終わってしまった片想いをなかなか手放せないロナルドの思い出と夢の話。初出Privatter、2021.05.16
ロナルドの初恋は、始まった瞬間、あっけなく終わった。
「お前ほんと——のこと好きだよな」
「……そんなはずあるか。ヤツは敵だと言っているだろう」
教室に入ると同時に聞こえてきた会話。ロナルドがロナルドになる前の、兄妹以外にはもうあまり呼ばれることのないその名前で知られていた頃の話だった。
いつもやたらと突っかかってくるし、日替わりで降りかかるアホみたいな事態の数々もそいつのせいだったけれど、友達だと思っていたし、「敵」はなんか物騒だけど「ライバル」ならマンガみたいでちょっといいかも、なんて子どもらしい憧れのようなものもあったかもしれない。
そんな奴に「好き」をあっさりと一刀両断されたことが妙につまらなくて、靴箱に突っ込まれていた大量の上履きを抱えて右往左往する姿を指差されて笑われても、怒る気力があまり湧いてこなかった。毎日のようにバカみたいに飽きもせず敵だのバカだのと言い募られているのに、その日だけはいつものように受け流すことができなくて、もやもやを溜めたまま過ごした。
それでも日常は過ぎてゆくものなので、次の日からはもういつもどおり挨拶を交わして他愛のない話をしてはふざけ合いながら過ごしていた。少しだけ違ったことといえば、新たに覚えはじめたかすかな胸の痛みと不思議な高揚感を持て余しはじめていたことだった。
たとえば、敵だって言ってるけど、やっぱりやさしいとこあるじゃん、とか。
バカだって怒られたけど、やっぱり自分のために言ってくれているのかな、とか。
嫌がらせしてこなければ、結構カッコいいのに、とか。
こうして言動の裏に「いいところ」をつい探してしまう。
それは「恋」と呼ばれる類のものなのではないか。しばらくしてからそう思い至ったときに、ありえない、と一蹴することができなかった。一方でその「恋」には多大な勘違い、もっと言ってしまえば願望や妄想の類のものもたくさん含まれていること、ゆえにそこには一切の可能性も残されていないことにも気づいてしまった。
やさしいのは誰にでも。バカと怒られたのはバカだから。嫌がらせをされるようないわれはやっぱり思い当たらなかったから、そこはしっかり反撃するけれど。
あまりにも独りよがりで間抜けな顛末に、少年は痩せた肩をふるわせて風呂の中でちょっとだけ泣いた。そして長風呂にのぼせてしまっておなかを出して寝ていたら風邪を引いて、バカは風邪を引かないなんて迷信にもほどがあるな、と翌日散々からかわれ、不味いのど飴を口に放り込まれた。
こうしてロナルドの初恋は終わった。終わらせた、はずだった。
ノートパソコンの前でロナルドは、居眠りというには深いところまで意識を沈めていた。開かれたページは綺麗な白紙で、数時間後の運命を明確に示唆している。
急に何かが触れた、そんな気がして飛び起きた。
大きく開かれた窓からは初夏のすこし冷たい夜風が吹き込んでいるだけで、周囲に不審なひとの気配はない。同居人の吸血鬼とその使い魔の愉し気な声が居住スペースから漏れ聞こえてきて、間抜けな勘違いにロナルドはひとり赤面した。
さっきまでロナルドは、締め切り前の気分転換を兼ねてパトロールに出ていた。
午前零時を回った頃。特に大きな騒ぎもなさそうだったので事務所に戻ろうとしたとき、見慣れた白と紺の制服姿のふたりを視界の端に捉えた。鮮やかな緑色の髪と、艶やかな黒髪の二人組。近づいて話しかけるかどうか迷って、ロナルドは起き抜けに見た夢を思い出して、踏みとどまった。
それは高校時代の一幕に似ていたけれど実際起こったこととはまったく異なる、ただの不定形な願望のようなあやふやな夢だった。登場人物は自分と、さっきちらりと見えたダンピールの男、半田桃。ロナルドの、一瞬で終わってしまった初恋の相手。
何がどう、とは覚えていないけれど、その夢はぽわぽわとやわらかくて幸せで、ロナルドはもう何年も前に終わったはずなのにずっと捨てきれていなかった甘苦さを今日は特に強く感じていたのだが。
ロナルドの姿を見咎めた半田は、凄まじい勢いで駆け寄ってきた。半田の連れが慌てて追ってくるけれど、かなり引き離されている。
暇なのか、こいつは。
やや身構えたものの今日はなにかを投げつけられることもなく、こんな時間にほっつき歩いて締め切りから逃げるとは無様だな、だとか、今度こそお母さんも目を覚ますに違いない、また隅から隅まで読み尽くしてやるから覚悟しろ、などと捲し立てられる。多少いらつきながらもこうして話せていることをひそかに喜んでしまい、ロナルドは少し後ろめたくなった。
