明日、約束だよ

No.424「エピローグ」前くらいの二人の話。

戦いが終わり、入院先で脚の外科処置が終わった飯田のところに轟が見舞いにくる話。天哉がずっと熱でぽやぽやしてます。ぜんぶこれからな感じ。

アニメ157話が待ちきれなくてワーッとなって書いたやつです。当時の勢いのまま載せています。


 ぼんやりと混濁する意識の中、啜り泣きのようなものが聞こえる。いやだな。戦いは終わったのに、誰かが泣いているなんて。いや、まだ戦いしか終わっていない。未来をつないだけれど、そこへは自分たちの足で歩いて行かないといけない。力を込めて手繰り寄せなくてはいけない。ならば、まだ泣いている人がいてもおかしくはないのだろう。
 早く、速く、辿り着きたい。
 そっと手を取られ、握り返す。ああ、そうか。泣いていたのは君だったのか。
 泣かないで。そう言いたいのに、声がまだうまく出ない。それどころか、ふわふわと心地よくてまた眠りに誘われてしまう。
 君を呼ぶ。とどろきくん。手に力が込められて、少し痛いくらいだ。なのに、もう意識を保っていられない。
 とどろきくん。泣かないで。
 僕たちは、間に合ったんだから。明日はちゃんと来るのだから。


