人と竜の関係は、旧文明の終焉まで遡ると言われている。詳細な経緯は定かではないが、破滅をどうにか押し留めようと足掻く人間たちの中に、竜との意思疎通を図り、力を授かる者たちが現れたのがはじまりだった。
しかし、その力が人々に広く開花し、人類が自ら生み出した脅威に対抗する手段を確立させた頃にはもう手遅れだった。
かつて国家と呼ばれた共同体は崩壊し、生き延びた人々は各地に散り、互いに生存を確認するすべも失われた。竜に乗って飛んで行こうとした者たちもいたが、誰ひとりとして帰還することはなかった。
以来、この地の人類は竜種とともに共存してきた。まずは岩山の連なる荒地に身を寄せ、棲家を得るために残された技術と竜たちの力で、天然の洞窟を起点に岩肌を掘り進めた。襲い来るワームの群れと戦い、細々と、時に互いに争っては人口を減らしたりしながらも住める土地を少しずつ取り戻し、着実に繁栄を続け、幸福を追い求めた。
そして、西の山脈と東の山脈の間の土地のほとんどが人類の領域となり、竜と竜騎士たちの守る砦が山脈の各地に点在し、旧い世界の記憶がほとんど御伽噺と成り果てた頃。
竜聖母と呼ばれる蒼龍がある男と絆を結び、人の住まう地にはかつてないほどの平和が訪れていた。
それでも、人が人である限り、人は先に進もうとし、ぶつかり、傷つき、また立ち上がる——さらに向こうへと、手を伸ばすために。
世界が幾度滅ぼうと、それは変わらない。
◇
足は地についている。
竜と絆を結んだ子供が最初に教えられる、大切な言葉。自分は人間なのだと思い出させるためのその言葉を呟きながら、テンヤはしっかりと床を踏み締めた。
目の前の自室には、山の岩肌をくり抜いて造られた壁と床に重なるように雄大な蒼穹が広がり、信じ難い速度でぐるりと回転する。急上昇、高負荷のGが肺から空気を叩き出した。隙を作って追っ手を誘い込み、さっと翼を畳んで、落下。Gが消失し、次の加速に備えて深呼吸をする。
追っ手の熱い息吹を尾に感じるたびに、身体の芯が自分のものではない興奮で熱くなっていく。
だけど、まだだ。まだ、その気になりはじめたばかりだ。まだ、本気を出していない。テンヤの竜はもっともっと速く、遥かなる高みまで飛べる。そうすることで、産まれてくる卵たちが強くなる。これが竜の本能だ。
そう。つかまえてみてよ、と相手の雄を誘っているのは、自分ではない。テンヤと絆を結んだ、この砦の次期女王竜だった。その初めての求愛飛行に、テンヤはじゅうぶんに準備を重ねて臨んだ。そのはずだった。
足は、地についている。幼い頃に兄と二人並んで撮った写真を見据え、書棚に並ぶたくさんの研究書を端からひとつずつ数える。大丈夫。現実はこっちだ。ゆったりとした青のチュニックとやわらかい生地のズボンは軽く、心許ない。だが、今日だけは飛行服の着用が禁じられている。自分がいま空ではなく砦の中にいると認識し続けなくてはいけないからだ。
室内は火気を遠ざけるために、今だけは貴重な電灯で煌々と照らされていた。天蓋つきの広いベッドから目を逸らし、分厚いカーテンのぴったりと閉ざされた大窓を見遣る。窓は竜が降り立つためのバルコニーへと続いていて、そのすぐそばの一角は天井から吊るされた薄布の幕で囲われ、敷物の上にはクッションの山が築かれていた。
竜と絆を結ぶ者は行動や気質も少なからず影響される。テンヤの場合は長椅子などよりも、閉じられた空間で床に丸くなっている方が落ち着くのだ。戦法書の一冊でもあれば完璧に快適になれる。本当は今すぐにでもそこに埋まりに行きたいけれど、精神の同調をこれ以上深めるわけにはいかない。
覚悟してはいたが、求愛飛行中の竜との精神感応が、ここまで強くなるとは予想外だった。
テンヤの竜は、いつも意識の端に佇んでいて、話がしたい時にはいつでも気さくに応じてくれる。そんな穏やかな存在感とはまるで違う。引きずり込まれて、本当に戻ってこられなくなりそうで恐ろしい。それだけは避けないといけない。過去の事故事例を思い出すと、頭が冷えてくる。
テンヤは部屋に重ねられた大空を瞬きで追い払い、意識の同調が薄くなったところで火照る己の身体をひしと抱きしめた。自分には翼も鉤爪も、加速のために激しい噴流を吐き出す角もない。ここにあるのは、高速と空気抵抗に耐えるために鍛えた身体と、その速さを地上でも体現するために両脚に授かった動力機関。
