あふれてしまう、その前に

2025年6月イベント無配の再録です。拙作『We Are Golden』のこぼれ話です。


 

 おまえの目って、不思議だよな。朝焼けとか、夕焼けみてぇな色してる。
 昨日そんなことを言われたせいで、朝からずっと気になってしまっている。赤だけでなく飴色、琥珀、金色や橙色、暗いところでは青く見えることもある、などと言われたけれど、飯田に自覚はまったくない。両親や兄に聞いてみたくても、あいにく今朝は時間がなかったし、何よりどうにも気恥ずかしい。
「どうしたの? 目にゴミでも入った?」
「ああ、いえ。少し気になることがあっただけです」
 待機場のテントの中、手鏡で目元を確認する飯田に、はい、とよく冷えた缶コーヒーを渡してくれたのは、ここ保須市で地元のヒーローを集めたチームを組んでいるヒーロー、マニュアルだ。学生時代の職場体験の際に多大な迷惑をかけたにもかかわらず、飯田をその後もインターン生として受け入れてくれた懐の深い恩師であり、卒業後はそのままサイドキックになるつもりだったところ『地盤がすでに出来ているのなら、それを維持していくのも地域のためになるし、甘えてるとは思わないけどな』と、兄の事務所を継ぐことを勧めてくれた人でもある(もっとも、たいした実績もないうちに代表になるわけにはいかないと飯田自身が強固に主張したため、現時点ではまだサイドキック扱いで正式に継いでいるわけではないのだが)。
 平均を自称しているが、そのリーダーシップからは今でも学ぶことがとても多く、マニュアルと一緒に仕事をする機会を飯田はいつも大切にしていた。今日も市民祭りの警備担当として同じ班に配属されているが、マニュアル側から指名してくれたと聞いている。少しは頼もしくなってきたということだろうか、と喜びつつ、飯田は改めて気を引き締めて現場入りしたのだ。
 その頼れる先輩は、まだ少し心配そうに飯田の様子を窺っている。休憩中とはいえ気を緩めすぎただろうか。手鏡をコスチュームのケースに戻し、礼を言ってから渡された缶コーヒーのプルタブを開け、ひと口飲む。ミルクの甘さが溜まりはじめた疲労を癒し、飯田はつい、ほう、と息をついた。
「気になることって、何かあったの?」
 そう尋ねるマニュアルはメモ帳を取り出して、何かを書き留めている。おそらくは活動報告書と事務所内向けの日報用に巡回中の出来事をまとめているのだろう。飯田も同様にスマートフォンの記録用アプリに入力をしながら答えた。
「仕事とは関係のないことなのですが……昨日、目の色が不思議だと言われたんです。光の加減や見る角度で変わったりするらしいのですが、あまり意識したことがなかったので、自然光でも改めて確認してみたかったという、それ、だけ……」
 不可解な視線を感じ、顔をあげる。にまにまと表情をゆるませたマニュアルの様子に、飯田は首を傾げた。
「なにか面白いことでもありました?」
「いやぁ、春だなあって」
「いかにも、春まつりですが」
 ふふふ、と楽しげに笑う先輩ヒーローを気にしつつ、飯田はメモの記入を終えて、テーブルに置いていた缶コーヒーをまた手に取る。
「で、相手はどんな子なの?」
 ここでようやく、ちくりとした痛みとともに気づく。
 ——春とは、そういうことか。
 飯田は慎重に苦笑いを浮かべ、答えた。
「ご期待に添えなくて申し訳ないのですが、それを教えてくれたのは轟くんなんです。俺に交際相手はいないので」
 そう、轟は違う。一度、軽率にも告白をしてしまったけれど、その後も変わらず友人でいてくれる轟焦凍。告白とはもちろん、恋愛感情の自己申告だ。だが、轟とは結局、友人以外の何かにはならなかった。なれなかったのだ。
「そっかあ、見当はずれか。あ、セクハラみたいなこと言っちゃってごめんね。その、あんまりうれしそうだったから」
「いえ、俺はそうとは思わなかったので大丈夫です。ですが、他所では気をつけたほうがいいでしょう」
 大きく手を振って伝えると、マニュアルは「おっしゃるとおりです」と魚の背鰭を模した自身のヘルメットの頭をぱしんと叩いた。
「いやー高校生の頃から知ってるインゲニウムに春が! ってつい盛り上がっちゃった。面目ない」
 両手を祈るように合わせるその姿は心を和ませるが、気の利いた返しはできそうにない。突かれた図星はずきりと痛みはじめ、当然恨めしく思ったりはしないが、しばし言葉を失わせるにはじゅうぶんな衝撃を伴っていた。
 ——うれしそう、か。
