デート企画に巻き込まれた半田が何かを自覚し始める話。改題しました(旧題「嘘偽りなくあるために」)。初出2022.03.13, pixiv。
地獄か。
カシャカシャというシャッター音をバックに引きつった笑みを浮かべてから口を開けば、プルプルと震えるスプーンが差し込まれる。温かく濃厚なダークチョコレートの生地ととろける中心は落ち着いて味わえばきっと美味なのだろうが、このトンチキ極まりない事態に直面して繊細な味覚にまで割く脳のリソースはない。
近くでカメラを構えているのはいつもの悪友ではなく、オータム書店が手配したカメラマンだ。母が当選した時とは違って、今回のデート企画は誌面にその様子が後日載るとのことだったが、事前に承諾していたとはいえ気まずいことこの上ない。
雑誌やネットのロナルド目撃情報のついでで顔が割れていることもあり悪あがきで髪を下ろして軽く変装してきたが、赤いフレームの伊達メガネも左耳の真鍮に青い石が嵌め込まれたイヤーカフもひどく煩わしい。というか、絶望的にチャラい。普段の印象とは違って、かつ「推し活」に勤しむファンらしく見せたいからと、隊長やサギョウに聞いたのが失敗だった。写真を撮られるといっても顔出しを断ればいいだけだったのに、よほど動転していたようだ、と半田は香ばしいコーヒーを啜りながらクラシカルな内装を彩るロマンチックな照明とテーブルに載ったキャンドルのゆらめきを順繰りに眺める。しかし、隣の赤色が愚かな質問を投げたおかげで現実に引き戻された。
「お、美味しいですか?」
「あ、はい、とても」
「すごくチョコレートですよね」
「あはは、そうですね」
半田の視界の端には物陰にうまく隠れられないまま固唾を呑んで見守る母と母のオタク友達(一名欠席)がグッと親指を立てている。
地獄だ。悪夢だ。それでも、母をがっかりさせたくない。
その一心で、半田は自分の皿に載ったラズベリーとホワイトチョコレートのケーキをフォークでひと口ぶん掬って、ロナルドの口に突っ込んだ。
発端は数か月前のこと。
とある女性誌でロナルドの特集が組まれた。表紙こそいま一番勢いのあると言われている男性アイドルグループが飾ったけれど、それでも初めての媒体での四ページにわたるカラーグラビアとインタビューの特集とあれば、オタクは盛り上がらざるを得ない。
しかし、そのアイドルグループこそが曲者だった。……いや、かれらは何も悪くない。ただ、そのアイドルたちもまた、表紙に掲載されるのは初めてのことだった。
こうして、全国のみならず海外にもファンのいるアイドルグループのオタクと、首都圏ではあるけれど比較的地味な地方都市を拠点とする吸血鬼退治人で作家のロナルドのオタクがぶつかって競り合った結果、早い話が「負けて」しまったのだった。
勢いと熱意は誰よりもあるけれど何かと生活が忙しい面々が気づいた頃には予約終了に次ぐ予約終了、ネットオークションやフリマアプリでは十倍近くのプレミア価格がつけられ、転売にだけは手を出すべからずという固い信念のもと、半田の母のオタク友達は誰も肝心の雑誌の実物を目にすることも叶わなかった。ただひとり、複数の書店で間一髪、予約ができていた半田桃以外は。
それだけレアな雑誌を複数部入手していたとはいえ、手放すのには相当な覚悟が必要だった。別に、母にそうしろと迫られたわけでもない。ただ、友達の不運を本気で嘆いている母を少しでも慰めたかった。それだけでなく、「雑誌は土壇場で入荷しないこともあるから絶対に複数個所で予約したほうがいい」とずっと前にとあるロナリストからアドバイスを得ていたのにそれを共有することを怠っていたのが心苦しくて、母に渡す分と観賞用と保存用とスクラップ用を除けばちょうど人数分残ったそれを半田は譲ることにしたのだった。
そして季節は巡り、ロナ戦ファン向けのバレンタインデート企画に応募した母の友達がめでたく当選した。母が自分のことのように喜んでいたのを半田はよく覚えている。
ここで終わればめでたしめでたし、だったのに。
当選発表直後の年明け。
その友達が急に決まった親戚の結婚式に出席しなくてはならなくなった、となぜか電話の向こうで声を弾ませた母に伝えられた。半田は訝しんだが、世界一やさしい母が誰かの不運を喜ぶはずがないと、話の続きを促した。