足は、地についていた。
深呼吸をひとつしてから、テンヤは飛ばされて落ちてしまっていた眼鏡を拾って掛け直し、たったいま蹴りで沈めた男をドアのほうへと引きずりはじめた。
理性を失われてしまっては、こうするしかなかった。その可能性についてはあらかじめ説明していたし、武力行使も法的に認められている。それでも、申し訳ないことをしてしまったと、テンヤは肩を落としていた。この蹴りは特別重く、使いどころは慎重に決めなくてはならないのに。
そもそも、求愛飛行で竜同士がつがいになっても、乗り手たちまでそうなる必要はない。百年ほど前からそう決められている。飛行中の乗り手同士の接触についても建前では禁止されていた。
だが、しきたり上は、女王のつがいの乗り手がその砦の次期頭領となるのだ。理由としては諸説あるが、人間が今よりも極端に少なかった時代に、各地で競争を煽って血統を分散させるのが目的だったのだろうというのが現在では主流の考え方だ。そして、女王の乗り手である人間が望んだ相手の竜がつがいとなる可能性が高くなる以上、追う側が野心を抱いてしまうのも致し方ない。
それに、竜の本能に完全に抗える人間はそうそういない。ゆえに、求愛される竜の乗り手は相応の対策を取り、必要とあらば迎え討つ準備をして待つことになる。
この男の場合も、その野心が本人の思う以上に雄として勝ちたいという本能と呼応してしまったのだろう。
せめて頭領の地位と名誉ではなく、この砦の繁栄と人々の安寧を心から願っているのだと示してくれていたら。そして、伴侶の座まで望むと言うのなら、テンヤ自身を欲して求愛しているのだと明確に伝えてくれていれば。それなら、頷く余地もあったのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。自分がそんなことを本当に望んでいるのかもわからないくせに。
志はともかく、同性に惹かれる同性を見つけるのは難しい。そんな相手が同じ竜騎士で、求愛飛行の時期の合う年齢の竜に選ばれていて、かつその竜が一番乗りで女王に追いつける確率なんて、考えただけでも気が遠くなる。奇跡にも等しい。期待するだけ無駄だというのに。
テンヤが頭を振ると同時に、コンコンとドアがノックされた。「どうぞ」と返事をすれば、重厚な造りのドアがサッと開き、ふわふわと揺れる緑色のくせ毛頭がひょっこりとその隙間から現れる。今回の護衛役を志願してくれた、同僚の竜騎士でテンヤの親友のイズクだった。
「ごめんね、遅くなって。一人で平気だった?」
「ああ、この有様だが、俺は無事だ」
イズクは、自分よりも背の高い、意識のない男をテンヤから引き取り、軽々と背負う。テンヤの脚と同様に、竜との契約時に発現した〝ギフト〟——人が本来持つ力を引き出す験のおかげだ。
伴侶を取る気はないのだと説明し、話し合いだけで帰してやれなかったのは、この男で三人目だった。少し前に砦間の交流制度を利用して移住してきた歳上の男で、試用期間が終われば自分の隊か、イズクの指揮する二番隊に配属しようと検討していたところだった。目を覚ましたら謝って、配属についても意向を聞かなくては。
「しかし、彼にも気の毒なことをしてしまったな」
「仕方ないよ、こればっかりは。頭領代理のところでいいかな?」
「ああ、頼む。兄さんの仕事も増やしてしまったし、君にもまた面倒をかける」
頭を下げると、イズクは「大袈裟だなあ」とテンヤを宥めた。
「テンセイさん、最後の大仕事だって張り切ってるよ。僕もそのための護衛なんだから、気にしないで」
「わかってる、ありがとう」
短く答えれば、苦笑で返される。
「せめて僕の竜が今年参加できてたらよかったのにね」
力になれなくてごめん、とイズクは続けるが、テンヤはそれをすぐさま否定した。
「君にはやりたいことがあるのだろう? そもそも、竜同士の年齢が合わなかったんだ。終わった話を蒸し返さないでくれたまえ」
「そうだね。それに、ここの頭領なんて僕には荷が重いから、これでよかったのかも」
うんうんと一人納得するイズクに、テンヤはまた反論する。
「何を言っているんだ、もう! 君はどこに行っても、きっといい頭領になるだろうに。でも、君に押しつける羽目にならなくて済んでホッとしてるのも本当なんだ」
「あはは、フクザツだ」