 最初に感じたのは両脚の鈍痛だった。麻酔が切れたのは覚えている。その直後に投与された鎮痛剤はまだ効いているらしく、ギリギリ耐えられなくもない。そう、痛みだけなら、去年、個性を伸ばすためにマフラーを引き抜いたときのほうが、ずっとずっと痛かった。なのに、酷使した脚の器官と全身の筋肉の悲鳴が残響し、ぼんやりと熱っぽく身体を震わせる。
 誰かが額を拭ってくれた。ひんやりと心地のいい濡れタオルを掴む、ざらりと荒れた指先。それは夢うつつの中で、側にいてくれた——
「とどろき、くん」
「いいだ」
 覚えたての言葉のように呟かれた名前に、飯田は薄目を開けて笑顔を返す。薄暗い病室に、よく知るシルエットが浮かび上がっていた。
「起こしちまった」
「目が覚めたんだ」
「……メガネ、いるか?」
 差し出されたそれを受け取り、かける。
「ありがとう。君の顔がよく見える。身体はもう平気なのかい?」
 掠れる声で尋ねると、轟が顔をくしゃりと歪めた。差し出された吸飲みの口を咥えるとちょうどよく冷えた水がとくとくと喉を潤す。それくらい自分でできる、と思ったけれど、一生懸命な表情を見たら止める気にはなれない。それに、水分補給が必要なのは確かなのだ。
「俺は、ほとんど体力の消耗だけだったから。検査結果に問題がなけりゃ、明後日退院だ。病室も人手も足りてねぇらしいし」
 赤く艶のあった髪は度重なる炎の応酬で焼けてしまったようで、反対側の白い髪も合わせてバサバサと広がっている。だが、頰や顎にガーゼを当てられているのと、表情がひどく暗いということを除いては、確かにいつもどおり、なのだろうか。
 最後に姿を見たのは、まだあの戦場にいた時だ。人類の敵となった強大なヴィランに立ち向かう緑谷の元へとみんなで駆けつけて、手を引いて、背中を押した。そこには轟もいたはずだ。なのに、すべて見届けてからの記憶がひどく曖昧だ。
「おまえこそ、大丈夫かよ。起きてすぐ先生に聞いたら手術中だっていわれて、終わったって聞いたから来てみたんだ、けど……なあ。また、走れるん、だよな?」
 泣きそうな顔を向けられ、飯田は思わず濡れタオルごと轟の手を掴んだ。
 ——なんということだ。せっかく送り届けたのに、君はまた迷子になってしまったのかい? ……仕方がないなあ。
「走れるとも。……見た目は、すごいけれど。チューニングと同じなんだ。少し時間はかかるかもしれないが、インゲニウムはより強く、速くなって、必ず君のもとへと駆けつけよう。どこへだって、連れて行ってやるさ」
 一言ずつ、息切れをごまかすように、笑顔でゆっくりと伝える。握った手が冷たくて、思わず火照った頬にぎゅっと当ててしまう。濡れタオルがぺしゃりと枕元に落ちた。
「だから、君が俺のことで泣くことは何もないんだよ」
「泣いてねェ」
「そうか。それは失礼した」
 ぶっきらぼうに顔を背けられてしまった。こっちを見ていてほしいのに。身体の熱に浮かされて、受け答えも思考もどこかおかしい。自覚があるのにどうすることもできない。
 頬に当てた轟の手は、ずっと冷たいままだ。きらきらと氷の結晶が舞うのが綺麗だが、肌が凍ってしまうほどではない。冷やしてくれているのがうれしくて、離してしまうのがひどく惜しくなってくる。そういえば、体育祭では油断して氷漬けにされてしまった。色々と落ち着いて前を向きはじめた頃にはいつか再戦してみたいと思っていたのに、あれからたった一年であんな威力を出せるようになってしまうなんて。おまけに今では炎を使うことをも躊躇しない。勝ち筋を考え直さなくては——でも、いまはそれ以上に、伝えたいことがある。
「君のあの二度目の氷も、とても綺麗だったよ。強くて、逞しくて、本当にやさしい……君そのもののようだった。たくさん頑張ったな」
「俺だけじゃねえ。おまえも、みんなも頑張っただろ。最後まで」
 遮られ、飯田はむっと眉を寄せた。
「そうだけど、いまは僕が君を褒めたいんだ。観念して褒められたまえ」
「斬新な表現だな」
 轟がふわりと笑みを浮かべた。君自身もとても綺麗だな、と思ったので、素直にそう言う。ずっと前からそう思っていた。顔かたちではなく、在り方が、存在そのものが綺麗だ。生き延びたからには、伝えたかった。自分たちの間には本来必要のない言葉だから、返事はなにもいらない。
「熱、やべェぞ。看護師さん呼ぶか?」
「君がいい」
「消灯時間、とっくに過ぎてんだ。無理言っていさせてもらってるから、そろそろ怒られる」
「なら一緒に怒られてあげよう。僕はクラスの委員長だからな」
 轟の喉がぐっと鳴った。そして、少ししてから、笑いを堪えているように手が小刻みに震えはじめた。
「おまえでも駄々捏ねることってあるんだな」
「捏ねてない」
 手がやんわりと解かれて、首に当てられた。轟の指の背を押し返すように、とくんとくんと脈がぶつかる。触れられているせいか、元々の熱のせいか、やけに大きく、深く響く。
 やがて、心地よい冷たさが血管を通して全身に広がっていき、少し身体が軽くなってきた。同時に、微睡が訪れる。
 ——いやだな。もう少し、轟くんと一緒にいたいのに。
「そろそろ離す。たぶん、やりすぎるとダメなやつだから」
 引き止めたい。だけど、そうしてはいけないのもわかっている。
「うん。ありがとう。気持ちよかった……轟くん、好きだよ」
 とろとろと言葉が解けて、心がひとかけ、ころんと転がり出る。そんなところにあったことすら知らなかった、荒れ狂う激情の波間の下にじっと潜んでいたような、つややかで、まあるい気持ちだった。これは、取り出していいものだったのだろうか。よくわからない。でも轟になら、こういうものをいつか見せてもいいと思っていたような気もする。
「……熱が下がっても覚えてたら、また聞かせてくれ」
「繰り返すほどのことでもないのだが」
「俺は聞きたい」
「なら、善処しよう」
 また言葉と思考がずれている気がする。轟がわずかに口の端を震わせ、飯田の首から手を離した。
「明日、また来る」
「うん。約束だよ」
 頬を撫でられ、唇に冷たく、ざらついたものが触れる。轟の指先だと気づいた頃には、瞼が重くなりすぎていた。メガネがそうっと取りあげられ、サイドテーブルにかたんと置かれる。
「じゃあな」
 出ていく背中を見送るまで、意識は持たなかった。
 