『あのね、ももちゃん。よかったら、代わりにロナルド様とのデートに行ってもらえないかしら?』
なんでも、例の雑誌のお礼に、いえ、むしろドタキャンなんてロナルド様に申し訳なさすぎるので私を助けると思ってぜひ貰ってほしい、オータム書店にも確認済みだ、と友達に押し切られ、いや、快く譲っていただいたとのことだった。
困ったことになった、と半田は午後十一時の新横浜警察署の通話用エリアで隊服のコートが床に着くのにも構うことなく、思わずしゃがみ込んでしまった。
ロナルドとデート? 冗談じゃない、というのが嘘偽らざる本音だ。
ロナルドで遊ぶのはいつだって面白いし、醜態を暴く計画を立てている時は母の目を覚まさせるという使命感に燃えていると言っても過言ではない。それとは別に、カメ谷との三人で遊ぶのは、昔からの腐れ縁だし、仕事につながることもあるので矛盾なく楽しめる。
だけど、デートは。
まず、デートとは、なんだ。
ロナルドと、宿敵と定めたバカと、していいことではない気がする。
半田はぐるぐると葛藤した。
あいにくその日はとっくに休みなのが決まっているから断る口実もない。
それ以前に、母のやさしさや喜びを裏切ることなんてとてもできない。
だから、嘘はいけないけれど。
『本当か、お母さん! ありがとう、とても嬉しいぞ! お友達にもお礼を伝えてもらえるか?』
『もちろん! よかったわね、ももちゃん』
半田は知恵熱で頬を紅潮させながら、母の喜ぶ様子に大げさに喜んで見せたのだった。
ロナルドには当然その場で連絡した。
『……というわけで貴様とデートをすることになった。いいか? 貴様のせいでお母さんをがっかりさせたら今度こそ社会的に抹殺する』
直接事務所に乗り込んでくるのではなく珍しく電話をかけてきた半田にロナルドは最初こそにこやかに応対したが、すぐに半田の剣幕に押されたのか、無様に喚きだした。
『ウエーン、最初のやつよりさらに地獄!!』
『お母さんとのデートが地獄だったとでも言うのか貴様ァ!! 今度という今度は許さん!!』
『ごめん、うそ、うそだから、ガチめなやつやめろよぉ』
めそめそと嘆くロナルドの声はいつにも増して悲哀に満ちている。いつもならそれを聞けば半田の胸もすっと晴れるのに、今回ばかりはそんな余裕もないし、なぜか胸の奥がつかえてひどく苛ついてしまう。
『俺が親切にも心の準備をさせてやるのだ。せいぜい感謝しろ』
『テッ、テメーこそいらねえもん持ってくるなよな』
『当たり前だ。俺を何だと思っている? NGリストには従うし、お母さんがロナ戦ファンの皆様にオタクとして非難されるような行動は慎むから安心しろ』
『普段からそうしろバーカバーカ』
『ほう? デートの相手にずいぶんとナメた態度だな?』
『ごめんなさい。調子に乗りました。俺が悪かったデス』
こうして打ち合わせをして、電話の向こうのドラルクに笑われながら会話のシミュレーションと練習を重ね、一週間後、決戦の日を迎えたのだった。
「こちらの施設のPRも兼ねていますので、あらかじめ指定させていただいた場所での写真撮影を行います」
以前、ロナルドの事務所で一瞬だけ顔を合わせたことがある担当編集者であるその男は、半田の姿と名前を確認しても特になにも言わなかった。話を通してあるのか、下手な変装が功を奏しているのか、それとも企画さえ成功すれば半田が何者であるのかは問わないということなのだろうか。
予定を説明される。まずは水族館の期間限定バレンタイン夜間展示を回る。それから近隣のレストランでディナー。最後は夜景スポットでの記念撮影。
「内容は以上です。よろしいでしょうか」
はい、と承諾すると、物腰柔らかでいてどこか得体のしれない威圧感を放つその男に「では、ごゆっくりお楽しみください」と告げられ、半田はデートの相手を盗み見た。
案の定、そこには大量の脂汗を流しながらへらへらと笑うバカがいた。
「じゃ、行きましょうか」
別に手を繋いだりする必要もないのに「エスコートします」とばかりに腕を差し出され、半田は腕を組むフリをしてこっそりロナルドの脇腹に肘鉄を喰らわせた。
「ってえ、何すんだよ」
小声で凄まれて、半田も凄み返した。