イズクは朗らかに笑うが、彼の竜が今年参加していたら、きっと心細さから差し出された手にすがってしまっていただろう。それでは、たとえ伴侶にならずとも、さまざまな可能性を狭めることになっていた。
これまでいくつもの砦を渡り歩いてきたイズクは、いずれ別の土地の人類を探す旅に出たいのだといつも話している。ここで隊長に就いているのもその目標に向けた修行のためで、兄もそれは承知していた。
夢物語だと笑う者もいるが、親友の夢を潰すわけにはいかない。だから、これでよかったのだ。
開け放したドアの向こうの階下から話し声が響いてくる。およそ一千段もある階段に置かれた最後の中継地点は五十段ほど下だったが、音がよく響くので心の準備はしておきやすい。
「また誰か来たみたいだ。追い返そうか?」
「いや、話をするだけしてみよう。納得して帰ってもらえるのなら、そのほうがいい。イズクくんは彼を頼む。鉢合わせたら厄介なことになりかねないから、昇降機を使うといい」
そう話しているうちにも階段を駆け上がってくる足音がする。テンヤの〝ギフト〟で強化された脚ほどではないが、何かに衝き動かされているかのように、とてつもなく速い。まるで、翼を羽ばたかせ、風に乗って飛んでくるみたいに——
「わかった。じゃあ、行くね」
だが、イズクがそう頷いた瞬間、その男は開け放したままのドアの向こうに現れた。
燃え盛る火焔のような赤髪と新雪の輝きを閉じ込めた白髪が頭の真ん中で塗り分けられている。空に焦がれるような碧と思慮深く温かい濃灰の瞳はそろってこちらを向いていた。そして、記憶にあるとおり、碧い瞳の周りには古い火傷の痕が広がっている。
まさか。彼も覚えてくれていたのだろうか。
ぞくり、と背筋に快感が走る。まだ目が合っただけだというのに、頭がくらくらする。一見すると細身で少しばかり服に着られているようにも見える。だが、重たい飛行服の下には美しく引き締まった身体が収められているのだろう。竜に乗るにはそれなりの身体能力と肉体が必要だ。珍しいことでもないだろうに、想像してつい不躾な視線を送ってしまう。
「テンヤくん」
呑まれないで。親友からの言外に潜ませたメッセージを受け取る。テンヤは「大丈夫」と笑ってから、新しい——そして、きっと最後となる来訪者に向き合った。
「そうか。君を待っていたんだな」
しばし、見つめあう。風をつかまえて、また高く高く昇っていく。追っ手はどうだろう。ついてきているだろうか。力強い翼の羽ばたきがすぐ後ろに聞こえる。よかった。君だ。
来て、来て、来て。
「覚えてるのか、俺のこと」
低く滑らかな声が、昂った神経の端をあたたかな春風のようにふわりと撫でていく。男は、一歩、二歩と部屋に踏み入り、そこで止まった。
「忘れるはずがないよ……ショートくん」
意識がほろりと崩れそうになる。ドアがそっと閉じられた。イズクが先客とともに出て行ったのだ。
なのに、彼はその場から動いてくれない。息を苦しげに弾ませたまま、俯いている。
「どうかしたのかい?」
もしかして、本当は来たくなかったのではないのか。
出会ったのは、十年前。まだ十歳にもならない頃のことだった。男児が雌の竜に選ばれるのはそう珍しいことではない。竜聖母の乗り手も男性だ。だが砦の女王竜——卵をもっとも多く産み孵し、竜たちの統率を取る竜となると、それはじつに五十年ぶりとのことで、テンヤの両親は砦を兄に任せ、各地で古い記録を掘り起こして調査を始め、遠方の砦にさえも協力を仰いでいた。
その調査の一環で連れて行かれた先にいたのがショートだった。そのころはまだ竜に選ばれていなかった彼は、同年代の子供たちとは違って、乗りたくない、選ばれたくないと言っていたのだ。いちばん上の兄が一人でワーム討伐に出向いて事故に遭ったこと、そして、それが頭領である父親に原因があったということも話してくれた。
たった二日間、ともに過ごしただけだった。テンヤは強烈な印象と新たな目標を胸に抱いて砦へと帰り、その直後に手紙を三度ほど書いてみたが、返事はなかった。だから、それっきりなのだと残念に思っていたのだけれど。
……彼は真実、自分の意志でここまできたのだろうか。仮にそうだったとして、誰かのために動いているんじゃないだろうか。人を傷つけるようになる力ならほしくない、お母さんも女王竜も可哀想だと泣くような、やさしい子だった。
その後も色々あったと噂程度には聞いているけれど、もし、今でも変わっていないのなら。