 轟が疲労困憊で気絶している間に飯田の手術の優先度が予定よりも繰り上がっていたことは、担任の相澤から通話で聞いていた。
 次のマフラーが正常に生えてくるように割れた部分を除去する。手術と聞いて取り乱しかけたらそう説明され、院内で見かけた飯田の両親の様子からも、何も心配はないのだともわかっていた。それでも、やっと検査以外で部屋から出る許可を得て訪れた飯田の病室で、両脚を吊るされ熱でうなされている姿に動揺して一瞬だけ嗚咽が漏れたのだ。そして、すがるように手を取ってしまった。
 そのせいだ。うわごとで名前を呼ばれたのも、分かりきっていたことを聞いて、泣かなくていいと言われてしまったのも。……あんな言葉を、本当はきっと伝えるつもりのなかった宝物のような思いを、差し出されてしまったのも。
 飯田はヒーローとしてやるべきことをやった。そして、友達として支えてくれた。だから、感謝と尊敬の気持ちだけ抱えていればいい。だけど、友達が傷ついている姿は、心が重くなってしまう。
 平和が見えてきた今だからこそそう思えるのだとわかっていても、その掴みかけた光が遠ざかってしまうような、寄る辺のなさを覚える。
 そんなぐらつきを見透かされてしまったのだろうか。見舞いに来たのに、逆に励まされるなんて。
 洗い場でタオルを洗い、洗面器もついでに洗ってから飯田の病室に戻る。途中、ナースステーションで発熱を冷やしてやったことを伝えると、問題はないが、またするのなら平熱を下回らないようにと注意をされた。いまは人手がいくらあっても足りないから、勝手に手伝ったこと自体は見逃してもらえるらしい。成り行きだったが、間違ったことをしたわけではなかったようで、轟は、ほう、と安堵の息をついた。
 連絡事項も伝え終えた。洗面器を置いてタオルを干したら自分の部屋に戻るつもりだ。その前に飲み水をコップに補充してやったほうがいいだろう。勢いをつけて飲ませてしまって、少し困っていたかもしれない。
 病室に戻ると、飯田はすうすうと静かな寝息を立てていた。額に手を近づけてみても、さっきほどの発熱はない。いまは目も唇もゆるく閉じられ、不安なことなどこの世にひとつもないようなあどけない顔で眠っている。
 潤んだ瞳に見つめられ、まっすぐに『君も綺麗だ』、そして『好きだよ』と言われたのは、やはり幻だったのかもしれない。
 いや、そんなはずはない。火照った頬も、首の動脈から伝わる力強い拍動も、苦しいだろうに轟を安心させようと尽くしてくれた言葉も、すべて本当だった。
 寝顔を眺めながら、言葉がこぼれ落ちる。
「おまえが覚えてたら、な」
 その賭けに勝つ自信はあまりない。だけど、せっかく教えてくれたのだ。もう一度聞かせてもらえたら、その時はちゃんと答えを出してやりたい。
 寮内の共有スペースで交わされる仮定の恋の話をわからないなりに聞いていると、飯田の顔が浮かんでくることがあった。飯田とそうなれたらうれしいと、うっすらと思ったことも。だけど、それ以上のことを考える余裕なんて、いままでなかった。これからも、そんな余裕はないかもしれない。
 答え合わせは早くても明朝だ。飯田の母がきっと見舞いに来るだろう。経過が良ければ相部屋に移されるかもしれない。そうなる前に、二人だけで話す機会はあるだろうか。
 覚えていなければそれまでなのだが、どうなるのか知りたいような、知りたくないような。轟の中でとっくに特別になっていた飯田が、さらに特別になるかもしれない。そうならなくても、大切なことに変わりはないけれど。二人の間の何かが壊れることなんて、あるわけがないけれど、もし仮に、許されたとして。
 ——俺が、触れてもいいのだろうか。
 闘いの中で、炎に炙られ乾きひび割れてしまった指先を見つめる。こうした身体の怪我はいずれ癒え、多少の痕は残るにしても元に戻るはずだ。だけど、戻らないものもある。そのせいで、積み重ねてきた過去や向き合いきれていない痛みで、傷つけてしまったら。
 生き延びたのに、こんなことが怖いなんて。格好悪いと笑われてしまうだろうか。いや、飯田ならきっと笑わない。
 そう、ひとつだけ信じていることが、轟にはあった。
 ——おまえと話せば、怖くてもきっと大丈夫。結論がどうなったとしても。
 常夜灯の明かりだけを頼りにタオルと洗面器を片付け、空になった吸飲みにウォーターサーバーから水を足し、飲み口をアルコールタオルで拭いておく。
 そして、最後にもう一度声をかける。
「また明日な」
 返事は当然ない。それでも、さっきよりも幸せそうに見えるのは、轟自身の願望だろう。
 轟は引き戸を静かに開けて、明るく照らされた廊下に踏み出した。振り返り、戸を閉めはじめると、一条の光が吊るされたままの飯田の脚にかかる。
 明日は来る。だから、不安はもうなかった。


おわり