「何の真似だ、お母さんの時はこんなことしなかっただろうが」
「あ、そうだよな。ごめん」
ロナルドが腕を引っ込めて、それでもいつもより近くに寄り添いながら、ふたりは連れ立って水族館のエントランスをくぐった。
オータムのカメラマンが撮影場所に先に移動していると告げ、半田はロナルドとふたりで取り残された。緊張感が一気に抜けたのか、ロナルドがふう、と息をついて、少し先の大水槽を見上げて呟く。
「キレイだなー」
「ああ、そうだな」
歩きながら素直に同調したのに驚いたのか、ロナルドが半田のほうを急に振り向いた。
「何がおかしい」
水槽のライトアップを背に翳った表情は、ふにゃりと崩れていた。
「なんか、お前と一緒でも意外とちゃんとデートっぽいかも、って安心しちゃって」
ざわり。
首筋の毛が一気に逆立った。
これは、なんだ。嫌な感じではないのが不気味で嫌だ。
半田は早くも帰りたくなってしまうが、ここで逃げるわけにはいかなかった。
「う、浮かれるなアホルド、これはデートであってデートではないぞ! その証拠に後ろからお母さんとお友達がそれとなくついてきている」
声がわずかに裏返るが、ロナルドはそれを気に留めずにあたりを見渡している。
「マジかよ。よくわかるな」
「お母さんの気配を俺が感じられないはずがないだろうが」
「それもそうか」
赤いジャケットに大きな影が落ちる。見上げると、ロナルドの後ろをエイが優雅にひらひらと横切っていった。少しばかり肩の力が抜ける。
「時間が限られているのだろう? せっかくだ、いろいろ見ながら乗り切るぞ」
グッと拳を握るとロナルドが縋るような目つきで半田を見つめた。
「半田ぁ……」
「ええい、クソッ! 主催者側のくせにそうやって目を輝かせるな! まずはこの大水槽から攻略する!」
サメを目で追っていたかと思うとウミガメに小さく歓声をあげた横顔に、さっと影が差す。顔を上げるとサバの群れがつるつると泳いでいった。
「うまそー」
「貴様は期待を裏切らないな」
「なんだよ、お前だってちょっとは思うだろ。あ、今度カメ谷も誘って寿司食いに行こうぜ」
アレも食えるやつかな、とロナルドがまた抑え気味に呟いて、銀色の群れを目で追っていく。ついさっき、母の気配が遠ざかったと告げた途端にロナルドは目に見えて緊張感が抜けてはしゃぎだし、それが半田を苛立たせた。
企画だということを忘れやがって、いつもどおりだな、と半田が歯ぎしりしていると。
「お前は? なんか面白いものあった?」
気の抜けた笑顔で訊かれて、半田は咄嗟に答えられなかった。
「……魚が綺麗だな」
「それはもう言ってただろ」
「エイがでかい。サメも」
「だな」
行こうか、と促されて順路を進む。壁にあしらわれたハートやリボンが不自然にきらきらしい。
「ところで、壁の装飾以外どこがバレンタインなのだ?」
「実はこれがあって」
カードを一枚差し出され、よく見るとロナルドも同じものを持っている。
「ここから先はスタンプラリーになってて、ペアで完成させるとちょっとしたプレゼントがもらえるんだって」
ほら、と小さなネオンブルーの魚がたくさん泳いでいる水槽を示される。白い壁に鮮やかな赤いモールのハートが掲げられ、その下にスタンプ台が設えられていた。
「お待ちしておりました。こちらで一枚撮影させていただきます」
カメラマンの指示でふたりは壁のハートを指差す。
「では笑顔でお願いしまーす!」
ちゃんと笑えていたかどうかは最早どうでもよかった。半田はロナルドと一緒にそれぞれハートを抱えた魚のスタンプを台紙に押して、次の展示へと向かった。
白熊の岩山、ペンギンのトンネル、熱帯魚、深海魚、ウニ、クラゲ——それぞれの展示の前でスタンプを押していく。
カメラマンの撮影した写真は毎度確認させてもらえた。しかし、いつもの飾り気のない笑顔ではなくよそゆきのロナルドの顔を小さな画面で見るのは胸がむかむかと落ち着かない。きっと前夜よく眠れなくて胃が荒れているせいだろう、と半田はすでに結論づけていた。それでも母や母の友達のために最後まできっちりとやり遂げないといけない。「仕事だろうが、シャキッとしろ」と小声で何度も喝を入れ、その度にロナルドは半田に「ごめん」と同じくらい小声で謝った。
「イルカは見られないんですか?」