「ショートくん、近づいてもいいだろうか」
もう一度呼びかけると、ショートが顔をあげた。ふたたび目が合う。
刹那、ふたりは青空に放り出されていた。落下しながらショートが鋭く叫ぶ。
「うわっ!?」
床があるはずのところを蹴り、十歩ほどの距離を跳ぶ。両手で上腕に触れると、分厚いジャケット越しでも張りのある筋肉の形がよくわかる。ああ、この腕に抱きしめられたなら、どれほどの幸福を味わえるだろう。そこに飛び込んでもいいだろうか。来てくれたということは、そういうことなんじゃないだろうか。
……違う、これは俺じゃない。
前腕同士を組むように腕を掴ませ、視線を合わせて伝える。
「『足は地についている』! しっかりつかまってろ」
羽ばたいて浮上、落下してフェイント、追い越してから後ろに宙返りし、もう一度追い越す。さっきよりも速く、速く飛ばなくちゃ。
ああ、だめだ。このまま君と、この空にいたい。本当は、ずっとずっと会いたかった。この瞬間を永遠にしてしまいたい。翼同士が触れ合いそうで、もどかしい。ふたりで溶けあって、ひとつになろうよ。つかまえて、はやく、はやく——
ダンッ、と力強い足踏みの音が床に響き、瞬時に空気が冷えた。きらきらと光るものがふたりを囲って、意識が引き戻される。
「つかまってろって言った奴が呑まれんなよ」
そう言いながらも、ショートは懐かしそうに微笑んで、目を細めていた。
「……すまない、助かった」
薄くきらめく膜の向こうに、青空はもう見えない。いつもの古めかしく重厚なドアが透けて見えているだけだ。
「この氷は、君の〝ギフト〟なのかい?」
「その半分だ」
ショートが左腕をテンヤの腕からするりと解き、手のひらから炎を出した。空気がじんわりと温かくなり、氷結の膜が跡形もなく溶けていく。
「温度操作? 左右で出力が違うのか」
「ああ、これで気流も作れるんだ。やりすぎると周りを巻き込んじまうし、焦ってると上手く調整できねぇから使いどころは選ぶけどな。氷は体積と重量があるから」
昔と比べて少し乱暴になった話し方に、鼓動がとくとくと駆け出す。だめだ、こんなのは。きっとまだ引っ張られているだけだ。意識の端で、上空での追いかけっこが最後のデッドヒートに差し掛かっているのがわかる。
ショートが小さく、悩ましげに呻いた。腕を掴む指先が力強く食い込む。
「わりぃ。覚悟はしてたんだが、かなりキツイな」
「俺も同じだよ」
おれ? と復唱されて少し恥ずかしい。背伸びをはじめたのはあの後だった。君が、おまえが空にいるなら俺も飛びたいと、言ってくれたから。憧れを、思い出させてくれたから。
「君も、大人になった。……とても素敵だよ」
「だめだ」
ショートは首を振る。でも、それは拒絶などではない。
よかった。きっと、同じことを考えている。
「俺だって、なし崩しは嫌なんだ。他ならぬ、君だから」
あぁ、と相槌を打つ声が甘く掠れる。
「飛行が終わったら、君と話がしたい」
ショートはゆっくりと頷き、短く息を吸ってから訊ねた。
「いま、何かして欲しいことはあるか? 終わるまで出ていてほしいなら出ていく」
「ここにいてくれるとうれしい。あと……このまま手を握っていてくれたら。もしまた呑まれそうになっても、ふたりで戻れるように」
腕を掴んでいた腕がそろそろと手首のほうへと降りていく。くすぐったいだけだ。断じて、性感ではない。そのはずなのに。
「ひ、んっ……」
身体が跳ね、ひどく甘ったるい声が出る。上空ではかつてないほどの全速力で飛ぶテンヤの竜に、ショートの竜がとうとう迫っていた。これで、雄が脱落せずに女王が満足するまで並んで飛べたら交尾に入る。それまで正気を保っていられるだろうか。
「す、すまない! みっともない声が出てしまった」
「みっともなくねえよ。俺こそ、変な触り方して悪かった」
手をしっかりと握られ、心は落ち着いてくる。だけど、身体の方は。
「立てなくなると困るな。あちらへと移動しよう」
クッションの山を示すと、「巣ができてる」とショートが不思議そうに首を傾げた。
「これがいちばん落ち着くんだ。休む時はさすがにベッドを使うが。君はそういう癖はないのかい?」
「竜みたいなやつか? そうだな、手触りのいいものをずっと触ってたり、宝石をずっと眺めてたりするらしいけど、それなんだろうか」
髪に指が絡められ、梳られる。
「汗がひどいだろう」
