女が面倒を避けるために周りにそう言っているだけだ。なお、今夜の連れの二人のことは、ここよりもさらに田舎から出てきた親戚という設定になっている。
「それに、屋台のご飯もまだ食べたいし。何か面白い飲み物があったら買っておくね」
笑顔で手を振り、魔女はあっという間に人混みに紛れてしまった。
「なんだか気を遣わせてしまったな……しかし、下手に移動するとはぐれてしまうだろう」
「なら、ここで踊って待ってよう」
手を差し出すと、友は迷いなく掴んでくれた。腰に手を回し、向かい合って、友のわずかに高い目線を捕まえ、釘を刺す。
「リードする方しかわからねえからな」
「俺は何もわからないよ」
拍子を一緒に数え、ここだ、と決めて足を踏み出すと、友が一歩足を引く。井戸のポンプのような勢いが愛おしくて、手を繋いだまま腕を掲げてくるりと回してみると、それにも角ばった動きでついてくる。
「上手だ」
「いい教師がついているから」
音楽に合わせて身体を揺らし、人混みの中で離れてはまた近づいて抱き合う。こんな夜が自分たちにも訪れることがあるなんて、思いもよらなかった。何年もここに住んでいたのだから、もっと早く連れてきてやればよかった。
見つめあうと、自然と唇が笑みを描いた。
何曲か踊っていると音楽が途切れ、奏者が入れ替わる。拍手を送りながら魔女の姿を探すと、ベンチに掛けて何かを頬張っていた。目が合うと手が振られる。
「それにしても、さっきの魔女くん、いつもと少し様子が違っていたな。不思議な力が宿っているようだった」
魔女の元へと向かいながら、友が評した。
「おまえも感じてたか」
それは仮装のようなあの魔女の衣装をここぞとばかりに着ているからでもあるだろうけれど、それだけではない。
「祭りの夜だからな。闇との境目が薄くなってるんだろ」
そう言い切るが、根拠はなかった。ただ、そんな肌感覚があるだけだ。
「……しかし、俺は本当に生まれ変わってきみのところまでやってきたのだろうか」
生真面目な友は、さっきの魔女の言葉を真剣に受け止めているようで、歩きながら難しい顔で唸った。
「それでおまえは何か困るのか?」
軽く聞いてみたが、予想に反して重いため息が返ってくる。
「いや、困るというか……きみを大事に思う気持ちは俺だけのものだと思っていたのにな」
思いがけないことを告げられ、歩みが完全に止まる。冬の先触れの凍みるような夜風も、火照った頬を冷やせない。
「どうしたんだい?」
数歩先からのいつもと変わらぬ引き攣れた笑みに、満たされた胸から温かいものが決壊して、溢れた。
離された距離を跳んで縮め、友をしっかりと腕の中に囲う。
「もし死んで生まれ変わって、ぜんぶ忘れちまってもまた出会うなら、よっぽど大事ってことなんだろ」
人前だろうが構わない。どうせ、魔女以外には自分たちのことがちゃんと見えているわけではないのだから。
「だから、本当にそうだとしても、何もかも全部おまえのもんだろ」
「そうなのか」
「俺のこと、信じられねえか?」
「……信じるよ」
思わず友を抱え上げてぐるんと一回転すると、なぜか周りから拍手が起こった。慌てて魔女のところへと走ると「お熱いねえ」と笑って迎えられる。
「風は冷たいが? 来週には雪が降りそうだときみも言っていただろ?」
「うんうん、そうだね」
困惑する友を上機嫌な魔女はざっくりと宥め、コップをふたつ差し出した。
「りんごのサイダーだって。ちっちゃい子も飲んでたから、お酒じゃないはずだよ」
ありがたく受け取り、慎重に口をつける。
「ありがとう、祝福はされてねぇみてえだ」
シナモンの香りとりんごの甘みにほっと息をつくと、友もコップに口をつけた。
「とてもおいしいよ」
綻ぶ友の口元を見つめ、もうひと口サイダーを飲む。
「来年もまた来ような」
「その前に夏至の祭りもあるぞ」
「そうだった」
ならば、遠い日のあの約束をようやく果たすことになるのだろうか。
そんな後悔のような何かが頭をよぎる。だが、ふたりを目を細めて眺める魔女の姿に、それは違う、と思い直す。
今ここにいる自分たちは、他の何者でもない。これから何度生を繰り返すとしても、それは揺るがない。
「ふたりとも気が早いよ! まずは冬を乗り切らないと」
コップを高く掲げ、魔女が宣言した。人ならざるふたりもコップを掲げる。
「新しい年に、乾杯!」
コツン、と木のぶつかる陽気な音が響いた。
乾杯。
やさしい新緑のようななつかしい声が、三人の歓声に重なった。
「えっ、誰かいる?」
魔女があたりを見回した。だが、周りには誰もいない。
だけど、三人が掛けていたベンチには、きっちりと一人分の空白が空いていた。それに気づき、三人は顔を見合わせた。
「きみもよかったらどうぞ。飲みかけで悪いが」
友は飲みかけのコップをその空席に置いた。
「いや、せっかく来てくれたのに、だめだって! もう一杯買ってくる」
ふたりはそう言って駆けていく魔女の後ろ姿をふたたび見送る。
そして、姿の見えない誰かも、きっとおなじようにしている。そんな確信とともに、声をかけた。
「いい祭りだな」
心からの称賛に答えるように、そよ風が吹いた。
それは、これから訪れる冬よりも先の、芽吹の季節のように温かかった。
<番外編 おわり>