ロナルドがカメラマンに尋ねたのは、スタンプがあと二つとなったところだった。
「夜間展示では見られないそうですよ」
「そっかあ、残念です。でも、イルカも休まないとですよね」
心底残念そうなロナルドに、そんなのまた今度いくらでも見に来ればいいだろう、と言いかけて、カメラマンの存在を思い出して踏み止まる。別にこのひとに半田とロナルドが知り合いだと知られたところで特に問題もなさそうだったが、あまり親しげにして後でボロが出るのも不本意だったし、何よりなぜそんなことを自分が言ってやらないといけないのだ、言ったところで休み下手なコイツが自発的に水族館に遊びに来ることなどないだろうから無駄になってしまう、そう思うと歯痒くて仕方がなかった。
「半田、大丈夫? 疲れてないか?」
終点で待っていると告げて移動を始めたカメラマンの姿が見えなくなってからロナルドがひそひそと耳打ちしてきた。
「疲れていないと言えば嘘になるな。調子が狂いっぱなしだ」
「違いねえな」
よそゆきが少しだけ剥がれた本音。半田はロナルドの顔をじっくりと観察した。
「なんだよ」
さっきは全く余裕がなくて気づけなかったが、ロナルドの顔にも疲労が滲んでいて、締め切り前後ほどではないがうっすらと隈が浮かんでいる。会ってすぐにそれを把握できなかったほど焦っていたことにも愕然とするが、こういった企画の時は万全の準備で臨むロナルドの状態を不審に思って、半田は顎を掴んでリンパ腺を探した。
「寝ていないのか」
特にひどい体調不良ではなさそうだ。
「そりゃあ、いつも通りというわけにもいかなかったし」
うなじのあたりを揉みながらロナルドがあくびを噛み殺した。
「顔が弛んでいるぞ。『ロナルド様』はどうした」
今日は何度これを伝えただろう。必要なことだからいつものように煽るように言い続けるほかなかったが、なぜか今日ばかりは外の冷気が忍び込んでいるかのように冷え冷えとしたものが足元から昇ってくるようで、半田は歯軋りをした。バカみたいにカッコつけたロナルドをコケにできないことがここまで心労を蓄積させるとは予想だにしていなかったが、そこに混ざる不可解な落ち着かなさもだんだんと無視できなくなっていた。
「わり。でも、お前とフツーに来れたらもっとちゃんと楽しいんだろな、とか思ってさ」
イルカ見たかったなあ、水族館といえばイルカだよなあ、と呑気な様子がいっそう腹立たしくて、言われたことの咀嚼も不十分なまま半田はとうとう脳内で新作セロリトラップの設計を始めてしまった。
図面を引き、噴射力を計算しながら順路をたどり、それぞれスタンプをぽんぽんと押して、ようやく終点に着く。最後の最後だけ屋外だったが、意外と暖房設備がしっかりしているのかそこまで寒くない。
待ち構えていたカメラマンと水族館のスタッフと例の編集者に迎えられ、瞬時に表情を整えたロナルドに倣って半田も気を引き締めた。
「お疲れ様でした! スタンプカードを拝見しますね」
カードを差し出せば、スタッフが手早く確認を終えてすぐ返された。そして、では、こちらへ、と案内されたのは、半田がさっきから頑張って視界に入れないようにしていた場所だった。
諦めてしっかりと見据えると、そこにはピンクと赤と白のハート型のアーチが聳え立っていて、手をつないだ可愛らしいラッコのイラストがぶら下がっている。
「わあ、可愛いですね」
営業用の声でロナルドが無難なコメントを述べた。
「可愛いですよねー! ラッコは元々海の生き物なので、野生の個体は潮流に流されないようにコンブに手を巻きつけるのですが、水族館だとコンブがないので互いに手をつなぐ習性があるんです。それで今回のバレンタイン企画でもラッコをフィーチャーしてみました。残念ながら当館にはいないんですけどね」
いないのかよ、と内心でツッコんでほんのわずかに落ち込みかけて、半田は愕然とした。さっきのロナルドと大して変わらない思考にきりもみ回転で退散したくなったが、見守っている母たちに心配をかけるわけにはいかない。いつもならとても安心するやさしい気配がはっきりと近くに感じ取られてピリリと緊張感が走る。
「お母さんがいる」
「え、どこ」
「そこの柱の陰だ。お友達とゴールまで先回りしてきたのだろう」