「まずいな。そそられちまう」
ショートがたまらないといった様子で生唾を呑み込む。その音がいやに大きく聞こえた。腹の奥がきゅっと疼き、膝がぐにゃりと笑いはじめる。
「ぜんぶ終わってもまだそう思ってくれるのなら、相談に応じよう」
本当にそうなるといいのに。そんな思いも、竜たちに引っ張られているからなのだろうけれど。
ふらつき、もつれながらクッションの巣の中にふたりで収まる。大柄なテンヤに合わせて広く場所を取っているが、ショートだってそう小柄ではない。ふたりで入ってしまうと小さく密着するしかなく、汗の匂いが混ざり合う。
強すぎる興奮に一気に意識が混濁し、言葉がうまく出なくなる。
「ごめん。なにも、しないから」
「俺のセリフ取るなよな」
ショートが喘ぐように笑い、甘い吐息が眼鏡を曇らせる。眼鏡は片手では取れなくて、一緒に外してもらった。このまま服もすべて脱がせてくれたらいいのに。君の身体も見せてほしい。くっついて、触れあって、それから、それから。
「……ひどく破廉恥なことを考えてしまった。謝罪する」
「俺も。でも、謝らねえ」
手を握られたまま、自由な方の手でしっかりと抱きしめられる。
ああ、そんな。思っていたよりもずっとずっと。
「会いたかったよ、テンヤ」
髪に唇がそっと触れる。何度も、何度も存在を確かめるように。
ちゃんと返事をしたのかもわからないまま、テンヤは形容しがたい至上の幸福に浸っていた。
このまま溺れてしまってもいいと、涙をこぼしながら。
◇
夢を見ていた。
テンヤが女王竜と絆を結び、砦が上を下への大騒ぎになった頃の夢。
『おまえに何かあったら困るから』
ごめんな、と謝る大好きな兄。その背に追い縋ろうとして宙に浮いた、小さな、頼りない手。
いつも任務の合間に遊んでくれていた兄が、竜に乗せてくれなくなったのもこの頃だった。今ならわかる。契約直後の、絆が定着するまでの数週間は、デリケートな時期だ。よほどの緊急事態でない限り、別の竜には乗らないほうがいいとされている。両親に連れられて他の砦へと移動するときでさえも、自分の竜と一緒に籠で運ばれていたほどだった。
そして、テンヤの契約と時期を同じくして、兄は頭領代理となった。両親が、テンヤと女王竜のための調査にかかりきりになってしまったからだ。できるだけたくさんの人のところに駆けつけるためになるべく身軽でいたい。だから、隊長止まりがいい。そう話していた兄が、突然重責を負うことになった。
必然的に、テンヤはひとりでいることが増えた。それも、ぜんぶ自分のせいだと思い詰めていた。
女王は悪くない。選んでもらったこともうれしい。いちばんの理解者で味方、相棒で、友達。兄は自分の竜についてそう話していた。テンヤも女王とそうなりたかったし、深い愛情をすでに胸いっぱいに受け取っていた。なのに、受け止めきれなかった。
……これは普通の夢ではない。あまりに鮮明な、追憶。しばらく思い出すこともなかったけれど、今となっては懐かしい。でも、いま思い出しているのには理由がある。
そう。これから、出会うのだ。冷たい風の吹き荒ぶ飛行場の端で、昏い瞳で紅い竜たちを見つめていた君に。
子供同士で交流するといいと引き合わされたのが始まりだった。たったの二日間。それが、テンヤの人生を変えた。
あの夜も、こうして泣きながら抱き合って、そのまま丸くなって眠った。そして、朝になって腫れてしまった目を互いに指差し笑いあって——
ひんやりと冷たいものが瞼に触れた。この感覚は知っている。さっき知ったばかりだ。
「……ショートくん?」
「テンヤ」
耳のすぐそばで掠れた声が名前を呼ぶ。視界は冷たい手で塞がれていて、頭の奥にふわふわと温かい調和のようなものが新たに生まれている。テンヤは訊ねた。
「飛行は終わったんだな」
「俺の竜が選ばれた。感じるだろ?」
「ああ、これがそうなのか」
髪にまたキスをされ、身体が熱くなる。
「……わりぃ。つい」
「構わないよ。俺は、どのくらい眠ってた?」
「三十分ほどだ。一段落したから起こしたが、まだつらいか?」
「いや、起きよう。積もる話もあるからな」
そう伝えるが、身体はすっきりしない。まだあの熱が燻っている気がする。テンヤは小さくため息をついてから、言い忘れていたことを伝えるためにゆっくりと身体を起こした。ショートも同じように起き上がる。