 休みが合えば、新幹線を使っても二時間はかかる距離を移動してまで轟に会いに行く。もちろん、轟が東京に出てきて会うこともあるが、どのみちそう頻繁にあることではない。昨日だってプライベートでは一ヶ月ぶりに顔を合わせたのだ。
 いや、ヒーロー業に従事している以上、それは頻繁といえる範疇に入るのではないだろうか。一時期は通学していた距離とはいえ、学業や仕事という正当な理由もないので、わずかに後めたさを覚えることもある。
 親友だから、と自分に言い訳をしても、同じく親友であるはずの緑谷にはそうやっていそいそと会いに行ったりはしない。もちろん、緑谷とも興味のありそうな催しなどがあれば誘いあって出かけたりはするけれど、用がなくとも顔を見にいくようなことはしていないのだ。
 言い逃れはできないし、するつもりもない。飯田天哉は、轟焦凍に恋をしていた。三年前と変わらず、いまでもまだ。
 その感情を無理に忘れずとも、きっとそのうち笑い話くらいにはなる。穏やかに、誠実に時間を重ねていけば、いつか。そう思っていたのに、轟のいちばん上の兄が亡くなって会いに行った日から、飯田は確信が持てなくなっていた。
 これは、もっとうまく飼い慣らせないものだろうか。たとえば、目の色のことを指摘されたくらいで動揺しない程度には。それもそのうち訪れる境地なのか。
 仕事中に考えたいことではなかった。だから、無理にでも気を逸らしてみる。
「そういえば、マニュアルさんは観葉植物にお詳しいのですよね? お聞きしたいことがあるのですが」
 不自然な話題転換だったが特に気にしていないようで、マニュアルは「なになに、なんでも聞いて!」と軽やかに笑みを見せてくれた。
「実は少し前に、轟くんに増やしすぎたポトスを貰ってきたのですが、今ものすごく元気で、ぐんぐん育っているんです。これはそろそろ植え替えたほうがいいのでしょうか?」
 スマートフォンの画面に弾けんばかりの緑あふれる写真を見せると、「最近暑いからねえ」とマニュアルは頷いた。
「いつ増やしたやつか聞いてる?」
「去年の夏だそうです。もらってきたのは冬前だったかと」
「そっか。じゃあ、根っこが鉢の下から出てきてなければこのままでいいよ。ボリュームが気になるなら、もう少し暑くなるまで待ってから剪定するといい」
「寒い時期はよくないのですか?」
 雪が降りそうな心細い夜、動けない轟の代わりにひとりであの部屋に向かったことを思い出す。
「うん、基本的には避けたほうがいいんだ。南のほうの植物だから寒さには弱いんだよ」
「そうなんですか。真冬に枯れた部分の剪定を手伝ったことがあったのですが……もしかすると、轟くんの部屋が特別暖かいのかもしれません」
 思い返せば、室内に入ればメガネが即座に曇るほど、外気温と室温に差があった。
「部屋の断熱性が良いのかな? 炎熱系の〝個性〟もあるし、おかしくはないね。そうそう、ポトスはね、剪定ついでに緑の葉っぱを茎をつけたまま水に挿しておくと、そこから育つんだ。小さいコップとかでいいんだけど、ショートくんもそうやって増やしてたんじゃない?」
 確かに覚えがある。持て余していると言っていた貰い物のグラスやノベルティのコップに、切り取られた小さな葉っぱたちがちんまりと並んでいるのを見たことがあった。ままごとのような光景を微笑ましく思って尋ねると、こうすると増えるんだ、と言っていた。次に会った時にはもう小さな鉢に移されていたので、途中経過は見ていない。
 はい、と頷くと、「ガラスの鉢なら根っこが育つ様子も楽しめるし、虫もつきにくいよ。水はこまめに替える必要があるけど」とマニュアルは勧めてくれた。
「いいなー、俺のとこ、ポトスないんだよね。お袋が欲しいっていうから、去年あげちゃったんだ。確かにデカくて立派だったから、俺の部屋より実家の方がのびのびできるんだろうけど」
 やっぱりまた買おうかな、と羨ましそうに目を細める先輩に、飯田は、ふむ、と少し考えてから提案する。
「なら、俺のところで無事増やせたら差し上げましょうか? 轟くんのように次から次へととはいかないとは思うので、必ず、とはお約束はできませんが」
 マニュアルはぱちりと目を瞬かせた。
「お、いいの? なら、ぜひ。でも無理はしないでね。結構雑に扱っても平気ではあるけど、あんまり小さく剪定しちゃうと光合成のための面積が減るから」
「肝に銘じておきます」
 ヒュン、と勢いよく腕をあげ宣言すると、マニュアルは、楽しみにしてるよ、と微笑んだ。