冷や汗をかき始めるロナルドの失礼さにいますぐセロリでつつき回してやりたい衝動をぐっとこらえ、アーチの下に並んで笑顔を作る。
「せっかくなので、手でハートを作ってみましょうか」
促されて、半田は親指と人差し指で半円を作り、同じように半円を描いたロナルドの指とくっつける。
お母さん、見ていますか。俺は今、宿敵のアホと並んで無様にも写真を撮られています。でも、あなたの桃は強い子です。お母さんの幸せのためならどんな艱難辛苦だって乗り越えてみせます。
手紙のような文面を考えながら正気を保っていると、いつの間にか撮影は終わっていて、スタッフがまた寄ってきてふたりに記念品を差し出していた。
それは、すぐそこにぶら下がっている、この水族館にはいないラッコを描いたイラストのキーホルダーだった。
水族館から出ると夜風が冷たく、首に巻いたマフラーが心許なく感じられた。レストランまでは歩いてすぐということだったが、そこにたどり着くまでの遊歩道もまたきらきらとライトアップされて、ありとあらゆるところにハートの飾りが乱舞している。
「こういうところ、よく来られるんですか?」
側に案内役の編集者が控えていて、かれの手前なにか会話をしなくてはならないとロナルドは考えたのだろう。
「いえ、普段は仕事が忙しくて、休日もロナ戦の読み込みや園芸などの趣味に費やしているので、あまり」
ロナルドは「ロナ戦」という言葉に顔に喜色を浮かべ、「園芸」という言葉に頬を引きつらせた。半田はその間抜けさに久々に少しばかり満ち足りた気分を味わった。
「そ、そうなんですか。あの、お仕事は公務員ということでしたが」
お見合いか、バカめ、と怒鳴りたいのを抑えて、半田は静かに答える。
「夜勤が多くて、昼夜逆転しがちなんですよ。急な呼び出しも多いので、出掛けてもあまりゆっくりできなくて」
「退治人と同じですね」
「ははは、そうですね」
会話が途切れたところでレストランに到着した。コートを預かられ、撮影用のセッティングが雰囲気の邪魔にならない程度に施された半個室へと通され、向かい合わせではなく正方形のテーブルの隣り合った辺にそれぞれ座らされる。
事前に電話越しにシミュレーションした当たり障りのない会話をぎこちなく交わしながら食事を進めても何を食べているかもよくわからない。それでも味は悪くないし、今度両親を連れてきてもいいかもしれない、と喜ぶ母の顔を思い浮かべた半田が会話の合間に思わず微笑むと、ロナルドが目を見開いてなにかを言いかけてやめた。
とうとうデザートが運ばれてきて、最初に選んだものがそれぞれ目の前に置かれる。すぐにフォークを取って突き刺そうとするロナルドを半田が制すると、カメラマンに軽く会釈をされた。ごめん、と小さく謝る声に六分目くらいに満たされた腹がきゅっと縮こまるように沈む。そんな反応がなぜ起こったのかわからないまま、指示通りに笑顔を作った。
見つめ合ってください、と言われて、えっ、と固まるバカの足をテーブルの下で蹴とばす。おう、とぼそりと呟いて、まなざしに悲壮な決意を宿らせたロナルドが満面の冷や汗をかいたまま、半田の目をしっかりと見据えた。
瞬間、ふたりの間で火花が散った気がした。瞳の青がぎらりと瞬き、退治現場で交わされるアイコンタクトよりも濃密な、嫌がらせをしたときの恨みがましさよりも鮮烈な輝きを帯びて睨んでくる。
ガンを飛ばしてどうするのだ、ともう一度足を蹴る。すると、ロナルドの目元から力が抜けて、唇がギギギと音を立てるかのようにわざとらしい笑顔に歪んだ。
「うーん、せっかくだからそのデザート、食べさせ合ってみるのとかどうですか?」
カメラマンの提案に、え? とロナルドと半田は同時に声にしていた。きゃあっ、と母たちの抑えきれない歓声が聞こえてきて、注意がそれる。
「おっ、俺は平気ですけど、半田さんは?」
「あ、僕も、はい、大丈夫です」
ロナルドの形相に、しまった、と気づく頃には「じゃあそういうことで」と話がまとまっていた。
デザートの皿もコーヒーカップも空になり、ひと息ついたらまた会話が途切れた。
「おくつろぎのところ失礼します。そろそろ——」
救いの一声に何と返事をしたのかもよくわからないままレストランを出る。