「まずは、遅くなってしまったが、おめでとう! これで君が次期頭領だ。これからよろしくな」
「……そのこと、なんだが」
テンヤの明るい声に反して、やや浮かない顔でショートは言い淀んでから、表情をキッと引き締めた。
「俺は、ここを乗っ取りに来たわけじゃねえんだ」
「それはわかってる」
テンヤが即答すると、眉が険しく寄せられた。
「子供の頃、たった二日間一緒に過ごしただけなのにか?」
「最近の君の家の事情なら、それなりに把握しているよ。その上で、君をこの部屋に招き入れた」
ショートの生家では、四人の子供たちが竜聖母とその乗り手に直談判したことにより、父親である頭領が失脚した。己の力に固執し、ある禁忌に妻子と砦の竜たちを巻き込んだからだ。禁忌なので詳しい罪状も手法も明かされていないが、そのかどで元頭領の身柄は現在、中央預かりになっているはずだ。通達があったのが一年前のことで、砦自体が今後どうなるのかはまだ決まっていない。重要な拠点だから、何かしらの対応は進んでいるはずだが。
そんな折にこれまで特に縁のなかった砦での求愛飛行にあの頭領の末子が参加したとあれば、普通は色々と疑ってかかるべきなのだろうけれど。
テンヤは肩を強張らせたショートの手を握り、視線を合わせて伝えた。
「それでもね、俺が信じているのは、ずっと信じてきたのは、俺が空にいるのなら一緒に飛びたいと言って、今日この部屋に来てくれた君のことなんだ」
ショートが目を瞠る。そうだよ、とテンヤは心の中で告げる。忘れていなかったどころか、俺は。
「男で女王竜に選ばれて、あの頃は普通に飛べるのかもまだわからなくて不安だった。前例の記録がなさすぎて、慎重にならざるを得なかったから。だけど、君が信じてくれたから、俺はかつて兄さんと一緒に飛んだ空をふたたび目指せたんだ」
テンヤが話し終えると、色違いの瞳が一瞬潤み、伏せられた。
「君の話も聞かせてくれるかい? 何をして、何を感じ、どう生きてきたのか、教えてほしい」
「愉快な話じゃねえけど、いいのか?」
「もちろん。ああ、でも、さっきも言ったが、ある程度は知ってるんだ。だから、話したくないことは話さなくてもいいし、つらいなら今じゃなくたっていい。君が、話したいと思った時に話してくれたらそれで構わないよ」
テンヤが慌てて並べ立てると、なんだよ、とショートは笑って顔をあげた。
「悠長に構えてたら、爺さんになっちまうぞ」
「それはずっと一緒にいてくれるってことかい?」
ショートの表情がぴしりと固まる。
しくじった。そう理解した瞬間、テンヤはさらに捲し立てはじめていた。
「いや、ずっといてくれるとうれしいというか、竜同士がつがいなのだからそうなるだろう? だが、無理に俺の伴侶にまでならなくてもいいからな! そうだ、ここの同世代に女性はいないが、少し上でも構わないなら誰かしら見つかるだろう。もちろん、故郷に誰か好い人がいるなら連れてきても構わない。だから、これからはよき友人として」
「おまえは、誰かいるのか」
いつのまにか硬直が解けていたショートが静かに訊ねた。
「……いないよ。俺が女王竜に選ばれた時点で、色々と難しいんだ」
テンヤはひと息ついてから、苦笑いとともに説明した。
「あの頃はあまりピンときていなくて説明もできなかったけれど、女王だけは精神感応が他の竜とは比べものにならないほど強いらしいんだ。だから、今日のようになるのは最初だけじゃない。意識が不安定になる上に、相手の竜の乗り手に対してひどく欲情してしまう。それが、年に一度、体質や相性次第ではもっとあるんだ。仕方ないとはいえ、そんな夫は誰だって嫌だろう? つまりは、そういうことだ」
だから、あの悲しげな瞳の男の子のことも、幼い頃の思い出としてしまい込んでいた。竜に乗りたくないと泣いていたのを知っているから、一緒に飛びたいと言われたけれど、再会にはそこまで期待していなかった。ただ、なりたいものになるための勇気を、その思い出に静かに灯してきただけだった。闇夜を明るく照らす、道標のランタンのように。
だから、彼の生家での政変についても、必要以上のことを知ろうとはしなかった。
なのに、どうしてそんなにやさしい目で見つめてくるのだろう。
「だったら俺でいいだろ」
ショートが震える声で囁いた。
「俺だって、おまえが教えてくれたから。竜はいちばんの理解者で味方、相棒で友達になれるって。だから、怖くなくなった。泣く必要も、誰かを傷つける必要もない、おまえを見ていたら大丈夫なんだって思えた」
