決壊して

これはキス?それとも事故?と悶々と悩むロナルドのところに半田がやってくる話。R15程度だけどキス止まり。初出Privatter、2021.06.02


 ——あれはただの事故でキスなんかじゃない。
 ろくでもない考えごとをもう一巡させてからロナルドは勢いよく起き上がった。明け方もだいぶ過ぎてから気絶するように入眠したせいか寝汗が気持ち悪くて頭もしゃっきりとしない。寝乱れた髪をさらにぐしゃぐしゃと掻き乱してシャワーへと向かったロナルドは、未だ冷たい水をかぶり、それが熱くなるのを待ちながら、再度自分に言い聞かせる。
 あれはキスなんかじゃなかった。意識するほうがおかしい。

「だいたい貴様があんな至近距離から撃ち込むから離脱が遅れるのだ」
「うるせー、俺が対応してたのに斬り込んできたてめーがアホなんだよ」
「死角にいたのにフレアを出さなかった貴様がバカなのだ」
「出したけどアレに飲まれて消えちゃったんだよなあ」
「フン、やはり貴様が迂闊だったのではないか」
 昨晩は吸対との共同作戦で下等吸血鬼の大群の駆除に当たっていた。数時間にわたる駆除の末、退治人も吸対も体力の限界に近づいていたその時、ひときわ大きな個体が突然現れてロナルドと半田が同時に向かっていったのだが。
 運悪く動線が重なったため、離脱の際にロナルドが半田に激突し、塵になる前の下等吸血鬼の体液をふたりして頭から思いっきり被ってしまったのだった。
 接触した量が量なので念のためVRC行きを言い渡されたふたりは、ぎゃあぎゃあと言い合いをしながら目的地へと向かっていた。いつもどおりのうるさいやり取りの中だったが、ロナルドとしては、またひとつ無事に現場を切り抜けられたことにほっとして、汚れにまみれて冷えた身体を安堵がぽかぽかと温めていた。
 それで油断したのかもしれない。
 ロナルドは、少し前をずんずんと勢いよく歩いていた半田が急に止まって振り返ったことに気づかなかったのだ。
「おいとまれうおぉっ!?」
 ふにゅ、と唇に当たるやわらかいものと、小さくて、少し冷たくて硬いものがふたつ。
 身体中がぐちゃぐちゃで、変なにおいまでしているはずなのに、そこだけは絶妙に気持ちよくて、ロナルドは半田と唇と唇と目と目を合わせたまま、しばらく歩道に佇んでいた。
「……!! なにをする!!」
 先に反応したのは半田だった。額に青筋を立てて怒る姿に、ロナルドはどこか釈然としない思いを抱く。ぶつかっただけなのに、あんまりだ。だけど。
「ごめん。ぼーっとしてた」
「……貴様が間抜けなのはいつものことだったな」
 半田は憮然とそう切り捨てて、VRCへの残りの道のりの間じゅうずっと押し黙ったまま冷たい怒気を放っていた。そんなに怒ることねえだろ、とぶつかった当人が言えるはずもなく、ロナルドも無言で歩き続けた。
 そして、検査が終わって、それぞれの帰路について。
 帰宅して同居人に用意してもらっていた風呂に浸かってひと心地ついたその時に、ロナルドは気がついた。
「あれってキスじゃん……?」
 いやいや。
 いやいやいや。
 洗ったばかりの頭をブンブンと振ると水滴が勢いよく飛び散る。

 事故だ。あれはただの事故で。
 キスなんかではない。
 だって、俺は初めてで、初めてはもっと大切で嬉しくて甘酸っぱいはずで。
 なんで半田なんかと。

 薄くてやわらかい唇に、外気に触れて冷えた犬歯。そういえばマスクの中までどろどろになってしまったと言って外していたな、と半田の口元を思い浮かべたらもうダメだった。
 湯気の向こうにぼんやりと映る顔を見つめながら、ロナルドはふやけはじめた指先で唇をなぞる。鏡像が示すのは自分の動きであると理解しているのに、ここに半田が触れたのかと思うといますぐ走り回りたいような衝撃に押しつぶされてお湯に頭まで潜り込んで叫んだ。
 半田とキスした。
 いや、してない、あれは事故だ。
 ロナルドの頭の中でこのふたつがぐるぐると回り続ける。それは夜食の間も続き、ドラルクがちゃんと味わって食べない奴はセロリのおばけに呪われるんだぞと言い出したので、泣きながら一発殺したあとは集中して食べた。しかし、寝る支度をする頃には「事故」が優勢だったのが、照明を落とす頃には「キス」に傾き、寝られないままいくら考えても結論が一切出なかったのだった。