こちらです、と案内されたのは先ほどの遊歩道だった。少し戻って分かれ道を進むように説明してから担当編集者とカメラマンは先に行っていると告げ、半田はロナルドとともに取り残された。母の気配もそちらと一緒に移動している。ロナルドとふたりにしてくれる気遣いが嬉しいやら情けないやらで頭が痛い。
「行こうぜ」
いつもどおりの砕けた口調に、さっきは冷え冷えとしていた夜風がいまは清々しく感じられ、半田は自分が想定していたよりもずっとずっと緊張していたことにやっと気づいて苦笑した。
「なんだよ」
悲痛を滲ませた文句に、普段のロナルドを相手にしている時ならけっして刺激されない罪悪感の表面がわずかに毛羽立つように浮きたった。
「いや、案外骨が折れるものだな、常に注目されているというのも」
しかし、半田が珍しくねぎらいの言葉を口にしたというのに、ロナルドは気まずげに目を逸らした。
「あー……なんか、ごめんな? 俺もここまで密着だとは思ってなくて。ファンのひとならもっと楽しめるんだろうけど、きつかったよな」
さっきは爽やかに感じられた夜風がやけに冷たくて、目の前がくらりと揺らぐ。
目の前をさっと影が過ぎり、半田の額にひんやりとした、でも夜風よりは温かいものが触れた。
「なあ、お前、ほんとに大丈夫? フクマさん呼ぼうか? その辺で多分それとなく見てるはずだし」
「……平気だ」
手袋を外したロナルドの手を甲を額から除けて、一瞬の戸惑いののち、そっと握ってみる。
「うん? どうした?」
「来月」
半田はロナルドの手を離さずに、しっかりと目を見て伝える。
「イルカを見に来るぞ」
「あ、そうなの? お前も気になるんだな。じゃあ、後でどうだったか教えてよ」
街灯と街灯の間は暗く翳っている。ロナルドの表情が視界でうまく像を結ばない。だけど、そんなことは気にせず、半田は、バカめ、と続ける。
「貴様と見に来るのだ。そのくらいわかれ」
「え」
「休みの予定は後で送るから適当に空けておけ」
「ちょ、えっ、なに」
そして、半田はロナルドの手を引いて目的地まで大股で歩き出した。
こんな茶番はさっさと終わらせてやる、とばかりに。
そうだ。茶番だ。それなのに、重大なことにようやく気づかされた。
ロナルドと過ごす時間を、半田は見せ物なんかにしたくはなかったのだ。
母の手前、お友達の好意を無碍にはできなかった。それでも、見られている時の当たり障りのない会話よりも、ふたりだけになってからのいつもの気安い応酬がよかった。知らないカメラマンが撮る取り澄ました営業用スマイルなんかより、ロナルドの笑顔も泣き顔も自分が引き出して、自分にだけ向けてほしかった。
この気持ちに、あの出会った日から胸の中で暴れ続けている衝動に、つける名前などわからない。
だけど、今日のこの「デート」を二人きりでやり直したい。イルカを見せたらどんな顔をするのか見てやりたいし、ラッコ……はいないけれど、巨大水槽の前で魚を指さしてはうまそう、うまそうと間抜けな声をあげるのもずっと聞いていたい。そう思ってしまったのだから、仕方ない。
「ロナルド」
「は、はい?」
特に見なくても、どんな表情をしているのかはわかる。それでも、その不思議そうな顔を半田は横目で眺めた。
そして、嘘偽りのない言葉をロナルドに伝えた。
「今日は今日で、有意義だったぞ」
「……へっ、そうかよ」
お前らしいな、と笑うロナルドの嘘偽りのない顔を、半田は自分以外の誰にも見せたくないと思った。
最後は薔薇のアーチの下でもう一度写真を撮り、簡単な感想を述べた後、解散となった。
半田はその後、母とそのオタク友達にもみくちゃにされ、ごはん足りなかったでしょ、とあれこれ聞かれながらファミレスでいろいろとご馳走になってから解放され、次の日は仕事だったから寮へと戻った。
帰寮してからようやくスマホを見た半田は、あの後すぐにロナルドからメッセージが入っていることに気づいた。開けてみると、とっくに知っているロナルドの休業日が羅列されている。
「バカなのか」
頬が緩むのに気づかないまま半田は自分の予定を入力してロナルドに返信し、そのまま水族館のサイトを開いてイルカショーの時間を調べはじめた。
その手には、ラッコが仲睦まじく手を繋いでいるキーホルダーが握られていた。
おしまい