瞬きとともに睫毛がきらりと光を反射した。
「だから、ここにきた。もうすぐ求愛飛行の時期だと聞いて、飛んできたんだ」
「いつ出てきたんだい?」
「二日前」
さらりと告げられ、テンヤは目を剥いた。
「君、ほとんど寝てないだろ!? 全速力でも倍の時間はかかるじゃないか」
「なんとかなったよ。俺の竜も乗り気だったし。それより、黙って出てきたから、帰ったら姉さんに怒られるな」
「えっ」
「監査役には行き先伝えたから問題はねえハズだ」
ショートは力強く言い切り、一転、視線を落とした。
「でも、おまえがこれまでどうしてたのかとか、誰か大切な奴がもういて、竜同士のつがいももうほぼ決まってるんじゃないかとか……他意があって乗り込んできたと思われるんじゃないかとか。途中でやっと考えることができて、それで登ってくるのが最後になっちまった」
そう言って、ショートは懐から古びた封筒の束を取り出した。テンヤが送った、分厚い手紙たち。たったの三通なのに、ちょっとした報告書くらいの分量があった。それほどまでに、あの頃の自分は伝えたいことがたくさんあったのだ。懐かしさで胸が苦しい。
「届いていたんだな」
「ずっとお守り代わりに持ってた。ただ、あの頃は返事を送る手段がなかったんだ。……俺も竜に選んでもらえたことや、飛べるようになったこと、きょうだいたちのこと、伝えたかった。ごめん」
ショートは外と連絡を取ることを制限されていた。愉快な話じゃないというのは、そういうところも含むのだろう。テンヤは頷く。
「俺こそ、一方的でももっと書けばよかった。迷惑かと思ってやめてしまったんだ」
「普通はそう思うよな」
幼い頃と同じ小さな笑みに、胸の奥が甘く軋んだ。
「君さえよければ、また書こう」
「これからずっと一緒にいるのに?」
握った手がゆるめられ、開かれた。
「……いまさら聞くが、男は無理か? 無理ならさすがに諦めるけど」
口元に同じ笑みを浮かべたまま、テンヤを見据える瞳はせつなげに瞬いている。
「君は、僕に求婚するつもりで来たのかい?」
テンヤがそう訊ねると、少し迷うように唇を噛んでから、ショートは息を吐いた。
「最初は、隣に並ぶ権利を誰にも渡したくないと思っただけだった。だけど、大人になったおまえをひと目見た瞬間、ぜんぶひっくり返った。同じ景色を見て、同じ人々と土地を愛し、守っていきたい。おまえの願うことなら、すべて叶うようにしてやりたい。抱きしめて、触れ合って、愛し合いたい。そのために生きてきたんだって理解した」
手のひらの中央に走る線を、親指がそろそろとなぞる。物語で読んだことがあった。あなたと命運をともにしたいと指先で示す、求愛の仕草。
「気持ちが溢れそうで動けなかった。そこをおまえが飛び越えてきてくれたんだ」
ふたりで空を落ちていく感覚が蘇る。
「おまえは、どう思う?」
「無理じゃ、ない。……君がいい」
答えながら、とくん、と心臓がひときわ大きく高鳴った。
「君こそ、本当に僕でいいのか? さっき、すごい顔をしていた」
「ごめん。うれしくて、抑えようとしてたら変な顔になっただけなんだ」
懇願するように告げられる。
限界だった。尽くすべき言葉はまだあるけれど、それではもう追いつかない。
テンヤはショートの手をやさしく掴み直し、手のひらに口づけた。誤解の余地など残さない。長く、深く、運命の道筋に刻みつけるように。
「きっと、初めて一緒に眠ったあの夜から、ずっと好きだった」
唇を離してから伝える。そんな簡単な言葉には収まらない。それでも、始めるのはここからだ。
「俺もだよ。こんなふうにまた会うことになるとは思わなかったけどな」
手のひらへのキスが返される。同じくらい長く、生命の炎を吹き込むようなキスだった。そして、ショートはテンヤの手をそのまま自分の方へと引き寄せてしまった。愛おしそうに頬をすりつけられ、首がカッと熱くなる。
「叶うなら、ずっとおまえの隣に並びたいと思ってた。……『暁を追いかけましょう、どこまでも』」
「『ともに往きます、空の果てまで』」
そして、ふたりで口上を述べてから気づく。
「……誓いの言葉じゃないか。婚姻式の」
「そのうちまた言うんだからいいだろ。次はおまえから始めたらいい」
「君、意外と大雑把だな!?」
「おまえは流されやすい」