 

 ただいま帰りました、と玄関で帰宅の挨拶を告げると、おかえりなさい、とリビングのほうから母の声が届いた。手洗いうがいを済ませてから一度顔を出し、自室へと向かう。
「ただいま」
 そう声をかける相手は、この部屋のもうひとりの住人——両手にすっぽりと収まるほどの小さな鉢にこんもりと生い茂るポトスだ。緑はつややかで、白い斑点が機嫌よさそうに照明を照らし返している。
「また伸びたんじゃないか?」
 一昨日の写真と比較してもわからないが、佇まいからしてそんな気がする。マニュアルに教えられたとおりに鉢を持ち上げて根が出ていないか確認してみるが、まだ問題はなさそうだ。土は湿っているので、水やりも必要ない。
 鉢を窓辺の定位置に戻してから、飯田は寝巻きを取り出した。夕食はマニュアルたちと、入浴は事務所で済ませてきたので、あとは歯を磨いて、明日の仕事に備えて休むだけ。もうかなり遅いから、読書の時間は取れなさそうだ。
 轟に連絡するのも、明日のほうがいいだろう。この時間ならもう休んでいるだろうし、そうでなければ夜勤のはず。詳しいスケジュールは把握していないから、どちらなのかはわからない。緊急出動にならなければいい、互いに。そう願いながら開いたメッセージアプリを閉じて、充電パッドにスマートフォンを置いたところでそれは突然振動した。
 通話でも緊急のコールでもなく、メッセージが一通、そしてもう一通。轟から送られてきたそれは、ひとつは休みの予定を伝えるもので、もうひとつは画像のようだ。
 開いてみると、マニュアルと並んで警備のパトロールをしている最中、ヘルメットの上部をちょうど収納したところの写真が現れる。ヒーロー関連のニュースサイトのスクリーンショットだろうか。
 すぐに追加のメッセージが来る。
〝顔出してるなんて珍しいな。暑かったのか〟
〝確かに暑かったよ。おかげでポトスくんも元気いっぱいだ〟
 その場で写真を撮り、送る。
〝うれしそうだな、こいつ〟
 轟のその短い言葉に褒められたような気がして、頬がじわりと熱くなった。
〝そうだといいのだが。もう少し暑くなったら、俺の方でも増やしてみようと思う。今日、マニュアルさんに教えてもらったんだ〟
〝詳しいのか〟
〝観葉植物がご趣味なんだ。有意義なお話が聞けたぞ。もちろん、仕事のほうでもたくさん得ることがあった〟
 返信が一拍、二拍滞り、〝うらやましいな〟と届く。
 不思議な言葉を選ぶ、と首を傾げつつ、飯田はもう一度返信した。
〝君も聞きたいことがあるなら会えないか頼んでみるが。伝言でも、食事会でも〟
〝機会があれば頼む〟
 遠慮がちな言葉にまた首を傾げるが、続いて二、三やり取りを交わしているうちにその違和感はどこかへと逃げてしまった。
 おやすみ、と送りあってから寝る支度を済ませ、飯田はベッドに潜り込んだ。そしていつものように、眠りにつく前のひとときで一日を振り返る。だが、ここでも心を占めるのは轟のことばかりだ。
 さっきも鏡の中から見つめ返した瞳の色は、やはり変わらなかった。自分ではわからない微妙な差なのかもしれない。あるいは、心の裡の何かが目からこぼれてしまっていた、とか。飯田は、まさかな、と思いつつ、閉じたまぶたの下で目を泳がせる。
 それにしても、特に珍しいわけでもないこの色を不思議だと言う轟こそ、瞳に片方ずつ違う色を宿しているのに。そして、まっすぐに見つめられると、飯田はいつまでもその場に縫い止められていたくなってしまうというのに。
 轟が世界に相対するときの、豊かでどこか繊細な感性。視線ごとそれが自分に向けられるたびについ心躍ってしまうのは困るが、断じて轟のせいではない。己を律しきれていない、飯田自身の問題だ。
 だが、それがきっかけで、今日は面白い話が聞けた。
 物事はどこに転がるかわからないし、どう収まるかもわからない。だからといって、期待なんてするはずもないけれど。
 薄目を開け、暗がりにポトスの影を見つける。轟の部屋から大事に運んできたそれは、飯田がうまく増やしてやれたら、マニュアルの部屋にも置かれることになるだろう。
 欠片だけでも、轟との友情の証が誰かのところに息づいている未来。轟との繋がりを示すものはもちろん、これだけではない。だけど、切り分けて育てることで、いつか飯田の手の届かない、違う景色の中へと旅立っていく。
 そんな想像をしてみると、行き場をなくした恋心が少しなだめられるような気がした。
 なんと大仰で、放っておいたらどんどん育ってしまう、手のかかる感情なのだろう。
 飯田はゆっくりと深呼吸をする。
 ——あふれてしまう前に、収められてよかった。
 そして、教えてもらったことを改めて本で確かめて復習しようと決めたところで、ようやく瞼が重くなる。愛おしい痛みも、甘い高揚も、ぼんやりと睡魔に溶かされていく。
「ポトスくんも、おやすみ」
 そう声をかけてから、飯田はふたたび目を閉じた。
 その晩、飯田は夢を見た。青々とあたりを埋め尽くす緑の中で、轟と途方に暮れている夢だ。ポトスのハート型の可愛らしい葉っぱが大小問わず愉快そうに揺れていて、草いきれにくらくらしながら、二人は困っているはずなのに笑いあっていた。
 例年よりもずっと早い夏日を迎える前夜のその夢の中で、空の色は赤から淡い金になり、やがて橙へと滲み、藍に沈んでいった。
 そして、空に星が瞬きはじめるまで、二人は寄り添っていた。
 どこでもないその場所で、ただ生命に包まれていた。

おわり