後輩のサギョウ君が追いついて、いつも本当にすみませんね、とぺこぺこと頭を下げながら、ほら行きますよ先輩、と半田を引っ立てていった。
思いがけない邂逅に、ロナルドはふわふわと浮足立ち、そして同時にどっと疲れていた。それもすべて、妙な夢を見たせいだ。おかげで帰宅してからも落ち着かず、かなりの時間をロスしてしまった。五時間もあれば終わる見込みとはいえ、早く取り掛かるに越したことはない。
時刻は午前二時。本当は一度寝てしまったほうが頭もすっきりするだろう。それでも、飛び起きた時の興奮でいま眠りにつくのは難しいであろうこともわかっていた。
居住スペースを通って洗面所に移動する。冷水で顔を洗いながら、ロナルドは終わってしまった片想いをひとかけらずつ丁寧に心の中の箱にしまいなおした。
将来の目標が近いところにあった。それだけでぐっと親近感を覚えて、仲良くなりたいと思った。冴えた顔立ちも、大きな犬歯を見せて楽しそうに(主にロナルドの醜態を)笑う姿も、ロナルド以外には真面目で親切な態度も、好ましく思っていた。
出会った頃には既に大人のような体格で羨ましかったし、じゃれつかれて抱かれた肩にかかる腕の力強さにそわそわと地に足がつかないような気持ちになったのも一度や二度ではない。それはロナルドが半田の身長をほんのわずかばかり追い越して、筋肉量だって同じくらいになってからもう何年も経ついまでも、ほとんど変わらなかった。
この想いを捨てられずにいることをロナルドはとうの昔に諦め、納得していた。どれだけバカみたいに粘着されても、どうしても嫌うことも、遠ざけることもできなかった。怒りのあまり窓から投げ飛ばしたりもするけれど、半田がめげることはなく、また新しい仕掛けとともに来襲するのがいつしか当たり前になっていた。
いつだって本気で怒っているつもりなのに、何度だって許してしまう。
同居人にはチョロいと言われるし、確かに依頼を受けても必要以上に頑張ってしまうこともあるので、実際そうなのだろう。だけど、半田には、半田に対してだけは、違うのだ。
蛇口の栓を締め、同時に心の箱にも蓋をした。これは終わったこと、と自分に言い聞かせながら洗いたてのタオルで顔を拭いて居間へと戻ると、さっきは気づかなかった甘くていい匂いがする。
「俺の分は?」
「もちろんあるとも。まだ作業するんだろう?」
皿に山盛りに重なるパンケーキを、取り皿に三枚。バターとシロップとホイップをかける。
「まだあるからな。私を崇めながら食べるように」
「おう。ありがとな」
スナッ、とドラルクが死んだ。そして再生しながら。
「急にどうした? まーた妙な催眠でもかけられたのか?」
「……なんだよ」
「今日はばかに素直じゃないか」
「別に普通だろ。俺だってお礼くらい言うわ」
そうは言うけれど、確かに多少ぼうっとしていたかもしれない。
ロナルドはきまりが悪くなり、大きめに切った分厚いパンケーキをひと切れ口に突っ込んだ。ほんのりと不思議な香ばしさに、なんだろう、と訝しんでいたら、先日雑穀と豆のパンケーキミックスを分けてもらったのだと説明された。
「半田くんのお母さんがたくさん買いすぎたそうでね。置く場所がないから貰ってくれと、持ってきてくれたんだよ」
思いがけない、というほどでもない。半田はドラルクの友達でもあるのだから。それでもロナルドは、知らずに半田と同じものを食べていたのか、とくすぐったく温かい気持ちになった。そして、それは顔にも出ていたようで。
「うわっ、なにその顔……気持ち悪いな」
不審がる視線をごまかすようにもぐもぐと咀嚼して飲み込んで、次のひと切れも口に突っ込んだ。牛乳をごくごくと流し込んで、同じく幸せそうにパンケーキを頬張っている可愛いアルマジロと顔を見合わせる。
「うまいなージョン?」
「ヌー!」
山のようにあったパンケーキはやがてすっかり消えて、約束されていたもうひと山も食べ尽くされた。
皿を下げて事務所側へと戻る。
パソコンを開く前に、半田にお礼のRINEを送ろうと思い立った。しかし、ロナルドが文才のすべてを動員してたっぷり十分かけて書いたのは。
——パンケーキうまかった。ありがとう。ジョンも喜んでた。
たったそれだけだった。お礼としてはそれでじゅうぶんだし、それ以上のことは書く必要もないのに、ロナルドはなんとなくがっかりした。
しかし、いまはそれ以上に書かなくてはいけないものがある。メッセージに適当なスタンプを添えて送信し、少し暑いな、とジャージを椅子の背にかけて、意を決してパソコンを開く。そして、表示された純白のページにうめき声をあげ、ヘアバンドを締めなおしてから、よし、と小さく呟いて、ロナルドはキーボードを鳴らしはじめたのだが。
資料やメモをめくりながら書き進めては止まり、書き進めては、止まり。カタカタと軽快な打鍵音はゆっくりと、まばらになり。