「そうかもしれないが」
ふ、くく、と喉を鳴らしてふたりで笑い、見つめ合う。
「まだ互いに知らねぇことばかりなんだな」
「これから知っていけばいいさ。だって、君は」
「おまえの伴侶になる」
確信とともに告げられたその言葉が、魂に沁み込んでいく。テンヤはもう片方の手をショートの頬に添え、顔を近づけた。
だが、唇が触れようとしたその時。
コンコンコン、とドアがノックされた。
「テンヤくん? 大丈夫?」
なかなか出てこないふたりを心配して、イズクが戻ってきたのだ。
咄嗟に声を張り上げて、返す。
「とっ、取り込み中だ! あとで兄さんのところに行くから!」
「えっ、うん、わかった! 何かあったら呼んでね!」
ぱたぱたと足音が遠ざかり、しん、と静寂が訪れる。同時に、至近距離で大声を上げてしまったことに気づいて、テンヤは顔を青くした。
「うるさかっただろう? 耳は痛くないか?」
「問題ねえよ。それよりも」
顎の下に手が滑り込んでくる。
「取り込み中だろ?」
そして、答える前に唇が重なる。少しかさついて、だけど温かく、わずかに開いた隙間がさらに深い口づけへと誘おうとする。
だが、ふたりはどちらからともなく離れた。
「これ以上は我慢ができなくなりそうだ」
「そうだな。おまえを抱くときは、勢い任せにはしたくねぇ」
誰がどうするのかを一言で決められてしまった。だが、テンヤ自身、ショートをひとめ見た瞬間から受け入れることばかりを考えていた。求愛飛行の熱が引いても、それは変わらない。だから、問題はないだろう。
もう一度、唇をさっと触れ合わせ、名残惜しくなる前に離す。
「それに、あんまり遅いとイズクがまた心配して見にくるだろ」
テンヤは目を瞬かせた。イズク? 彼のことを紹介する余裕など、さっきはなかったはずだ。……もしかして。
「彼のことを知っているのか?」
「知ってるよ。アイツ、武者修行みてえなことして各地を回ってるって言ってて、数年前にうちの砦にも滞在してたんだ。半年か、もうちょっと長かったと思う。調査や討伐には親父といちばん上の兄貴について行くことが多くて、俺とはひたすら組み手ばかりしてたよ。……今度話すけど、恩人でもあるんだ」
「驚いた。世間は思いのほか狭いのかもしれない」
「世界はこの土地よりもずっと広いらしいからな」
どうやらイズクのとてつもない目標をショートも知っているらしい。話や気持ちを整理するのにまだ少し時間がかかりそうだが、なにか素敵なことが始まりそうな高揚感が、思わず笑みとなってこぼれ落ちる。
「ふふ、違いない。では、そろそろ報告に行こうか。汗を拭いて着替えてくるから、ここで待っていてくれ」
慎重に立ち上がり、洗面所へと向かう。途中で保冷箱から冷えた果実水の入った小さなピッチャーを取り出し、木製のコップと共にトレーに載せてショートのところへと戻る。
「よかったらどうぞ。まだあるから飲み切ってしまってもいいよ」
「ありがとう」
トレーを渡すと、手をもう一度握られた。心臓がぎゅっと絞られ、溶け出してしまいそうだ。水面をちゃぷんと乱された果実水のように。
……あのまま抱かれていたら本当に大変なことになっていたかもしれない。
かがみ込んで髪を撫で、赤と白の混ざるつむじにキスをする。
「すぐに戻る。終わったら君も洗面所を使うといい」
「うん、待ってる。ありがとな」
やわらかい声に背を向けて、テンヤは今度こそ着替えを持って洗面所に入った。
上空の遙か遠く、人が一緒には飛んでいくことのできない場所で、女王竜がつがいとともに歌っている。ショートもこれを感じているのだろうか。
聞こえるはずのないその歌に耳を傾けながら、テンヤはポンプを押して洗面桶に水を汲む。冷たくて、目が覚めるほどに心地よい。さっき触れてくれたショートの手と同じ冷たさだ。その温度とは反対に顔がまた熱くなる。
ああ、どうしよう。普段の動作ひとつ取っても、彼をそこに見つけてしまうなんて。
満たされているはずなのに、足りない。まだまだこんなものではない。
風に乗ってどこまでも飛んでいけるような、幾千億もの朝を隣で迎えたいような、この心地。
古くから伝わる誓いの言葉をなぞり、改めて決意する。
ゆっくりと、時間をかけて伝えよう。
そして、テンヤは両手で冷たい水を掬い上げ、目を閉じてから勢いよく顔にかけた。
最初の一歩を踏み出すために。
続くかもしれない!