 昼間の書類作業や装備の発注などの雑事に取り掛かる頃にはいったん「それ」については保留にできていたものの、結局あまり身が入らないままロナルドは夕刻を迎えた。
「ひどい顔」
 起きてきた同居人に開口一番、煽りもなくシンプルにそう言われ、また明確な殺意を込めて砂山にしてしまった。しかし、抗議とともに鏡を見てこいと口うるさく言われてしぶしぶ洗面所へ向かうと、鏡の中には脱稿直前に三徹した時よりもさらに憔悴しきった顔が映っていた。
「……たしかにひでえな」
 バシャバシャと冷水で顔を洗うと少しはマシになった気がした。幸い既に入っていた仕事の依頼はギルド経由の合同のもので、新規の依頼人に応対する必要はない。ロナルドは事務所のドアに「退治中」の札を下げ、支度を始めた。
 

 単純だが骨の折れる吸血野菜の駆除を終えた頃には疲労が相当溜まっていたようで、側溝にひとりだけ足を突っ込んでサテツとショットに驚かれた。そして、報告書は書いておくから早く帰れと促され、助け船はありがたいものの原因が原因なので、ロナルドはすっきりとしない気恥ずかしさを抱えて帰路についた。
 事務所までの道のりが異様に遠く感じられた。階段の一段一段がいつになく高い。夜食は明日に回してもらって今日はもう寝てしまおうと決めて、メビヤツをひと撫でしてから帽子をかけたその時、ロナルドは窓際に佇む人影に気づいてビクッと身を跳ねさせた。
「うわ、半田」
 来てたなら言えよ、と言おうとして、あまりに真剣かつ不機嫌そうな半田の面持ちにロナルドはたじろぐ。例によって仕事中に寄ったのか、いつもの制服姿だ。眉間をぐっと寄せていつになく鋭い眼光でロナルドを睨みつける半田の唇は固く引き結ばれていて、ロナルドは前日の衝突を思い出して、動揺を押し殺すように尋ねた。
「……なんかあった?」
 ロナルドの問いに半田は少しだけ目を逸らして、珍しく口ごもっている。
「……かった」
「えっ、なに?」
 不明瞭な言葉にロナルドが聞き返すと、永遠とも思えた沈黙の末、半田はようやくいつもの尊大な調子で口を開いた。
「昨日のことだが。互いに不本意なことだったのに、貴様にろくに謝ることもしなかったのはさすがに悪かった」
「なんのこと」
 思い当たることはひとつしかなかったが、平然とした半田の様子にロナルドはなぜか軽くいらだちを覚えた。
「あの……事故の、ことだ。唇が接触した」
「なんだよ、それ」
 ——俺が一晩中悩んで苦しんでいたというのに、こいつはあっさりなかったことにしようというのか。
 ただの寝不足ではない、脳内リソースを限界まで費やしてもなお答えの出なかった、半田がいままさになかったことにしようとしている問いに取り組んでいたがゆえの寝不足のせいで、頭がうまく回らない。
 それだけに、半田にとってはさっさと謝って済む程度の話だったということがなんとも恥ずかしい。なにひとつ意識していない様子が悔しい。
 己の思考回路が妙な方向に舵を切っていることに薄々気づいてはいたけれど、軌道修正をするほどの理性も気力もロナルドは持ち合わせていなかった。
「なんなの、お前? いつもは絶対に謝らないくせに、なんで今回だけ」
「悪いか」
「平気そうな顔しやがって」
「なんの問題がある」
「俺、初めてだったのに」
「だからあんなものは事故だと言っているだろう。俺だって貴様などと初めては、その」
 半田が赤い顔で震えながら言い淀んで、ギリ、と歯を食いしばってロナルドを睨みつけた。その顔に無性に腹が立って、ロナルドは半田に無言で詰め寄った。
 ——俺ばっかり意識して、バカみたいだ。
 気がつけば、半田の胸ぐらを掴んで、目を閉じるのも忘れて音もなく唇を押しつけていた。半田の瞳が大きく揺れて、ロナルドは唇をほんのりと押し返す圧を頭の片隅に疑問符とともに捉えながらも、ざまあみろ、と珍しく先手を取れたことに優越感のようなものを覚えていた。
 しかし、それも長くは続かなかった。
 ——これはまずい、のではないか。
 やってしまった。なにを血迷ったのか、自分から無理矢理キスをしてしまった。謝りにきた半田に。ロナルドは青褪めて、慌てて唇を引き剥がして、我に返って半田の制服の襟を離す。
「えっ、あっ、ごめん、あれっ? なんかほんと、ごめ……んむっ!?」
 しかし、咄嗟に口にした謝罪は重なってきた唇の間にこぼれ落ちてかき消えた。