やがて、すうすうと規則正しい寝息に取って代わられたのだった。
夢の続きはさっきよりもたしかな手触りと輪郭を帯びてロナルドを迎え入れた。
場所は事務所だろうか。ロナルドは退治人衣装のままパソコンの前に座っていた。夢の中でも仕事だなんてちょっと悲しいな、と自他ともに認めるワーカホリックは己の想像力の乏しさに呆れた。
風の流れが感じられない。振り返ってみると、いつもは開けてある窓が閉まっている。
いけない。これではあいつが入ってこられない。
立ち上がってクレセント錠を回し、窓を開ける。すると、半田がいつものように桟を踏んで入ってきた。
ずっと待っていたのだろうか。可哀想なことをした。
半田は真剣な表情にきらきらとした瞳でロナルドを見つめている。そんな顔を初めて向けられて、夢の中なのにロナルドの胸は小さく跳ねた。
用でもあるのか、と訊こうとしても言葉が出ない。あまりに切実な視線に射すくめられてしまって、怖くなってロナルドは一歩下がる。すると、半田がとても悲しそうな顔で俯いて、ロナルドもつられて悲しくなる。そんな顔するなよ、そう思った瞬間、半田は窓から出てそのまま消えてしまった。
待ってくれ、と追いかけようとしても窓がぴしゃりと閉められて出られない。
仕方なくパソコンの前にまた座る。そしてキーボードを叩きながらまた眠りに誘われ、夢の中でも寝てしまうとはよほどのことだ、と可笑しくなった。
机に突っ伏し、目を閉じてじっとしていると、やがて誰かの手が、す、と髪に触れた。直感的に半田の手だとわかった。実際に触ってみたことは数えるほどしかない。だけど、ちょっと冷たくて骨ばっていて、ロナルド自身の手と同じくらい大きかったのは覚えていた。
その手は遠慮がちにロナルドの髪を撫で、それからやさしい手つきで梳いていった。時折り耳を掠める指がせつなくて、もっと触れてほしくなった。
心地良さに身をゆだねながらも、ふつふつとさみしさが込み上げる。
こんなふうに触れてもらえる日は未来永劫こない。
これは半田ではない。
願望が煮詰められただけの、きれいな幻なのだ。
むなしくて、あさましくて、涙が出そうだ。
それでも。
夢だとわかっていても嬉しかった。
やがてロナルドの意識はぼんやりと混濁していき。
もうすこしだけあのままでいたかったな、と残念に思いながら、ふたたび深い眠りが訪れた。
ぴたり、とひんやりとした物体が頬に当たり、ロナルドは目を開けた。
「……んだよクソ砂」
冷たいものの正体はロナルド愛飲のエナジードリンクの缶で、それをロナルドの顔に当てているのは同居人の吸血鬼だった。
「おはよう、ロナフライくん」
壁掛け時計を見ると時刻は夜明け少し前。締め切りまで数時間。
がば、と飛び起きると、肩からジャージが滑り落ちた。
かすかに覚えた違和感。しかし、いま考えるべきはそれではない。
目にかかる前髪をかきあげながらパソコンのスリープ状態を解除すると、幸い寝落ちる前に書いたものは自動保存されていた。ヘアバンドもパソコンの隣に畳まれて置かれている。
「エナドリやめてコーヒーにするかい?」
「いや、これでいいわ。お前もう寝るのか?」
「まだもうちょっと起きてるよ。気が変わったら教えろ」
巻き込まれたくないからな、さっさと終わらせろよ、と以前の締め切り破りを思い出しているのか、身震いしながらドラルクは居住スペースの方へと姿を消していった。
ロナルドもつられて軽く身震いをした。そういえば事務所の中がだいぶ冷えている。
時間が時間なので、ロナルドはデスクの後ろの窓を閉めようと立ち上がって、そして。
「なんだ、これ?」
昼間の開業前に掃除したばかりの窓の桟に泥がわずかに付着している。色々と忙しかったし、ふき方が甘かったのだろう。とりあえずティッシュで軽く拭ってから、窓を閉めて錠を回した。
そして、床からジャージを拾い上げて羽織りながら、はたと気づく。
「なあ、ドラ公? 俺のジャージ触った?」
「だーれが触るか! ロナ臭で百回死ねるわ」
「そうだよな、ありがとよ。後で殺す」
勘違いか。いずれにしても些細なことで、いま追及することではない。
ヘアバンドを上げる。指が髪に触れて、急にさっきの妙にクリアな夢が思い出されて顔が熱くなった。
——なにあれ、イタい。いくら夢でもあれはない。
髪をかき乱して転げ回りたくなる衝動と心臓の早鐘をなだめながら、エナジードリンクのプルタブを上げ、中身を豪快に呷る。人工的な毒々しい味に意識がはっきりと覚醒していく。
ロナルドはふと思い立って、さっき閉めたばかりの窓を大きく開け直した。
そして、パソコンに向かい、キーボードを猛烈に叩きはじめたのだった。
おわり