 退治人衣装のジャケットの下にするりと手が差し込まれる。薄いインナー越しに触れられたところが妙に熱い。もう片方の手は後頭部をやんわりと押さえ、押し当てられた唇の隙間から漏れる重たく熱く湿り気を帯びた吐息がロナルドの舌をくすぐった。
 ぱちぱちと瞬きをして、ロナルドは自分のおかれている状況をようやく理解した。
 ——半田に抱きしめられてキスをされている……?
 混乱するロナルドの眼をじっと見つめながら、半田が「ごめん」の「ん」のかたちのまま閉じられなかった唇に舌をゆっくりと割り入れてきた。尖っていて分厚いそれが自分の舌に重ね合わされるだけで、ロナルドの腰から背筋に沿ってふわふわとした温かさがじんわりと登ってくる。
 キス、だった。ぶつかるだけじゃない、ちゃんとしたキス。やわらかくて、艶めいた予感を秘めたキス。なぜか舌まで入れられて、どうしてか気持ちよくて、完全に言い逃れできないキス。
 真面目で几帳面な性格の半田らしく、あるいはやかましくて無駄に元気な半田に似合わず、そろそろと粘膜が擦り合わされて、あむ、と喰むように唇に軽く力が入る。犬歯をロナルドの唇に当てないようにしているのか、口が大きく開けられ、隙間から唾液が、つつ、と溢れて口の端に溜まって、やがて決壊して。
 押しのけるのはきっと簡単だった。だけど、ロナルドはなぜかそれがどうしても嫌だった。口の中をおずおずと探る未知のやわらかさが気持ちよくて、周りからは距離感がおかしいと言われる相手のいつもより格段に近い体温が心地よくて、普段はロナルドをからかっては愉快そうにきらきらしている金の瞳が蜂蜜のようにとろりと揺らめいて。
 もっと、ずっとこうしていたい。
 ロナルドが抱きつくように背に腕を回すと、半田の息が少し乱れた。唇をもう少しだけ開いて舌を軽く吸うと、腰に回された手に力がこめられ、もう片手がもがくように軽く髪を梳いた。目を閉じると、ぬるぬると口の中を這う感触が脳の奥まで届くようでたまらない。ロナルドは思わず自分の舌を半田の口腔内へと乱雑に突っ込んだ。慎重さのかけらもない、ぴちゃぴちゃと音を立てながら掻き乱すようなキスも嫌がられてはいないようだった。舌が犬歯を掠めると、喉の奥からくぐもった振動が伝わってきて、ロナルドが不可解な衝動に突き動かされてわざとそこをつついては吸っていると、半田が急に口の角度を変えて主導権を奪い戻した。
 さっきよりもより大胆に半田の舌が口の中を動き回り、上顎のやわらかいところをゆるゆるとなぞる。初めてのくすぐったさはすぐに未知の甘やかな感覚に変わっていき、判然としないそれをロナルドが貪欲に受け入れて身をさらに密着させると、半田の手がすっと宥めるように背中を抱き寄せた。
 すべて暴かれて明け渡してしまいたい、そんな気分が湧きあがってきてロナルドは困惑する。
 ——相手は半田なのに、どうかしてる。
「んっ……ふぅ……んむ」
 思わず漏らした声に反応したのか、半田がぴたりと止まって、そして弾かれたように勢いよくロナルドから離れた。力が抜けて、ロナルドは机に片手をつく。
 顔が熱くて、もう名残惜しい。自然と指先で唇をなぞってしまう。
「なあ、半田……」
 ——気持ちよかった。なんかエロくてどきどきした。お前なのに、嬉しかった。なんでだよ。
 言葉が消えた。なにを言うべきなのか、まったくわからない。
 ロナルドがぼんやりと逡巡していると、半田がふらふらと窓辺まで後ずさった。
「わ、忘れてくれ」
 そう言い残して半田が窓から去っていこうとする。
 ロナルドは半田の腕をすんでのところで掴んで、自分の上に覆い被せるように床に引き倒した。
 椅子が弾き飛ばされてガラガラと大きな音を立てて転がっていく。刀の鞘が床にぶつかり、鈍い音を響かせる。
「忘れられるかよ、バカだろ」
 間近に見てもわかった。耳の先まで真っ赤に染まった顔に、困ったように歪んだ眉とわずかに伏せられた目。唇はさっきの応酬に色づいて、まだ濡れている。
 そのまま起き上がって帰ることだってきっとできるはずなのに、そうしないのは。
 細かいことはどうでもいい。都合よく解釈してやる。散々悩み尽くしたおかげで、いまはもうこれしか考えられないから。
 ロナルドはやっと言うべき言葉を探り当てた。
「もっとチューしようぜ、半田」
 ごくり、と半田が喉を鳴らす音がロナルドの胸に振動した。

おわり